日本名城探訪記〜甲信越編〜


甲府城

甲府城梅林門概要
別名、「舞鶴城」。本来の名前は「甲斐府中城」。
甲府盆地のほぼ中央に位置する、一条小山という小高い丘を利用した、平山城である。

起源
諸説あって、定かなことはわかっていない。現在有力な説は、天正18年(1590)羽柴秀勝によるものとされている。
しかし、天正19年(1591)に、秀勝は転封となり、替わって加藤光泰が甲斐に封じられ、本格的な築城開始は、この時期とされている。光泰も朝鮮出兵の折に陣没し、文禄2年(1593)に替わって甲斐に封じられた、浅野長政によって、一応の完成とする説が有力である。

構造
甲府盆地の中央部に位置する、一条小山を盛り土、石垣によって基礎固めを行い、天守閣・本丸・東の丸(稲荷曲輪)・楽屋曲輪・屋形曲輪・清水曲輪を複合的に組み合わせた構造となっている。石垣は、西国大名特有の、「穴太積み」(野面積みに近い工法)で築かれている。
また、宝永年間に城主となった、柳沢吉保の時代に拡張され、現在の姿はその時代の一部が残された形となっている。

 

甲府城の特徴は、安土桃山時代に、家康・秀吉の勢力圏の境に位置していたことにある。
この点について、以下で考察していきたい。

 

家康時代
甲斐国は、従来武田家が代々支配していたが、天正10年、天目山において武田勝頼自害によって武田家が滅亡した後、織田家の支配となる。信長は、家臣川尻秀隆を派遣したが、同年の本能寺の変による混乱期に、武田家の遺臣三井弥一郎のクーデターによって、殺害された。その混乱期に家康は甲斐に出兵し、武田家遺臣を配下に加えて甲斐を支配下に収めた。

この時期の、織田・徳川家の支配は、武田家の躑躅ヶ崎館で行われていたが、躑躅ヶ崎館は、武家屋敷であって城ではなく、北条氏との勢力圏に近い甲斐においては、不備が多かった。家康は、甲府盆地の中央部に位置する一条小山に注目し、ここに近代城郭を築城する計画を立てていた。実際に縄張り(設計)までは行われていたらしい。

しかし、天正18年(1590)の北条氏滅亡の後、徳川家は、駿・遠・参・甲・信から、関東八州へ転封となり、甲斐国は、秀吉の養子、羽柴秀勝に封じられることになった。

 

豊臣時代
豊臣時代には、羽柴秀勝・加藤光泰・浅野長政と、城主が替わったが、秀勝の時に着工、光泰の時代に、内郭の完成、長政の時代に、外郭の完成となったようである。

甲府城の発掘調査によると、金箔瓦と、五三の桐紋の板瓦が出土している。秀吉は、天正19年(1591)に、菊紋(天皇家の紋)と五三の桐紋(豊臣家の紋)を勝手に使用することを禁じているため、この甲府城が、秀吉の許可を得て築城されているものであり、その立場を重視していることがわかる。これは、甲斐国が、家康の関東八州の隣国であり、秀吉の政略仮想敵であった、家康への対策として考えられる。つまり、甲府城は、東(家康)への備えとして築かれた城であると言える。同様に金箔瓦が出土している例として、松本城・上田城・小諸城・駿府城・岐阜城があることから、この金箔瓦は、対家康包囲網の一環として、戦略的に重視された城に使用されていることがわかる。

 

江戸時代
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の後、浅野幸長(長政の子)は、紀伊へ転封となり、甲斐国は、徳川家譜代の平岩親吉が城代となった。この時代に、豊臣政権のシンボルであった、金箔瓦や、違い鷹の羽紋(浅野家の家紋)の瓦は撤去されたと考えられる。

江戸幕府成立以後は、徳川家親藩か、幕府直轄が原則となり、「東への備え」であった甲府城は、一転して、徳川家の戦略仮想敵の西国大名(初期は豊臣家・その後は、島津・毛利家)への、言わば「西への備え」となった。

江戸中期に、柳沢吉保・吉里父子が城主となり、甲府城は再整備され、城としての最盛期を迎える。
しかし、その後、享保12年(1727)の大火や、安政の大地震、幕府財政の緊迫化によって、衰微していった。

幕末においても、甲府城は、江戸防衛の最後の砦であり、新撰組が、「甲陽鎮撫隊」として派遣されたが、到着前に官軍によって攻略されていた。

 

甲府城天守台より江戸時代以降
明治維新後、廃城となり、城郭は壊された。
外郭部分は、市街地となっているが、内堀に囲まれた部分は、保存の原則が守られており、現在は、「舞鶴公園」として、一般公開されている。

明治37年(1904)、県立公園として、一般公開開始。

昭和43年(1968)、「甲府城址」として、山梨県文化財保護条例により、史跡指定。

 

 

 

 


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