日本名城探訪記〜九州編〜
岡城
概要
別名「豊後竹田城」又は「臥牛城」。日本三険城の1つでもある、典型的な山城である。滝廉太郎の「荒城の月」のモチーフとなったことで名高い。
起源
文治元年(1185)に緒方惟栄が、源義経を迎えるために築いた山城がその起源とされているが、惟栄は大持浦(現兵庫県)を出航する際に捕らえられ、翌年上野国へ流罪となっているため、定かではない。現在の様式となるのは、文禄3年(1594)に中川秀成が7万石の居城として築いたもの。
構造
険しい断崖に石垣を高く築いた、梯郭式山城。城の北側の稲葉川、南側の白滝川を天然の掘としているものの、そうしたものの必要がないと思えるくらい、峻険な台地(天神山、標高325m)に築かれている。
本丸・二の丸・三の丸といった主要な構造物の他、西の丸・家老屋敷・城代屋敷・御廟といった構造物がある。山城的殿舎(御廟)・平山城的殿舎(本丸・二の丸・三の丸)・平城的殿舎(西の丸)と、三様の建築形態が採用されているのが建築上の特徴で、非常に珍しい。
本丸は、天守閣とも言える三重櫓や御金蔵があり、主に藩主居住地であった。二の丸には、数奇屋・月見櫓が配置され、様々なイベントが催されたと推察される。三の丸は使者の間・詰所・大広間の存在から、藩政執務所であったと考えられている。
岡城は、本丸を中心とした一廓と、西の丸を中心とした一廓、御廟を中心とした一廓と分かれていて、それらが複合的に組み合わさっていて、連携して防御できる構造となっている。また、清水谷と称される沢を隔てて馬蹄型に城が築かれているので、防御能力は極めて高いように思われる。
黎明期
建武年間(1334〜1335)に、豊後守護職大友氏の一族、志賀貞朝が後醍醐天皇の命を受け、岡城を修復して北朝と戦ったとされているが、築城起源から、この時期までの動向は定かではない。当初、志賀氏は、木牟礼城を居城としていたようだが、後に岡城に居城を移している。
天正14年〜15年(1586〜1587)の、世に言う「豊薩戦争」では、島津家の大軍に襲撃されるも、わずか18歳の城主志賀親次(後に親善に改名)を中心に守りきり、秀吉から感状を与えられている。
しかし、文禄2年(1593)に大友義統が領地没収となると、同時に志賀親次も改易となっている。
江戸時代
志賀氏に代わって、岡城に封じられたのは、播磨三木城主中川秀成で、文禄3年(1594)に入部した。この際、旧態然の城を近世城郭風に改め、慶長元年(1596)に本丸・二の丸・三の丸と、大手門、近戸口、下原門が完成している。
寛文4年(1664)、3代藩主久清によって西の丸が普請され、最初は隠居後の居住地として使われたが、元禄2年(1689)以降は、藩の公式行事が行われるようになり、藩主居住地、藩政執務所としても使われるようになった。江戸後期には、西の丸が、事実上の藩政中心地となっていたようである。
一番遅くに完成したのが廟所で、天明4年(1784)の完成である。それまでは、家老屋敷・先祖代々位牌所と称されていたようである。
歴代城主を下記に記す。
| 城主名 | 在位期間 | 備考 |
| 中川秀成 久盛 久清 久恒 久通 久忠 久慶 久貞 久持 久貴 久教 久昭 久成 |
寛永9年(1632)〜慶長17年(1612) |
中川清秀(賤ヶ岳の合戦で戦死)の嫡男 7万石 秀成嫡男 南向き大手門を西向きに改築(慶長18年、1613) 久盛嫡男 西の丸増築 久清嫡男 久恒嫡男 久通三男 安芸広島藩主浅野綱長の16男 三河吉田藩松平信祝の次男 久貞次男の久徳次男 大和郡山城主松平保光5男 豊後国志完成 近江彦根藩主井伊直中の4男、大老井伊直弼の実兄 伊勢津藩主藤堂高兌の次男 版籍奉還 |
江戸時代以降
明治7年(1874)、大分県によって入札、払い下げされ、城郭建造物は全て取り壊された。
明治の作曲家滝廉太郎は、少年時代を豊後竹田の街で過ごし、荒れ果てた岡城で遊んだ印象が深かったとされ、明治34年(1901)に中学校唱歌「荒城の月」を発表している。
以降、岡城は、「荒城の月」の舞台として高名となっている。
昭和11年(1936)、国指定史跡に指定。
平成11年(1999)、大手門が模擬復元され、現在は大手門とは反対方向に保存されている。