日本名城探訪記〜近畿編〜


彦根城

彦根城天守閣
概要
別名金亀城。琵琶湖八景にも数えられる、名城である。
金亀城の名前の由来は、築城前に山上にあった寺院に、金の亀に乗った観音像が安置されていたためだと言われている。

天守閣は国宝指定で、天守閣の国宝指定は彦根城の他は、姫路・松本・犬山城だけである。

起源
彦根藩主、井伊直勝の時の慶長9年(1604)に、幕命によって琵琶湖湖畔の小丘陵、彦根山に城が築かれることになった。その際に、佐和山城・安土城・長浜城・大津城の石垣・用材が転用・移築されたと言われている。

彦根城の着工は、直勝の時代であったが、家康は直勝を上州安中城主として、庶子の直孝に彦根藩を継がせた。完成したのは、直孝の時代で、元和8年(1622)である。彦根城の築城は、西国大名の監視と、豊臣家征伐の準備であったと言われている。

構造
琵琶湖湖畔の彦根山を人工的に手を加え、内堀・外堀を巡らせた平山城。天守閣を中心に、西の丸、鐘の丸を配し、連携して守備に当たれるようになっている。内堀の外側に二の丸が配されているが、こちらは防御施設というよりも、政治目的の施設であったのであろう。

 

彦根藩祖井伊直政
彦根藩の藩祖直政は、家康に愛された武将であった。その逸話を下記に記す。

・思慮深く、口重であったので、家康の内々の相談相手になった。人を評することの少ない家康が、
 「直政が余人のない時に意見をしてくれる」という意味の言葉を残している。
・平素の慎重さからは考えられないほど、戦場では突撃を得意とし、生涯16度の合戦で敗戦を知らない。
・関ヶ原の敗戦の将、石田三成を処刑まで預けられたが、丁重に礼を尽くして扱った。
・民政家をしても優れ、上州箕輪城主時代は、農民に慕われていたという。

彦根藩は、関ヶ原の前までは、石田三成の領地であった。三成は、加藤清正・明智光秀と並んで、内政の達人とも言える人物であり、領民からの信頼も厚かった。その後釜としては、直政以外に適任者はいなかったに違いない。特に、戦場で強いこと、石田三成を丁重に遇したことは、その後の藩政に大きな影響を持ったと思われる。直政もこのことを心得ていたようで、彦根藩では、「関ヶ原の戦いの武功話」はタブーであった。
関ヶ原の自慢をすると、自然に、旧領主石田三成の批判になるからである。

井伊家の位置付け
井伊家は、徳川家譜代大名の中でも特別な位置付けである。元々、遠州井伊谷の在庁官人であったというから、三河の土豪出身の徳川家の中では、極めて家柄がいい。
元々は今川家の被官であったが、井伊直政の祖父直盛は桶狭間の戦いで戦死し、父直親は、今川氏真から疑われて殺害されている。直政は、万千代と名乗っていた少年時代に、浜松に侵攻してきた家康に仕えることとなった。

井伊家を特徴づける内容を下記に記す。

・譜代大名としては、異例の35万石という石高であった(通常、譜代大名は10万石未満)。
・武田家の旧臣を預けられ、広瀬美濃・三科肥前から、信玄流の軍法(陣立や戦法)を学ばせた。
・武田家の「赤備」(赤い武器・鎧で統一すること)を踏襲し、「井伊の赤備」として恐れられた。
・関ヶ原の合戦の後、藤堂家と共に先鋒となる任を受けていた(大阪の陣や、戊辰戦争で実際に先鋒を務めている)。
・直政の死後、直勝が継いだが、家康の命によって転封となり、庶子直孝が継いだ。直孝の統率能力を買ったと言われる。
 (将軍家が、大名の後継ぎ問題に口を出すのは、極めて異例である)

彦根は近江の要衝であり、西国大名や、朝廷を監視する任務もあったことから、徳川家随一の武勲を持ち、家柄もいい井伊家が封じられたと考えられる。その他には、三成の手厚い内政に慣れた、近江人にも配慮した人事であったともいっていい。
また、後継者問題にも口を出すのは、彦根が対大阪、対西国に関して、幕府が重要視していた土地であるということがわかる。

 

その後の井伊家
2代藩主井伊直孝は、藩祖直政と共に彦根藩の藩風を決定づけた人物である。
大阪の陣にも出陣し、その武威は、父直政を思わせたという。戦後、大阪方の武将、長宗我部盛親を預けられたが、父直政が石田三成を扱った時同様、丁重に礼を尽くした。
直孝は、家康・秀忠・家光・家綱の4代に仕え、大老となった。後、井伊家は幕府最高職の大老を歴任する。

その後、幕末になって、井伊直弼が出る。大老となって、「安政の大獄」と言われる開国論への弾圧を行うのだが、この時、人々から「井伊の赤鬼」と言われ、恐れられたという。小牧の戦いで、秀吉が井伊直政の軍勢に手こずり、「赤鬼」と呼んでいるのが興味深い。
井伊直弼は、安政の大獄の翌年、江戸城桜田門外で暗殺される。直弼の暗殺は、幕府瓦解の象徴的事件でもあった。
江戸期最大のテロリズムの跡地に、現代の治安の要、警視庁があるのは何か関係があるのだろうか?

井伊家は、戊辰戦争の「鳥羽・伏見の戦い」で、幕軍の先鋒となるが、同先鋒の藤堂家の寝返りにより壊滅した。
井伊家歴代藩主を以下に記す。

初代 井伊直政 徳川四天王。関ヶ原の武功で、佐和山18万石を与えられる。
     直継 直政嫡男。直勝と改名。彦根城築城に着手。後に弟に子家督を譲り、上州安中へ転封。
2代    直孝 直政二男。兄より相続。大阪の陣の戦功で、30万石に加増。幕府執政筆頭(大老)。
3代    直澄 直孝五男。大老。
4代    直興 直孝四男直時の嫡子。槻御殿(現在の玄宮園・楽々園)を造営。大老。
5代    直通 直興の八男。22歳で死亡。
6代    直恒 直興の十男。就任後50日弱で死亡。
     直該 直興が改名し、再任。大老。
7代    直惟 直興の十三男。
8代    直定 直興の十四男。
9代   直よし 直惟のニ男。就任後60日弱で死亡。漢字変換できず。示是←これを一字に。
     直定 再任。
10代    直幸 直惟の三男。大老。
11代    直中 直幸の七男。藩校「弘道館」創立。
12代    直亮 直中の三男。大老。
13代    直弼 直中の十四男。安政の大獄実施。日米修好通商条約締結。桜田門外で暗殺。大老。
14代    直憲 直弼二男。父暗殺により、13歳で藩主に。最後の藩主。

 

彦根城建造上の特徴
彦根城は、牛蒡積みと言われる、粗雑に見えるが強固な石垣で築かれている。
側柱も防弾のために、石が20cmの厚さで塗り込められている。

彦根城天秤櫓
彦根城を特徴付けている建造物として、天秤櫓(重文)がある。
秀吉時代の長浜城大手門を移築したものと言われ、左右対象の建造物が天秤のように見えることからこう称されている。

中央に廊下橋を配していて、非常時にはこの橋を落として防御力を高める構造で、この構造は全国でも彦根城でしか見ることができない。

石垣も特徴的で、向かって右側が築城当時の牛蒡積み、左側が改修によって、切石積みとなっている。

 

 

 

 

彦根城西の丸三重櫓

こちらの、西の丸三重櫓は、近江浅井家の小谷城天守閣を移築したと言われている。

 

江戸期以降
昭和27年(1952)、国宝指定。

 

 

 

 


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