日本名城探訪記〜東海編〜


郡上八幡城

郡上八幡城天守閣概要
別名積翠城・郡城。
長良川沿いに北上する街道が、越前方面と高山方面に分岐する地である。
木造再建城としては、日本最古(昭和8年)である。

起源
刈安林広院山城主、遠藤盛数が、永禄2年(1559)に八幡山に城を築いたのがその起源。
元々、郡上八幡の領主東家は、東殿山に城を築いていたが、遠藤盛数が、東家を滅ぼした際に、八幡山に城を築いて移っている。

構造
吉田川・小駄良川の合流地点に程近い、八幡山を利用した山城。
2つの川が天然の堀となり、また八幡山の天嶮も利用している。
山麓に二の丸を配置し、山頂付近に天守台・松の丸・桜の丸を配置している。
現在の天守閣は、大垣城を模した模擬天守である。

 

東氏時代
郡上八幡の地に初めて封じられたのは、承久2年(1220)に美濃上郡を賜った、東胤頼である。
東氏は、下総の豪族千葉氏の支流で、後に9代益之が、応永16年(1419)に、赤谷山に城を築いている。

東家累代で、一番高名であるのは、11代常縁であろう。この人は、歌道の秘密伝授である、「古今伝授」を最初に行った人物とされている。東常縁は二条派の家元、二条為氏から歌道の秘密伝授を受けているが、それを連歌師として有名な、飯尾宗祇に授けているのである。二条派の伝授と古今伝授がどう違うのかはわからないが、古今伝授には、6年の歳月がかかったとされている。
ちなみに、東家は歌道に優れた家柄らしく、2代重胤、3代胤行も歌の名手であり、鎌倉3代将軍実朝の昵懇衆を務めている。

東常縁は、篠脇にあった郡上城を、岐阜城の斎藤妙椿に奪われている。だが、この時は和歌10首を送ることで、城を返還して貰っている。(※詳細は、岐阜城の項参照)
その後、文明年間(1469〜1487)に、現在の八幡山に城を移したという説があるが、定かではない。仮にそうであったとしても、現在の郡上八幡城のような、近代的な城郭ではなかったであろう。
郡上八幡を東家が治めていたという履歴は、東殿山という地名にわずかに残されている。

※東家の系図は、「東氏とは」を参考にさせて頂いています。

遠藤氏時代
東家最後の当主となったのは、16代常尭であった。常尭は一族である、木越城主遠藤胤縁(東常縁の子孫)の娘との縁組を申し出たが、これを拒まれたことを恨みに持ち、胤縁を謀殺した。

この時、胤縁の弟盛数が弔合戦と称し、東常尭を攻め滅ぼしている。盛数は郡上八幡一帯を領し、兄胤縁の旧領を、胤縁の子胤基に継がせている。この盛数が現在の郡上八幡城の基礎を築いた。
永禄5年(1562)、盛数が死亡したことを受けて、その子慶隆が継いだ。この慶隆が現代の郡上八幡の基礎を作ることになる。

永禄7年(1564)に、木越城主遠藤胤基が叛旗を翻し、郡上八幡城を占領している。慶隆は関城主長井道利の援助を受けて、郡上八幡城を奪還している。後、慶隆は織田信長の配下となり、各地に転戦している。

天正16年(1588)、慶隆は岐阜城の織田信孝に通じていたことから、秀吉に疎まれ、加茂郡小原犬地に、7500石で転封となっている。慶隆転封後は、稲葉一鉄の子、稲葉貞通が4万石で封じられた。貞通は、この時郡上八幡城の大改築を行っている。

しかし、慶長5年(1600)、慶隆は家康に願い出て、飛騨の金森可重と共に郡上八幡城を攻撃している。この時は激戦の末、稲葉家と和睦している。しかし、同年の関ヶ原の戦いに遊軍として東軍(家康方)に参戦し、その時の功が認められて、再び郡上八幡に27000石で封じられた。稲葉家は豊後臼杵へ5万石で転封となっている。

正保3年(1646)、3代常友が継ぎ、寛文7年(1667)に幕府の許可を得て、郡上八幡城の大修築を行った。この時、「城主格」から「城主」へと改称が許可されている。

しかし、元禄5年(1692)に5代常久が7歳で死亡すると、後継ぎがなく、改易となっている。ただ、遠藤家自体は、藩祖慶隆の功績が認められ、美濃大垣藩の一門で戸田氏成の子、胤親に遠藤家を継がせて、常陸・下野で1万石を与えられている。

 

郡上一揆
遠藤家改易の後、常陸笠間から、井上正任が5万石で封じられた。しかし、2代正岑の代に丹波亀山に転封となっている。
替わって封じられたのが、出羽上山城主金森頼とき(変換できず)が封じられた。

金森家2代頼錦は、学識に優れ、文化的な城主であり、幕府奏者役という役目についた。奏者役は、出世の第一歩とされていたが、交際費を中心に出費がかさむ役目でもあった。このため、年貢の徴収が過度になり、宝暦4年(1754)に領内の農民が決起し、宝暦騒動(郡上一揆)がおこった。

宝暦騒動では、農民代表が江戸で老中酒井忠寄に直訴を行い、また将軍家重にも箱訴をしている。整然と行われた一揆で、江戸期の代表的な一揆である。金森家は、この一揆の責任を負わされ、改易・御家断絶となっている。

金森家断絶後は、丹後宮津の青山幸道が封じられ、以後、明治まで、青山家が続いている。

 

歴代城主
郡上八幡城の歴代城主を下記に記す(郡上八幡城入城パンフレットより)

城主名 在任年号 石高 備考
遠藤盛数
   慶隆
永禄2年(1559)〜永禄5年(1562)
          〜天正16年(1588)
郡上郡一帯
加茂郡小原に転封
稲葉貞通 天正16年(1588)〜慶長5年(1600) 4万石 曽根より入部、豊後臼杵へ転封
遠藤慶隆
   慶利
   常友
   常春
   常久
慶長5年(1600)〜寛永9年(1632)
          〜正保3年(1646)
          〜延宝4年(1676)
          〜元禄2年(1689)
          〜元禄5年(1692)
2万7000石

2万4000石

小原より入部



改易
井上正任
   正岑
元禄5年(1692)〜元禄6年(1692)
          〜元禄10年(1697)
5万石
4万7000石
常陸笠間より入部
丹波亀山へ転封
金森頼とき
   頼錦
元禄10年(1697)〜元文元年(1736)
          〜宝暦8年(1758)
3万8000石 出羽上山より入部
宝暦騒動のため、改易・断絶
青山幸道
   幸完
   幸孝
   幸寛
   幸礼
   幸哉
   幸宣
宝暦8年(1758)〜安永4年(1775)
          〜寛政3年(1791)
          〜文化12年(1815)
          〜天保3年(1832)
          〜天保9年(1838)
          〜文久3年(1863)
          〜明治2年(1869)
4万8000石 丹後宮津より入部





版籍奉還

 

江戸時代以降
昭和8年(1933)、天守閣、隅櫓、高塀再建(現在最古の木造再建城)

昭和30年(1955)、岐阜県史跡に指定


              中部編目次へ