日本名城探訪記〜九州編〜


熊本城

熊本城天守閣概要
別名「銀杏城」。篭城に備えて城内に銀杏を多く植えてあることから、この別名がある。肥後半国の太守、加藤清正が7年の歳月を掛けて築いた平城で、日本三名城の1つ。銀杏以外でも、120余の井戸を持つなど、極めて防御思想が高く、その堅実さは、明治10年(1877)の西南戦争の折に証明されることとなった。

起源
応仁年間(1467〜1468)に、九州の豪族菊池氏の一族、出田秀信が茶臼山東端(現NHK放送局)に築いた隈本城がその起源。但し、この隈本城は現在の熊本城とは場所が異なり、千葉城と称されている。

構造
広さ98万平方メートル、周囲5.3kmの敷地に、天守閣3、櫓49、櫓門18、城門29を有する壮大な規模の城となっている。
城の外側を流れる白川を天然の外堀とし、坪井川を改修して井芹川と合流させて内堀とするなど、防御能力を高めるための土木工事がなされている。
また、丘陵の最上部で、アズキ谷と呼ばれる断崖の上を本丸とするなど地勢をうまく活用している。唯一の弱点は、緩やかなスロープとなっている西側だが、本丸と出丸の間に掘を、出丸・二の丸・藤崎八幡宮のそれぞれの間にも空掘を設けて防御機能を高めている。

熊本城石垣熊本城で特筆すべきものは石垣で、「武者返し」と称される緩やかな曲線を描いた石垣となっている。「清正が築いた石垣は崩れない」という伝説が戦国〜江戸初期に流布していたようだが、石垣の排水における秘法があったと言われている。

尚、熊本城の石垣は、細川氏入部後に追加された部分もあり、石垣の弧線を変えるという極めて高度な工事を実施している。加藤家というよりも、肥後という地域が卓越した石工を持っていたということかもしれない。

 

黎明期
隈本城の名は南北朝期から諸資料に散見されるが、記録がはっきりとしているのは応仁年間以降である。応仁年間に、九州の豪族菊池氏の一族、出田秀信が隈本城(千葉城)を築いとされている。出田氏は藤崎宮を中心とした、ごく狭い地域の領主だったらしい。出田秀信は、文明17年(1485)に守護菊池重朝の命で出陣・戦死してしまうものの、出田家は重綱・政冬と継ぎ、隈本城を維持していたようである。

その後、明応5年(1496)に、鹿子木寂心が茶臼山西南麓に築城した(古城と称される)。鹿子木氏は、大友家に属し、寂心・親俊・鑑員と3代続くが、鑑員の代に菊池氏に鞍替えしたために、大友宗麟の攻撃を受け、隈本城(古城)を退去することとなった。
大友氏は、隈本城(古城)を、配下の城親冬に与え、以後、親賢・久基と続いていくことになる。

肥後は、戦国期にあっても「一人一党」という気質から、域内で大勢力を生むことがなく、近隣の大勢力に属することで命脈を保っていたようである。この辺りは、地域差が大きく、域内統一ができなかった信濃と似ているかもしれない。

安土桃山時代
秀吉による九州征伐後、天正15年(1587)織田家黒母衣衆(織田家親衛隊、いわばエリート)出身の佐々成政が肥後49万石に封じられ、隈本城に入部した。しかし、成政はその後秀吉の命による検地を断行したために、肥後国人衆の反発を受け、肥後一国が内乱状態となってしまった(肥後の国衆一揆)。

一揆自体は、秀吉が繰り出した軍勢によって鎮圧されるが、佐々成政は、その責任を負わされ、切腹という処分となった。一説には、旧織田政権の有力者である成政を、体よく秀吉が葬るための策略だったとも言われる。

同様の施策は、徳川家康(旧北条領関東八州に転封)や、伊達政宗(旧大崎・葛西領に転封)にも実施されているが、家康が北条方国人衆を味方につけたり、政宗が硬軟両面で国人衆を懐柔したのに対して、成政は失敗したと言わざるを得ない。

天正16年(1588)、旧佐々成政領は3分割され、球磨郡のみを相良長毎に、残りの北半分を加藤清正に南半分を小西行長に与えている。加藤清正は25万石を封じられ、隈本城を居城とし、小西行長は20万石を封じられ、宇土城を新築している。

