日本名城探訪記〜近畿編〜
姫路城
概要
別名「白鷺城」。大天守閣と3つの小天守、これらを結ぶ渡櫓は国宝指定。
その他、櫓・門・土塀等が重文指定。世界遺産にも登録されている。
ちなみに、TVドラマ『暴れん坊将軍』の中で、「江戸城」として撮影に使われている。
起源
赤松貞範によって築かれたのが起源とされている。築城時期については、貞和2年(1346)、貞和5年(1349)説があり、はっきりしない。
天正8年(1580)に羽柴秀吉が3層の天守閣を築いた。現在の5層7階の天守閣の形式になるのは、慶長6年(1601)の池田輝政築城の時である。
構造
三方を山に囲まれた平地の、丁度真ん中に位置する「姫山」と呼ばれる独立丘陵を利用して築かれた平山城。市川・夢前川を天然の堀として利用している。
本丸・天守閣を中心に、螺旋状に廓を廻らせ、攻め手に対して、複数の場所から攻撃できるような配置となっている。天守閣は大天守の他に3つの小天守を備えている。
西側に男山、そのすぐ南に景福寺山が対峙するという、軍事的な弱点はあるものの、山陽道・丹波街道・篠山街道・生野街道・因幡街道が集まっている、交通の要衝でもあった。
赤松・小寺時代
従来、姫路城は播磨の小城にしかすぎないものであった。最初に城を築いた赤松氏は、貞和5年(1349)に床山城に移り、目代として小寺頼季を置いた。以後、小寺氏が姫路城目代を世襲し、事実上の城主となっていった。
しかし、嘉吉元年(1441)の「嘉吉の乱」(播磨守護大名の赤松満祐が、足利5代将軍義教を暗殺)の際に、山名持豊が占領することとなった。
この時、城主小寺職治は木ノ山において、討ち死している。
応仁元年(1467)に応仁の乱がおこると、再び赤松氏が姫路城を奪回し、修復ている。2年後の文明元年(1469)、赤松政則は置塩城へと移り、再び小寺氏に城を預けている。以後、享禄4年(1531)に御着城に移るまで、小寺氏が支配することとなる。
小寺氏は、御着城に移る際、八代道慶を留守居役としておくが、天文14年(1545)に黒田重隆を城主に任命し、以後は黒田氏の居城となった。
こうしてみると、黎明期は姫路城は大して重要視はされていなかったことがわかる。
秀吉時代
天正3年(1575)、中央に勃興してきた織田氏の勢いに、小寺氏は恭順することを決め、黒田孝高を岐阜に派遣した。従来播磨は毛利家の勢力下にあったのだが、織田氏の勃興を黒田孝高が見抜いたためと言われている。
この時、毛利家としてもこれを捨て置かず、天正4年(1576)の2月・5月と姫路城を攻めているが、黒田家によって撃退されている。
天正5年(1577)には、織田軍の中国方面の司令官として、羽柴秀吉が姫路城に入り、姫路近辺を平定している。秀吉は一度安土へと引き返しているが、翌天正6年(1578)、再度播磨入りし、以後、姫路城を根拠として、播磨一円を平定するに至る。
この時、秀吉は黒田孝高に命じ、姫路城を改築させている。この時に3層の天守閣が築かれたとされている。この天守閣は、天正8年(1580)に着工し、天正9年(1581)に完成している。
ところが、天正10年(1582)に、いわゆる「本能寺の変」起こると、秀吉は姫路城に貯蔵してあった、銀750貫、米85000石は配下に分配し、城を空にして山陽道を駆け上っている(「中国大返し」)。秀吉は山崎の戦いにおいて明智光秀を破り、その後の「清洲会議」で正式に播磨を領地として認めてもらうことになる(それまでの立場は、長浜12万石の城主)。
秀吉は、天正11年(1583)に大阪城を築き、ここに移った。姫路城は弟の秀長を城主とするが、天正13年(1585)に秀長を大和郡山に移封し、替わって木下家定(秀吉の妻、寧々の長兄)を城主としている。
姫路城が山陽道の交通・軍事の要衝となっていったのはこの時期であるということができる。
江戸時代
秀吉の死後おこった、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の後、木下家定は備中足守城に転封となり、関ヶ原の戦功によって、池田輝政が姫路52万石に封じられることになった。池田氏は、元和3年(1617)因幡伯耆32万石に転封となり、本多忠政が伊勢桑名より入部し、15万石となった。
この時、本多忠政は、豊臣秀頼の室であった、千姫(2代将軍秀忠の娘)の再婚相手となり、城内の西の丸を整備し、千姫を迎えている。忠政は、この時、三の丸に武蔵野御殿、向御屋敷、堀の外郭に東御屋敷・西御屋敷を建てているが、現在では、西の丸化粧櫓・長局以外は現存していない。
この他、忠政は石垣や堀も修復を行い、ほぼ現在の姫路城の姿を造りあげた。
