日本名城探訪記〜中国編〜


広島城

広島城天守閣概要
別名「鯉城」。語源は正確にはわかっていないが、この付近がかつて己斐浦(こいのうら)と呼ばれており、己斐(こい)が鯉に通じることから、そう呼ばれるようになったというのが、有力な説。

起源
天正17年(1589)、毛利元就の孫、毛利輝元が瀬戸内海に面する三角州を城地に選んだのがその起源。毛利家が豊臣傘下に入ってから、大阪城、聚楽第を見学し、城下町と一体化して機能する政治の中心としての城の必要性を感じたという(※詳しくは下記)。

構造
太田川の形成する三角州に築かれた、政治目的が主目的な平城である。しかし、平地にあるものの、3重の堀(現在は内堀のみ)を廻らせ、西側の太田川、東側の京橋川を天然の堀としている点、唯一の攻め口である南側に三の丸(現在の広島市街)を形成しているなど、防御上の工夫もなされている。防御上の思想は、大阪城に似ている。輝元の大阪城見学が、防御思想に影響を与えているのかもしれない。

毛利時代
築城は穂田元清・二宮就辰が普請奉行として担当し、天正18年には堀と城塁が一応完成し、天正19年(1591)に輝元が入城した。

広島は、築城前は五箇村などと呼ばれるだけの寒村であったが、城の築城と共に、「広島」と呼ばれるようになった。「広島」の語源については、
・太田川に浮かぶ三角州(島)を漠然と表す、自然の地形としての「広い島」の意味。
・毛利家の始祖であり、鎌倉幕府の政所別当(政治関係の長官)であった「大江広元」と
 城地選定の案内者「福島元長」の名前の一字ずつを採った。
・築城以前からの、地元住民の通称。

など、諸説ある。個人的な意見になるが、「大江広元」の「広」と、地形としての「島(三角州)」の組み合わせと考えるのが一番妥当なような気がする(案内者の名前は無理があると思う)。

しかし、慶長5年(1600)の関が原の戦いにおいて、西軍の盟主となった毛利輝元(輝元自身は大阪城で待機)は、減封・転封処分となった。大阪城の無血開城の功が認められて、周防・長門2州(防長二州、現在の山口県)は安堵されるものの、居城まで、日本海側の僻地、萩に指定されてしまった。

江戸時代
毛利家の後、関が原の戦功によって、福島正則が安芸・備後80余万石(ほぼ現在の広島県)の大名として、封じられた。正則は、外堀・外郭の拡充、城下町の整備、西国街道・石見街道・出雲街道の整備と、広島の発展に努めたが、元和5年(1619)に洪水で破損した広島城の無断修復(1615年の「武家諸法度」で禁止されていた)によって転封となり(※詳しくは下記)、変わって紀州和歌山から浅野長晟が安芸・備後半国40余万石として転入してきた。以後、明治期まで、浅野家が広島藩主として君臨する。ちなみに紀州和歌山は、加増されて55万石として、家康の十男、頼宣に与えられている。

また、広島城に関連して、
・戦国時代の城は、山などの天嶮によった山城が主流であったが、天下統一が近づくにつれて、政治を行う上で
 便利な平地の城、平城が主流となっていった。また、元々海からの来襲を恐れ、内陸地に築かれることが多か
 った城が、海浜部に進出するのは、海上交通に目をつけた秀吉の大阪城が初めてであり、その起源は、信長
 の安土城である(大阪城も元々は信長の構想)。
・福島正則の転封は、「権現様(家康)が天下を取ったのは、わしと加藤(清正)のおかげ」と豪語していた正則を、
 幕府が次第に疎ましく思うようになった、というのが真相で、武家諸法度違反は、名目に過ぎないであろう。徳
 川家は「第2の福島正則」が出現しないよう、以後の軍政では、藤堂家と井伊家が先鋒というように定められた。
 藤堂家は秀吉の死後、家康に尽くした藤堂高虎のものであり、井伊家は徳川譜代の臣で、配下に武田家の遺
 臣を多く抱えていた。大阪の陣(1614・1615)でも、戊辰戦争(1868)でも、両家が先鋒を務めたのは興味深い。

広島城天守閣近影江戸時代以降
明治4年(1872)の廃藩置県後、城内には陸軍の施設が徐々に設けられ、建造物は次第になくなっていった。
明治7年(1875)の出火で、本丸御殿を焼失している。

昭和20年(1945)の原子爆弾投下で、天守閣をはじめ、城内の施設は全て壊滅した。

現在の天守閣は、昭和33年(1958)の復元で、現在は、広島及び、武家分化の歴史資料館となっている。

なお、広島城の石垣は、他の城に比べて、石の形がいびつである。
これは、広島城の石垣が、切り出し石ではなくて、瀬戸内海沿岸の海岸の石を、そのまま使っているためである。もしかしたら、原爆の影響も多少はあるかもしれない。

 


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