日本名城探訪記〜東海編〜


高山城

概要
旧名は天神山城。別名臥牛山城。独特の城郭構成で、かつては「日本三名城」と言われていたらしい。元禄8年(1695)廃城。城郭建築は一切残っていない。

起源
永正年中(1504〜1521)頃、高山外記が築いた天神山城がその起源。
天正13年に秀吉の命を受けた金森長近が旧領主三木氏を攻め、入封。天正14年(1586)に再構築に着手し、天正18年(1590)に築城開始、16年の歳月がかかったと言われている。
高山という地名の由来も、高山外記にあるというが、異説もある。

構造
一般的に平山城に分類されるが、二の丸は平山城と言えるが、本丸は山城である。
高山盆地に向かって開けた台地を二の丸とし、その背後の山を本丸としている。
標高687.6mの天嶮を利用しているために、防御能力は高いように思われる。

 

 

天神山時代
高山外記が築いた天神山城は、永禄元年(1558)に三木自綱に攻められ、落城している。
その後しばらく三木氏が高山一帯を支配していたが、天正13年(1585)8月に、秀吉の命により、金森長近が飛騨に攻め込み、三木氏を滅ぼして飛騨の領主となった。

金森長近公像(高山城址二の丸自動遊園地)高山城時代
高山城築城に関して、金森長近が京都から大工の棟梁を招いたと言われている。飛騨高山は、かつて「飛騨の匠」と言われる、建築水準の高い地域であったが、当時の最新文化の京都の建築技術と、地元飛騨の建築技術が融合して、この築城を契機に、飛騨高山の建築技術が飛躍的に向上したということもできる。

本丸は、山を背景とした山塞とも言える山城で、政治的には二の丸を利用していたはずである。高山城本丸は、通常の城の概念とは違い、天守閣というよりも、茶室に櫓を組み合せたような構造となっていた。

二の丸は、現在城山公園と正蓮寺となっているが、その構造の広大さが伺い知ることができる。

 

金森氏転封
元禄6年(1692)に、金森氏は出羽上山に転封となり、以後の飛騨高山は幕府直轄の天領となった。
江戸幕府は大名領地を天領にする場合、かつての城郭を治所として転用することが多いが、高山に関しては、金森氏の下屋敷を利用して、高山陣屋とした。高山城が山上にあることを嫌ったのだろうか?

幕府直轄となった後、高山城は、隣国加賀金沢藩前田家預かりとなった。加賀藩主前田綱紀は、在番奉行として、永井織部正良を高山城に送り、以後5交代で高山城を管理した。
しかし、高山城の維持は、加賀前田家にとって大きな出費を必要とし、また、飛騨高山代官から常に監視されるという、割りの合わない役目であった。そこで、前田家は、幕府に高山城破却を申し出、元禄8年(1695)に許可が下りた。

江戸幕府は、再利用されないように、この破却処分についても監視していたらしく、徹底的に破却されている。破却の費用は全額加賀前田家の負担であった。ここに、天正年間から始まる、飛騨最初で最後の大名、金森家の遺構は姿を消し、幕府の天領時代が始まる。

江戸時代以降
昭和31年、岐阜県史跡及び天然記念物(野鳥棲息地)に指定された。

高山は観光地であるだけに、城が再建されてもおかしくはないが、この天然記念物指定がネックになっている。
おそらく、天然記念物指定が解除されない限り、城が再建されることはないだろう。


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