日本名城探訪記〜近畿編〜


大阪城

大阪城天守閣
起源
明応5年(1496)に、浄土真宗の蓮如上人が坊舎を設けたのがその起源。後に石山本願寺となる。

戦国期には、浄土真宗(一向宗)は、一大宗教結社となり、各地で従来の支配者と抗争を繰り広げた。石山本願寺はその総本山的存在となり、上町台地の北端であること、西は海、北と東には川と、天然の堀を廻らせた、難攻不落の寺となった。

大阪湾は古くから難波津として、波浪の影響の少ない天然の良港として知られていた。海外貿易構想から、この地の立地条件に注目した織田信長が、石山本願寺に退去を命じたが、本願寺側はこれを拒否、以降織田軍と泥沼の抗争が、天正8年(1580)まで続くことになる。

 

概要
元亀元年(1570)の挙兵から、織田軍を撃退し続けたのは、上記の立地条件の他に、海路を利用した、毛利軍の援助があった。また、江戸期には内海海運が栄え、「天下の台所」大坂に、瀬戸内から日本海沿岸諸藩の産物を集めるようになった(西廻り航路)。その意味では、信長には先見の明があったと言える。

織田信長が本能寺の変で斃れた後、実権を握った羽柴秀吉がその構想を受け継ぎ、天正11年(1583)大坂城を築いた。この際、大規模な防御設備が設けられ、「難攻不落」「三国無双」と評されるようになった。ちなみに、秀吉の政治構想は、ほとんどが信長構想の延長(太閤検地・刀狩など)で、オリジナリティーがあるものは、失敗に終わった朝鮮出兵だけである。

大坂城の落城
秀吉の死後、慶長14年(1614)、大坂冬の陣で「難攻不落」の城は事実上落城する。その要因は
・指揮系統が1本化されていなかった(豊臣秀頼・淀君・大野治長など)
・秀吉の大坂城防備構想の、三の丸防備ができなかった(将校不足のため)
・毛利高政による大筒(「四海波」)による天守閣砲撃

である。2点目・3点目に解説を加えると、
・大坂城は南方に天嶮がなく、秀吉もそれに苦心したが、大規模な三の丸(現在の大坂環状線玉造駅の
 あたりまで)を設置し、これを防備することで対応していた。
 豊臣家が関が原で60万石に減封されたこと、太閤子飼いの武将が徳川幕府の外様大名となったために、
 三の丸守備の将校がおらず、大半は二の丸防備と兼務だった。
・毛利高政は大筒の名手で、朝鮮出兵の際にも、蔚山の戦いで、明軍に対して百発百中の精度をみせた。
 豊後佐伯2万石の大名。四海波と自ら名付けた大筒で、天守閣の柱に命中させ、天守閣が傾いたと言われる。

翌慶長15年(1615)、大坂夏の陣で名実共に落城する。この時には、冬の陣の和議で、本丸以外の城郭・掘は撤去され、城の防御能力は、冬の陣の時に比べて、格段に薄れていた。落城前日の、真田幸村・毛利勝永・明石全登・木村重成らの奮戦は特筆に価する。しかし、局地的な勝利は全体の勝利とはならず、本丸も炎上した。

大坂の陣の後、一時松平忠明領となるが、原則は幕府直轄領であり、元和6年(1620)年から、大規模な修築工事を行った。寛永6年(1629)に工事は完成するが、寛文5年(1665)に落雷によって天守閣が炎上、その後、江戸期を通じて天守閣が再建されることはなかった。豊臣期の大坂城は34年間、徳川期の大坂城は36年間しか存在しなかったことになる。幕末に町人の御用金で大手多聞櫓の再建など、大修復が行われたが、明治維新の動乱で、再び多くの建造物を焼失した。

江戸時代以降
昭和6年(1931)鉄筋コンクリート造りの天守閣を再建。太平洋戦争の空襲にも破損されることも無く、昭和23年(1948)史跡公園となり、現在に至る。平成9年(1997)に外壁塗り替えなどの大規模な改修を施している。

構造
大阪城の建設上の特徴は、巨石の使用であり、域内の石垣には、今も多くの巨石が見れる。多くは中国四国地方から切り出され、瀬戸内海を海運されたものである。巨石のうち、最大のものは、桜門入り口突き当たりにある。秀吉の権力の巨大さと、その莫大な財力を感じることができる。

桜門の巨石

こちらが桜門の巨石。

 

 

 

 

 

 

大阪城域内の建造物のうち、大手門・多聞櫓・千貫櫓・乾櫓・一番櫓・六番櫓・煙硝蔵・金蔵・桜門・金明水井戸屋形は重要分化財に指定されている。

桜門大手門多聞櫓

 

 

 

 

 

 

 

左が桜門、右が大手門多聞櫓。

なお、大阪は明治時代に「大阪」と表記が変更になっているため、ここでの表記は明治以前を「大坂」、明治以後を「大阪」としている。


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