日本名城探訪記〜九州編〜


唐津城

唐津城概要
別名「舞鶴城」。天守閣を鶴の頭に見たて、左右の松原が翼を広げた鶴に見えることから、この別名が付いたという。かつては水軍の根拠地でもあり、水上交通の要衝であった。

起源
秀吉の側近、寺沢広高が朝鮮出兵の根拠地「名護屋城」の後詰として築いた城がその起源。その後、唐津藩初代藩主となった寺沢広高が、慶長7年(1602)から本格的な築城を始め、慶長13年(1608)に完成した。尚、唐津城には天守台はあったが、天守閣があった記録はない。現在の天守閣は、昭和41年(1966)に建てられた模擬天守である。

構造
松浦川の河口に面し、姉子ノ瀬に突き出した満島山を利用した平山城。元々は満島と陸続きであったものを人工の川で分離させたらしい(現在の松浦川河口)。城の北側は海であり、東は松浦川の河口、南は町田川と松浦川の合流地点、西側には人口の堀を掘り、町田川から水を引いている。外郭には、二の丸・三の丸を構成し、二の丸には藩主御殿(現、唐津東高校敷地)・藩庁を配置していた。

唐津城築城前
唐津は、神功皇后船出伝説があるなど、古くから港町として栄えていた。「唐津」の名前は、「唐」(広義では朝鮮半島や中国)への「津」(港という意味)から付いたと想像される。

中世以降、水上交通の要衝となり、戦国時代には、豪族松浦氏の一族、波多氏が治め、松浦水軍の根拠地となった。
波多氏は、岸岳城を本拠地としていたが、波多守親の代に朝鮮出兵において不都合があり、文禄2年(1593)秀吉によって改易となっている。

 

唐津城築城
波多氏に代わって、8万3千石で封じられたのは、秀吉の側近寺沢広高で、朝鮮出兵の意味もあり、山城であった岸岳城に代わり、新たな城を現在の地に築いた。この際、朝鮮出兵の最中であったが、九州諸大名の加勢を受け、比較的短期間に完成している。現在でも、肥後掘・薩摩掘など、九州各地の地名がついた掘にその痕跡が見られる。これは、各大名が受け持った場所と推定される(他には、佐賀・長州・柳川などがある)。
唐津城には天守台があるが、天守閣が築かれた形跡はない。いずれ築こうと思っていたのか、あるいは、築城に敏感な江戸幕府に遠慮したのかは不明である。

寺沢広高は、関ヶ原では東軍に属し、その際の戦功で、天草4万石(飛地)を加増され、計12万3千石となっているが、この加増が後に寺沢氏にとって転落の契機となることは、もちろん知るよしもなかった。慶長7年(1602)、天草支配のために、富岡城を築いたのだが、寛永14年(1637)10月に勃発した農民一揆において、この富岡城が、一揆軍の攻撃目標となるのである。世に言う、「天草・島原の乱」である。
富岡城は、原田伊予の指揮で、落城こそ免れたが、富岡城番代三宅籐兵衛は、一揆軍を迎撃した際、討ち死している。

 

江戸時代
唐津藩2代目寺沢堅高は、天草領の管理不行届きを咎められ、天草4万石を没収されてしまう。同時に乱が起こっていた島原藩2代藩主松倉勝家は、斬罪となっていることから考えると、軽い処分ではあるが(飛地で新領であったためか?)、4万石の減封によって、経済的に家臣団の維持が困難となった。なおかつ、長崎警備の負役、唐津藩内の凶作、キリシタンへの弾圧など、乱後、唐津藩にる立て続けに起こった要素からか、寺沢堅高は自殺してしまう。心理的な重圧によ心労が原因と言われている。この時寺沢家には嗣子が無く、改易となっている。

寺沢家改易後は、代々譜代大名が治めることとなる。唐津城主は、後に幕府の重職に就くことが多いようである。譜代大名歴代城主を下記に記す。

 

 

 

城主名 在位期間 備考
寺沢広高
   堅高
慶長7年(1602)〜寛永10年(1633)
          〜正保4年(1647)
外様8万3千石。関ヶ原の後、天草4万石を加増。
天草の乱後、天草領没収。後自殺。嗣子なく改易。
大久保忠職
     忠朝
正保4年(1647)〜寛文10年(1670)
          〜延宝6年(1678)          
播磨明石より入部。8万3千石。
老中。下総佐倉へ転封。
松平乗久
   乗春
   乗邑
延宝6年(1678)〜貞享3年(1686)
          〜元禄3年(1690)
          〜元禄4年(1691)
下総佐倉より入部

志摩鳥羽へ転封。後、大阪城代・老中
土井利益
   利実
   利延
   利里
元禄4年(1691)〜正徳3年(1713)
          〜元文元年(1736)
          〜延享元年(1744)
          〜宝暦12年(1762)
志摩鳥羽より入部。7万石。


下総古河へ転封。後、寺社奉行・京都所司代。
水野忠任
   忠鼎
   忠光
   忠邦
宝暦12年(1762)〜安永4年(1775)
          〜文化2年(1805)
          〜文化9年(1812)
          〜文化14年(1817)
三河岡崎より入部。6万石。虹の松原一揆起こる。


遠江浜松へ転封。後、京都所司代・老中「天保の改革」実施。
小笠原長昌
     長泰
     長会
     長和
     長国
文化14年(1817)〜文政6年(1823)
          〜天保4年(1833)
          〜天保7年(1836)
          〜天保11年(1840)
          〜明治2年(1869)
陸奥棚倉より入部。



版籍奉還。世子長行は老中。 

江戸時代以降
明治4年(1871) 廃城

明治10年(1877) 本丸城址、舞鶴公園となる。

昭和41年(1966) 模擬天守建造。


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