日本名城探訪記〜中国編〜


岩国城

概要
別名「横山城」。吉川岩国藩6万石の居城。「元和の一国一城令」により、建築からわずか7年で破却されたが、関ヶ原後に築かれた城で、山城形態であるのは非常に珍しい。
尚、現在の天守閣は、錦帯橋からの見栄えを考えて、実際よりも谷側に移動して再建されている。

起源
慶長6年(1601)、吉川広家が場所を選定したのがその起源。起工は同8年(1603)で、同13年(1608)竣工した。

構造
錦川を眼下に見下ろす、標高約200Mの横山に築いた典型的な山城。錦川は、横山の西から流れ込み、北側を大きく迂回して南東方向に流れ出しているため、城のほぼ3/4が天然の掘で囲まれていることになる。
本丸を中心に、二の丸・三の丸・北の丸・水の手曲輪を形成し、天守閣は、上部が外側に張り出す、唐造り(南蛮造り)となっている。尚、現天守閣のすぐ脇に、旧天守台も遺されている。築城の翌年、山麓に居館となる御土居を構築し、藩政機能を置いたが、廃城後は陣屋として藩政に当たっている。

毛利家以前
岩国には、平安末期に平氏に属する岩国氏という豪族がいたが、寿永4年(1185)に壇ノ浦で平家が滅びると共に衰退し、変わって弘仲氏が勢力を振るうようになった。弘仲氏は、周防国守護職であった大内氏に属していたが、弘治元年(1555)の厳島合戦で毛利氏に惨敗し、衰退していった。
これら先史時代(?)には、居館・砦程度の建造で、大掛かりな築城はなかったと思われる。

岩国城天守閣より毛利家時代
安芸吉田から勃興した毛利元就は、卓越した戦術と外交で中国地方を統一し、戦国末期には約120万石を領するようになっていた。元就の孫、毛利輝元は中央で豊臣秀吉が勢力を伸ばすと、いち早くこれに接近し、本領安堵の上、五大老に任命されることになる。

しかし、秀吉の死後、五大老徳川家康と五奉行石田三成の対立が健在化し、関ヶ原で戦うことになる。この時、石田三成は、近江佐和山19万石の大名にしか過ぎなかったため、名目上の総大将として、毛利輝元を擁する戦術をとった。
この事が毛利家の転落の契機となるのだが、毛利家家老であった吉川広家(元就次男元春の三男・つまり元就の孫)が輝元を大坂城に押しとどめ、広家自身が代理として参陣することとなった。

広家は、秘密裏に家康の幕僚本多正信と交渉し、関ヶ原の戦いに参加せず、傍観することで本領安堵を約束したのだが、家康との直接交渉ではなかったため、戦後にこの密約は反故となり、毛利家は改易、吉川家は石見富田14万石から防長36万石に加増という沙汰になった。

毛利宗家を安堵するつもりで交渉を行っていた広家は驚き、防長2国を毛利宗家の領土とすることを願い、徳川家もこれを了承。吉川家はこの内から3万石を領することとなった。

 

吉川家時代
吉川広家は、長州藩の東端となる岩国を領し、ここに築城することにした。徳川家の了承があったとはいえ、関ヶ原以後に、防御力を重視した山城を築いたのは、極めて異例である。ここで、広家が岩国城を山城形式にした理由を考えてみたい。

・徳川家との交渉過程で、江戸幕府に不信感を感じた。
・毛利家大減封の原因を作ったことは事実であり、東端(江戸方面)に戦闘的城郭を築くことで、毛利宗家への忠誠心を示そうとした。
・戦国以来の武士の気概を失いたくなかった(薩摩藩はこうした傾向があった)。

吉川家の関ヶ原の際の行動は、見方によっては毛利家を救ったことになるが、毛利家が全力を尽くしていた場合、西軍の勝利もありえただけに、微妙な立場となっている。
実際、岩国藩は幕府からも大名格として認められ、参勤交代も行っているのだが、毛利宗家が大名と認めなかったために、江戸期を通じて、毛利長州藩の支藩という扱いのままであり、冷遇されていた。

大坂の役の後、「元和の一国一城令」が出された時も、毛利家萩城は長門国であり、岩国城は周防国であるのだが、毛利宗家が破却を決断したと言われている。この際、江戸幕府は岩国城に関しては介入はしておらず、毛利家の自発的な破却であったと思われる。

城主吉川広家は、家康承認の築城であること、周防国に一城であることを挙げて破却に反対するが、最終的に毛利宗家との関係悪化を恐れて破却することになる。岩国城は竣工からわずか7年でその生涯を閉じることになったのは、毛利家と吉川家のこうした微妙な関係が大きく影響しているに違いない。

岩国藩は江戸期を通じて、文武両面の振興に努め、また紙の専売・大干拓を行う等して、実高10万石並の収入があったといわれている。

毛利宗家からの冷遇は、12代経幹の時代まで続くが、この頃には関係が改善している。幕末の蛤御門の変・幕長戦争等で、毛利宗家に余裕がなくなっていたことも挙げられるだろう。岩国藩12代藩主経幹は、第1次長州征伐において、幕府と周旋交渉を行い、藩祖広家以来の宗家救済に努めている。経幹は、死後大名に列し、ここで初めて岩国藩主が大名となったが、既に江戸時代は終わり、明治の世になっていた。

歴代城主
岩国城歴代城主を下記に記す。

城主名 在位期間 備考
吉川広家

   広正

   広嘉
   広紀
   広逵
   経永
   経倫
   経忠
   経賢
   経礼
   経章
   経幹

   経健
慶長5年(1600)〜慶長19年(1614)

          〜寛文3年(1663)

          〜延宝7年(1679)
          〜元禄7年(1696)
          〜正徳5年(1715)
          〜明和元年(1764)
          〜寛政4年(1792)
          〜享和3年(1803)
          〜文化4年(1807)
          〜天保7年(1836)
          〜天保14年(1843)
          〜慶応3年(1867)

          〜明治4年(1871)
毛利元就次男元春の三男。慶長13年(1608)岩国城完成。
慶長19年(1614)隠居。寛永2年(1625)没。
広家次男。公称6万石に変更。明暦3年(1657)初代錦帯橋架橋。
瀬田八幡宮再興。寛文3年(1663)隠居。同6年(1666)没。
広正嫡男。延宝元年(1673)木造アーチ橋による錦帯橋架橋。
広嘉嫡男。白石観音再興。岩隈八幡宮遷座。
広紀三男。
広逵嫡男。
長州藩徳山支藩5代藩主毛利広豊九男。昌明館建築。
経綸嫡男。
経忠嫡男。
経忠次男。
経忠三男。
経章嫡男。藩校「養老館」開設。宗家との関係修復。
第1次長州征伐時、幕府との和平周旋。死後大名に追位。
経幹次男。版籍奉還後岩国藩知事。廃藩置県後子爵。

江戸時代以降
昭和37年(1962)天守閣再建。


              中国編目次へ