清正は、隈本入部の際に、いきなり新城を築くようなことをせず、治水・新田開発等の土木工事を行った上で、肥後の人心を集め、慶長6年(1601)、茶臼山男山に新城建設を開始し、慶長12年(1607)に完成したと言われている。
一説には、天正18年(1590)頃から築城の準備はしていたとも言われている。どうやら、朝鮮出兵で、本格的着工が遅れることになったようである。

清正の土木工事は名人芸だったようで、未だに活用されている施設もある。熊本における清正人気はこの時の見事な民政ぶりにあるのではないだろうか?(威風堂々の容貌もその一因らしいが)ちなみに、熊本城入口には、加藤清正像があるが、加藤家改易後の領主細川氏の像はない。

 

熊本城宇土櫓江戸時代
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて、加藤清正は東軍に属し、戦勝後、西軍に属した小西行長の旧領に加え、豊後の一部も拝領して、54万石となっている。ちなみに、新城完成と共に、「隈本」の名を「熊本」に改めている。

家康の構想としては、江戸期を通じての徳川家の仮想的は薩摩島津家であり(その構想は不幸にも的中するが)、そのために九州には大規模な外様大名を多く配置し、要所に譜代大名を配置するようにしていた。
そのために、築城に敏感であった江戸幕府において、熊本城のような大規模な築城が認められたのであろう。

建築上の特徴として、宇土櫓だけが築城時期が異なるとされ、長らく、小西行長の宇土城天守閣が移築されたものとされてきたが、最近の発掘調査で、移築ではないことが判明した。どうやら、旧小西家から編入された家臣団が警備を担当していたことから、その名がついたらしい。

加藤清正は、晩年は豊臣秀頼と徳川政権との交流正常化に努めたが、慶長16年に没している。その豊臣政権への忠節ぶりからか、毒殺されたという説まである。異説といえば、熊本城は有事の際に、秀頼を迎えるための城だったという説もあるが、現実的には不可能であろう。

清正没後、忠広が後継ぎとなるが、寛永9年に改易となり、以後は細川氏が238年治めることとなる。
細川氏は熊本入部の際に、加藤清正の位牌を掲げて入部したと伝えられ、その位牌は以後天守閣に祭られていたという。「難治」と言われた肥後入部に際して、細川氏が慎重であったことと、その「難治」の肥後人に圧倒的に支持された清正人気がこの逸話で知ることができる。

肥後藩細川家の名君は、第6代藩主の細川重賢で、藩校や病院、薬園を設置した他、「宝暦の改革」と称される財政改革を行い、江戸・大坂の商人に馬鹿にされていた肥後藩の財政を建て直している。

歴代城主を下記に記す。

城主名 在位期間 備考
加藤清正
   忠広
慶長12年(1607)〜慶長16年(1611)
          〜寛永9年(1632)

加藤清正三男   改易
細川忠利
   光尚
   綱利
   宣紀
   宗考
   重賢
   治年
   斉茲
   斉樹
   斉護
   韶邦
寛永9年(1632)〜寛永18年(1641)
          〜慶安2年(1649)
          〜正徳2年(1712)
          〜享保17年(1732)
          〜延享4年(1747)
          〜天明5年(1785)
          〜天明7年(1787)
          〜文化7年(1810)
          〜文政9年(1826)
          〜万延元年(1860)
          〜明治2年(1869)
豊前小倉より入部  細川忠興三男
忠利長男
光尚次男 
支藩新田藩主細川利重次男
宣紀四男 江戸城内で間違って刺殺される 
宣紀五男 藩校「時習館」病院「再春館」薬園「蕃滋園」を開設
重賢長男
支藩宇土藩主細川興文次男 隠居し、家督を譲る
斉茲長男
支藩宇土藩主細川立之長男 
版籍奉還後、熊本藩知事に

江戸時代以降
明治3年(1870)   熊本藩知事細川護久、「熊本城廃毀」を出願。熊本城を一般開放する。

明治4年(1871)  鎮西鎮台を設置(明治6年、熊本鎮台に改称)。

明治9年(1876)  神風連の乱。

明治10年(1877)  西南戦争で私学校党(薩摩軍)の攻撃を受けるも、50日以上に渡って持ちこたえる。
            尚、薩軍総攻撃前日、原因不明の出火で、宇土櫓他12櫓を残して焼失。

昭和8年(1933)   熊本城内建造物を国宝指定。

昭和25年(1950)  国宝建造物が重文指定に変更(文化財保護法改正)。

昭和35年(1960)  天守閣再建。

平成元年(1989)  数奇屋丸二階御広間復元。


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