これより後、本多・松平・榊原・酒井家が入部し、幕末まで15万石で過ごすことになる。
慶応4年1月の、鳥羽・伏見の戦いにおいて、姫路藩は幕府方につき、敗北。朝敵としての追討を受けた。岡山藩は、男山・景福寺山を占拠し、姫路城に砲撃を加え、姫路城を開城させている。
| 城主名 | 在位期間 | 備考 |
| 赤松貞範 | ?〜貞和5年(1349) | 築城に関しては、貞和2年(1346)説、貞和5年(1349)説がある。 |
| 小寺頼季 景治 景重 職治 |
貞和5年(1349)〜文和元年(1352) 〜延文2年(1357) 〜応永10年(1403) 〜嘉吉元年(1441) |
小寺氏は、赤松氏の被官。 「嘉吉の乱」にて山名持豊が侵攻。職治は討ち死。 |
| 山名持豊 | 嘉吉元年(1441)〜応仁元年(1467) | |
| 赤松政則 | 応仁元年(1467)〜文明元年(1469) | 応仁の乱にて、播磨を奪回。後、赤松氏は置塩城へ。 |
| 小寺豊職 政隆 則職 |
文明元年(1469)〜延徳3年(1491) 〜永正16年(1519) 〜享禄4年(1531) |
赤松氏被官。 小寺氏は、御着城へ。 |
| 八代道慶 | 享禄4年(1531)〜天文14年(1545) | 小寺氏被官、留守居役。 |
| 黒田重隆 職隆 孝高 |
天文14年(1545)〜永禄7年(1564) 〜永禄10年(1567) 〜天正5年(1577) |
小寺氏被官。 隠居し、家督を譲る |
| 羽柴秀吉 秀長 木下家定 |
天正5年(1577)〜天正11年(1583) 〜天正13年(1585) 〜慶長5年(1600) |
秀吉の播磨支配が公式に認められたのは、天正10年(1582)。 大和郡山城へ転封。 備中足守城へ転封。 |
| 池田輝政 利隆 光政 |
慶長5年(1600)〜慶長18年(1613) 〜元和2年(1616) 〜元和3年(1617) |
三河吉田より入部。 慶長6年(1601)、現在の5層7階の天守閣を築く。(52万石) 因幡伯耆鳥取城へ転封。 |
| 本多忠政 政朝 政勝 |
元和3年(1617)〜寛永8年(1631) 〜寛永15年(1638) 〜寛永16年(1639) |
伊勢桑名より入部。千姫を娶り、西の丸を整備。(以後15万石) 政勝幼少のため、大和郡山城へ転封。 |
| 松平忠明 忠弘 直基 直矩 |
寛永16年(1639)〜正保元年(1644) 〜慶安元年(1648) 〜慶安元年(1648) 〜慶安2年(1649) |
大和郡山城より転封。 山形城へ転封 越後村上城へ転封 |
| 榊原忠次 政房 政倫 |
慶安2年(1649)〜寛文5年(1665) 〜寛文7年(1667) 〜寛文7年(1667) |
陸奥白河城より入部 越後村上城へ転封 |
| 松平直矩 | 寛文7年(1667)〜天和2年(1682) | 越後村上城より再封。「越後騒動」に連座し閉門を命じられる。 後、豊後日田へ転封。 |
| 本多忠国 忠孝 |
天和2年(1682)〜宝永元年(1704) 〜宝永元年(1704) |
陸奥福島城より入部。 越後村上城へ転封。 |
| 榊原政邦 政祐 政岑 政永 |
宝永元年(1704)〜享保11年(1726) 〜享保17年(1732) 〜寛保元年(1741) 〜寛保元年(1741) |
越後村上城より再入部(政倫の後継ぎ)。 風流大名として知られるが、豪奢を幕府より糾弾され、隠居。 幼少のため、越後高田城へ転封。 |
| 松平明矩 朝矩 |
寛保元年(1741)〜寛延元年(1748) 〜寛延2年(1749) |
陸奥白河城より再入部(直矩より2代)。 上野前橋へ転封。 |
| 酒井忠恭 忠以 忠道 忠実 忠学 忠宝 忠顕 忠績 忠惇 忠邦 |
寛延2年(1749)〜安永元年(1772) 〜寛政2年(1790) 〜文化5年(1808) 〜文化11年(1814) 〜天保6年(1835) 〜弘化元年(1844) 〜嘉永6年(1853) 〜万延元年(1860) 〜慶応3年(1867) 〜明治元年(1868) |
上野前橋より入部。 隠居し、家督を譲る。 隠居し、家督を譲る。 隠居し、家督を譲る。 蟄居を命ぜられる。 版籍奉還。 |
江戸時代以降
明治2年(1869)、版籍奉還により、姫路城は兵部省管轄となる。
明治4年(1871)、神戸清一郎が競売により、23円50銭で落札。
明治11年(1878)、神戸清一郎、姫路城を手放す。陸軍省第四局長代理中村重遠大佐が、陸軍卿山県有朋に保存を申し出る。
明治12年(1879)、姫路城の保存決定。保存工事開始。
昭和11年(1936)、国宝指定。
平成5年(1993)、世界文化遺産登録。