日本名城探訪記〜東海編〜


浜松城

浜松城天守閣概要
別名、「石垣城」。旧名は「曳馬城」。「出世城」という異名もある。
天竜川以西の遠江を統治する上で、軍事・交通の要衝となる地に位置する。佐鳴湖東部の丘陵を利用した、平山城である。

起源
永正年間に、今川貞相が築いた、曳馬城がその前身。久野越中守築城説もある。戦国期には、今川家の武将、飯尾氏が治めていたが、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いによって、今川家は衰退していった。永禄11年(1568)年に、武田家との、駿・遠分割盟約により、徳川家康が遠江に侵攻し、曳馬城を攻略。その後、元亀元年(1570)、大々的に改修を加え、浜松城と改名した。

構造
浜名湖の東方の丘陵に、「野面積み」と言われる組み方の石垣を構築し、天守閣・本丸・二の丸・三の丸を一線に並べた、梯郭式という構成になっている。これに作佐曲輪・出丸を複合的に組み合わせ、堅固な構成となっている。堀には水は通さず、ほとんどが空掘であった。

浜松城における、構成上の最大の特徴は、石垣の「野面積み」である。
石垣の構造については、江戸期の儒者、荻生徂徠の「鈴録(けんろく)」によれば、

野面積み   ・・・自然石を上下に積み重ねたもの。
打ち込みはぎ・・・自然石に手を加え、隙間のないように組み合わせたもの。
切り込みはぎ・・・自然石の表面を平らにし、石垣表面も直線状(または曲線状)にしたもの

に分類できる。大まかに分ければ、上から、永禄・元亀年間頃(1558〜1573)、天正年間頃(1573〜1592)、文禄・慶長年間頃(1592〜1615)の石垣構成法といえるかもしれない。

訂正:その後の調べで、打ち込みはぎは慶長年間まで使用されており、切り込みはぎは、元和年間(1615〜1624)以降のものであることがわかった。各石垣の実物写真が、会津若松城に記載されています。

浜松城石垣
こちらが、野面積みの石垣。

野面積みは、外見こそ粗雑で、一見すると崩れやすそうに見えるが、奥が深く、また排水性も良いために、耐久性は高い。現に、浜松城の石垣は、一部を平成5年(1993)に修復してはいるものの、その多くは、元亀元年築城当時のままである。

 

 

 

 

 

家康時代
家康は、今川氏に迫害された井伊氏の後胤、万千代(後の井伊直政)を保護することによって、浜松近辺の諸勢力を味方につけた。元亀元年(1570)に、大規模な改築を行い、石垣を堅固に組ませた城郭を作り上げた。この時、名称を、曳馬野から浜松に改名している。移転以来、家康は、浜松城を根拠地として以後東進していく。浜松城は、天正14年(1586)の駿府移転まで、足掛け17年に渡って、徳川氏の本拠地として栄えた。

関ヶ原以前の最大の難戦である、三方ヶ原の戦いは、この浜松城外の決戦で、正に辛酸をなめる結果となった。しかし、この三方ヶ原が家康に大きな影響を与えた。武田軍の強さを見て取り、武田流の軍法を取り入れ、武田家滅亡後は、武田の遺臣を多く召抱え、後の徳川家隆盛の礎となった。徳川勢の威勢を天下に轟かせた、姉川・三方ヶ原・長篠・小牧・長久手などの合戦も、この浜松時代のことになる。

浜松城は、徳川270年の礎を築いた土地であり、正に「出世城」と呼ぶにふさわしい。

豊臣・江戸時代
家康の駿府移転後、天正18年(1590)まで、菅沼定政預かりの城となるが、同年の小田原北条氏の滅亡の後、徳川家は関東に転封となり、豊臣系の大名、堀尾吉晴が城主(12万石、後17万石に加増)となった。秀吉の死後、関ヶ原の合戦に吉晴の子、忠氏が東軍に参陣し、その功で、出雲松江(24万石)に転封となった。

以降、江戸期は、5万石前後の譜代大名の居城となった。浜松城主は、幕府中枢の役職に任命されるという、今で言う、ジンクスのようなものがあった。そのことも、「出世城」と言われるゆえんである。特に有名なのは、「天保の改革」で知られる水野忠邦で、肥前唐津城主だったのだが、自ら浜松移転を願い出、在城中に老中となった。

浜松城の歴代城主と、在城中に任命された役職を以下に記す。(浜松城入城パンフレットより作成)

城主名 在城年間 石高 移転前 移転後 備考
徳川家康 元亀元年(1570)〜天正14年(1586)   岡崎 駿府 後、征夷大将軍
堀尾吉晴
   忠氏
天正18年(1590)〜慶長5年(1600) 12万石(後17万石) 近江佐和山 出雲松江 寛永10年(1633)嗣子無しの為、改易
松平忠頼 慶長6年(1600)〜慶長14年(1609) 5万石 美濃金山   改易
水野重仲 慶長14年(1609)〜元和5年(1619) 2万石 (後3万石)   紀伊新宮 徳川頼宣(家康11男、後の紀伊家)付家老
高力忠房 元和5年(1619)〜寛永15年(1638) 3万石 武蔵岩槻 肥前島原  
松平乗寿 寛永15年(1638)〜正保元年(1644) 3万石 美濃岩村 上野館林 在城中に老中・侍従
太田資宗
   資次
正保元年(1644)〜延宝6年(1678) 3万石 三河西尾 大坂城代 資次、在城中に奏者番・寺社奉行
青山宗俊
   忠雄
   忠重
延宝6年(1678)〜元禄15年(1702) 5万石 大坂城代 丹波亀山 宗俊、在城中に老中
松平資俊
   資訓
元禄15年(1702)〜享保14年(1729) 7万石 常陸笠間 三河吉田 2代在城中に侍従
松平信祝
   信復
享保14年(1729)〜寛延2年(1749) 7万石 三河吉田 三河吉田 信祝、在城中に大坂城代・侍従・老中
松平資訓
   資昌
寛延2年(1749)〜宝暦8年(1758) 7万石 三河吉田 丹後宮津 再任、在城中に京都所司代・侍従
井上正経
   正定
   正甫
宝暦8年(1758)〜文化14年(1817) 6万石 京都所司代 陸奥棚倉 正経、在城中に京都所司代・侍従・老中

正定、在城中に奏者番・寺社奉行
水野忠邦
   忠精
文化14年(1817)〜弘化2年(1845) 6万石(後7万石) 肥前唐津 出羽山形 忠邦、在城中に寺社奉行・大坂城代・老中・侍従
井上正春
   正直
弘化2年(1845)〜明治元年(1868) 6万石 上野館林 上総鶴舞 正直、在城中に寺社奉行・老中・侍従

江戸時代以降
明治維新後、廃城となり、城郭は壊された。

昭和33年(1958)、天守閣再建。

昭和34年(1959)、市の史跡に指定。


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