日本名城探訪記〜近畿編〜


二条城

二条城二の丸起源
永禄12年(1569)織田信長が、室町幕府第15代将軍足利義昭のために、二条に建造した居館がその起源。現在の二条城は慶長8年(1603)、徳川家康が京都御所の守護と、将軍上洛時の宿泊所として建設した。

その後、3代将軍家光が、伏見城の遺構を移すなどして、寛永3年(1626)年に、事実上の完成となった。

構造
二条城は、徳川家の京都における根拠地であり、戦闘を行うための目的はない。堀が設けられてはいるものの、天嶮を利用した戦闘用の城ではなく、政治目的の平城である。

寛延3年(1750)、落雷により、五層の天守閣は焼失し、現在に至るまで再建されていない。本丸内に天守閣跡だけが残る。
また、天明8年(1788)の京都大火で本丸を焼失している。

建築上の意匠として、
・うぐいす張り・・・目かすがいと釘の間に隙間を設け、重力がかかると音が鳴る仕組み。
・折上げ格天井・・・四方を丸く折り上げた天井(大広間一の間)
が有名である。

概要
二条城が、その政治的目的を発揮するのは、上方で動乱があった時で、大坂の陣や、幕末の動乱期に、徳川将軍の居館として利用された。

というよりも、むしろ大坂の陣、幕末以外には、利用されなかったという方が正確かもしれない。文久3年(1863)、朝廷による「攘夷御督促」に対する、14代将軍家茂の上洛は、寛永11年(1634)に3代将軍家光が、30万の軍勢を引き連れて上洛した時以来のことであった。大坂の陣の際には、後方拠点として、幕末には対朝廷工作の拠点として重要な役割を担った。

慶応2年(1866)、14代将軍家茂の死後、一橋慶喜は二条城にて将軍職を継ぎ、第15代将軍徳川慶喜となった。翌慶応3年(1867)、40諸藩の重役を参集し、土佐藩山内容堂の建議「大政奉還」のための会議が行われ、二の丸御殿大広間において大政奉還が発表された。二条城は事実上の徳川幕府・及び江戸時代終焉の地となった。

江戸時代以降
明治元年(1868)、城内に新政権太政官代がおかれたが、後に東京に移転、明治4年(1871)には二の丸に京都府庁が置かれた。明治17年(1884)年には、二条離宮となり、その後、本丸御殿(桂宮御殿を移築、明治26年)、二の丸改装(明治30年)、南門の設置(大正4年)が増設された。

二条城本丸昭和14年(1939)、宮内省より京都市へ下賜され、翌昭和15年から、恩賜元二条離宮二条城として、一般公開を始める。

昭和27年(1952)、文化財保護法の制定により、二の丸御殿が国宝、本丸御殿が重要文化財指定を受ける(二の丸障壁画の重文指定は昭和57年)。

昭和40年(1965)には、江戸初期の豪商、角倉了以邸宅の庭石などを使用した清流園が造成された。

二の丸御殿は、武家風書院造りの代表的なもので、御車寄(入口)から、西北方向に、雁行に6つの棟が配置されている。各部屋は狩野派による襖絵で飾られ、欄間の彫刻、長押、飾金具にふんだんに金が使われている。また眼前に広がる二の丸庭園は、小堀遠州の作と伝えられ、池泉回遊式庭園となっている。

本丸御殿は旧桂宮御殿で、元は、弘化4年(1847)に京都御所に建てられたもの。宮御殿として現在に伝わる、唯一の建物である。

二条城は、元伏見城の遺構を移築し、また、慶長年間の建造物、寛永年間の障壁画などを現在に伝えており、桃山文化の雄大で豪快な雰囲気を、そのまま体感できるものとなっている。

平成6年(1994)、ユネスコ世界遺産リストに登録。名実ともに、人類の秘宝となった。


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