日本名城探訪記〜中国編〜


岡山城

岡山城天守閣概要
別名「烏城」、又は「金烏城」。この場合の「烏」とは、カワウのことではなく、カラスのこと。
外壁の下見板を黒漆で塗っていたため、日光に当たると、カラスの濡れ羽色に似ていたことから、「烏城」と称された。また、金の鯱鉾を掲げていたことから、「金烏城」とも呼ばれていた。
信長の安土城を模して造られたと言われ、桃山様式を今に伝える城となっている。

起源
南北朝時代の正平年間(1346〜70)に、南朝方名和氏の一族、上神高直が岡山(石山・旧岡山城)に築いたのがその起源。現在の岡山城の起源は、宇喜多直家の子、「備前宰相」秀家(秀吉の養子となった)が、天正18年(1590)に起工したものである。

構造
城の北・東側に、旭川を引き込んで天然の掘とし、西・南側には、内堀を掘って城域を囲んでいる、平山城。旧岡山城の東側に新本丸を築き、旧岡山城本丸を二の丸内郭、旧二の丸と西の丸として拡張している。
後に、小早川秀秋が「二十日掘」と言われる外堀を形成している。
本丸は、表書院と一段高くなった本段(天守閣があるのはこちら)にわかれているのが特徴的である。
また、天守閣は方形(正方形)ではなく、矩形(長方形)で横長であり、第一層が五角形であるのは、他には類を見ない構造となっている。
3層の屋根を持ち(他には熊本城だけ)、塩蔵を組み合わせた、複合式天守閣となっている。

 

宇喜多時代
備前で着々と勢力を伸ばしていた、沼城主宇喜田直家が、元亀元年(1570)に旧岡山城主だった、金光宗高を滅ぼし、以後、岡山城を本拠地として、備前平定に力を注ぐことになる。
直家の実子秀家は、子のいなかった豊臣秀吉の養子となり、父直家の遺領である備前・美作の他に、備中の一部を拝領し、57万石4000石という大大名となった。後に参議従三位に任ぜられ、「備前宰相」と称されるようになった。

秀家は、秀吉の勧めで旧岡山城の城外にあった丘陵に、旭川の流路を変えて流れこませ、掘削した土砂と積み上げて、新たな城を築いた。起工は天正18年(1590)とされ、慶長2年(1597)に完成したと言われている。この時、旧岡山城は、岡山城の二の丸として組み込まれた。現在のNHK岡山付近である。

秀家は、秀吉政権において、前田利家・徳川家康・毛利輝元・上杉景勝と共に、「五大老」を形成していたが、秀吉死後の関ヶ原の合戦で、西軍勢力の中心となったために、戦後は改易となり、同じく秀吉の養子である、小早川秀秋が岡山に封じられた。

 

秀家が、西軍に属した理由を考えてみる。
・秀吉の恩顧のため。
・五大老として、秀吉死後の家康の横暴が許せなかった(秀吉が禁止した、大名間の通婚を3件行っていた)。
・「五大老」のうち、100万石未満は宇喜多家だけであり、関ヶ原で勝てば、毛利・上杉に次ぐ勢力になると予想した。

関ヶ原で、仮に西軍が勝っていれば、280万石以上と言われた家康は取り潰しとなり、東軍に人質を送っていた前田家の100万石も削減されることが予想された。毛利・上杉家が120万石から増加はするだろうが、宇喜多家も100万石以上になる可能性が充分にあった。
しかし、結果的には、57万石はふいになり、秀家自身は八丈島へ流罪となってしまった。

 

小早川時代
小早川秀秋は、秀吉の猶子(準養子)であり、関ヶ原の役では、緒戦の伏見城攻めでは西軍に属していたが、最後の瞬間で東軍に寝返り、東軍勝利のきっかけとなった。その戦功で備前岡山に封じられた秀秋は、二十日掘を掘るなど、岡山の整備に努めたが、早世し、後継ぎがなかったことから改易となり、池田家が封じられた。

 

池田時代
岡山城 月見櫓池田輝政は、徳川家の女婿であり、関ヶ原の合戦の後、播磨52万石の姫路城主となるが、小早川秀秋没後、輝政の子、忠継が岡山28万石に、わずか5歳で封じられている。
家康の外孫ゆえの厚遇といえるが、実際は忠継の兄、利隆が政務を行い、実質的な城主であった(忠継はそのまま姫路城にいた)。忠継が岡山に入部するのは、父輝政没後に、利隆が姫路城主を継いだ時であった。この時、播磨姫路藩のうち、10万石が封じられ、38万石となっている。

池田家2代忠雄は、月見櫓(重要文化財指定)を造営している。また、兄弟に10万石を分地し、備中3万石を加えて、31万石となっている。以後幕末まで岡山藩の石高は変わらない。

忠雄の子光仲は、忠雄病没時幼少であったため、鳥取城主池田光政と国替えになっている。光仲の系譜は、以後も鳥取で続いている。

池田家4代綱政は、後楽園(造営当時は御後園、明治後に後楽園と改称)を造営した。

 

歴代城主
岡山城歴代城主を下記に記す(岡山城入城パンフレットより作成、但し、現在の岡山城を造営した、宇喜多秀家を初代とする)。

城主名 在位期間 備考
宇喜多秀家 天正10年(1582)〜慶長5年(1600) 57万石。関ヶ原合戦の後、改易。八丈島へ流罪となる。
小早川秀秋 慶長5年(1600)〜慶長7年(1602) 51万石。嗣子なく改易。
池田忠継

   忠雄

   光政

   綱政
   継政
   宗政
   治政
   斉政
   斉敏

   慶政
   茂政

   章政
 
慶長8年(1603)〜元和元年(1615)

          〜寛永9年(1632)

          〜寛文12年(1672)

          〜正徳4年(1714)
          〜宝暦2年(1752)
          〜明和元年(1764)
          〜寛政6年(1794)
          〜天保4年(1833)
          〜天保13年(1842)

          〜文久3年(1863)
          〜明治元年(1868)

          〜明治2年(1869)
 
家康外孫。姫路城主池田輝政の子。
28万石、後に38万石に加増。
淡路由良6万石より、兄の後を継ぐ。
月見櫓完成。31万石(以後幕末まで)。
忠継の嫡子光仲が幼少のため、鳥取32万石より国替え。
光仲は鳥取藩へ。俸禄制の導入。
後楽園(御後園)造営




島津斉興次男。斉政の娘婿・養子となる。
薩摩藩主島津斉彬・久光とは実兄弟。
豊前中津藩主奥平昌高の子。斉敏の娘婿・養子になる。
水戸藩主徳川斉昭9男。慶政の娘婿・養子になる。
第15代将軍慶喜は実兄弟。
肥後人吉藩主相良頼之次男。
鴨方藩主池田政善の養子を経て、茂政の養子となる。

 

 

岡山城天守閣江戸時代以降
明治2年(1869)の版籍奉還により、兵部省管轄となる。

明治23年(1890)旧藩主池田章政に払い下げ。

昭和20年(1945)岡山大空襲で天守閣・石山門焼失。

昭和35年(1960)旧藩士を中心に、岡山城再建期成同盟会の結成。

昭和39年(1964)再建着工。

昭和41年(1966)再建竣工(鉄筋コンクリート)。

 

 

※この項は、岡山城のHPを参照しています。


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