日本名城探訪記〜甲信越編〜


富山城

富山城天守閣概要
別名浮城、または安住城。加賀藩前田家の支藩富山藩前田家の居城。
富山平野の中央に位置し、旧神通川(現在は埋め立てられている)、北陸道といった交通の要衝を押さえた地である。

起源
天文12年(1543)に、越中の豪族、神保氏の家臣と考えられる、水野勝重が築いたのがその起源とされている。その後、天正9年(1581)に織田信長によって越中に封じられた、佐々成政が堀を整備し、櫓を設けて改修を行った。また、寛文元年(1661)にも、越中前田家が改修を行っている。

構造
旧神通川を天然の堀とした平城。城の北側が旧神通川で、南側は北陸道が通っている。
神通川に面した方に、本丸と西ノ丸を配置し、北陸道側に二ノ丸、三ノ曲輪を配置している。現在の天守閣は、犬山城、松本城を参考にした、模擬天守である。

 

神保・上杉時代
越中守護畠山氏は、西部を守護代神保氏、東側を守護代椎名氏に統治させていたが、神保氏が家臣水野勝重に旧神通川の川州に築城させると、椎名氏は領地を侵犯した主張、以後椎名氏との抗争の対象となる。
富山城は、神保氏3代の居城となったが、上杉・椎名・神保氏の間で、めまぐるしい帰属変更が起こる。

永禄3年(1560)3月、神保長職は一向一揆と結び、椎名氏の松倉城を攻めたが敗退し、逆に椎名氏の援軍、上杉謙信によって富山城を包囲されている。長職はこの時、増山城に退却している。
謙信は河田長親を富山城主としたが、謙信が越後に引き返すと、富山城は豪族の攻撃を受けることとなる。
永禄12年(1569)には椎名氏が、元亀3年(1572)には武田信玄に煽動された一向一揆が、元亀4年(1573)には、再び椎名氏が占領している。上杉謙信は都度出兵し、富山城を再占領しているが、越中を統治しきれていなかったようである。
元亀4年は、奪還したものの、越後帰国後に、今度は神保氏に占領されている。

天正4年(1576)9月、神保氏張は上杉軍2万に包囲され落城した。これを機に越中は謙信によって平定され、上杉軍は能登に進出することになる。しかし、天正6年(1578)に謙信が急死すると、神保長住(長職の子)は、織田信長の応援を受け、富山城を奪還した。
その後、神保氏は魚津城の上杉氏家臣河田長親と対抗している。

天正8年(1580)、信長は佐々成政を越中に派遣し、神保氏を助けているが、長住は上杉方の小島氏や唐人氏等に富山城を奪われ、追放された。ここに、神保氏の時代が終わることとなる。

 

佐々成政
織田信長は、柴田勝家を総大将に、北陸道へ進出していった。
天正9年(1581)に、佐々成政を越中の守護に任命し、越後の上杉勢に備えた。この時、成政は富山城を改修している。

しかし、信長が本能寺で斃れ、北陸の総大将柴田勝家も賤ヶ岳で敗れ、北ノ庄城で自害すると、北陸の情勢は一変する。
佐々成政は、上杉の残党を滅ぼし、越中を平定した。しかし、小牧・長久手の戦いで、織田信雄・徳川家康方に味方すると、秀吉と敵対するようになる。天正13年(1585)に秀吉は北陸に進出し、成政は降伏する。この時、成政は減封されるものの越中に残っている。

佐々成政は、侍女早百合を斬殺するなど、風評はあまりよくない。富山には、この早百合の怨念伝説が、かなり長く残った。
しかし、富山城や、富山一帯の整備を行うなど、後世にはその恩恵を残している。

佐々成政は、その後肥後へ転封となるが、後に起きた一揆の責任を追及され、切腹している。
これは、秀吉の策略で、転封を行うことによって、旧勢力と対立させ、かつて敵対した大名を葬ると共に、旧勢力も一掃するという、一石二鳥の作戦である。佐々成政だけでなく、徳川家康・伊達政宗などもこの政策を受けている。但し、後者はうまく旧勢力との対立を避けている。

 

加賀前田家
佐々成政転封後、越中は加賀前田家に追封されることとなった。慶長2年(1597)、富山城は、前田利家の子、利長の居城となったが、父利家の死後、金沢城主を継いだので、富山城は、城代が派遣されることになる。利長は、隠居後富山城に戻るが、慶長14年(1609)の大火で全焼し、利長は高岡に城を築いて移っている。以後、富山城は、城番預かりで放置されることとなる。

富山城に再び栄華が戻るのは、寛永16年(1639)で、加賀前田家は、10万石を分知して、支藩富山藩を作った。これは、本藩の血統が絶えた時に備えたものである。江戸幕府は、大名の血統が絶えると、改易に処していたので、血統を別保存し、いざ血統が絶えた時には、支藩から後継ぎを迎えるという目的があった。前田家以外にも、数多くの大名が、支藩を作っている。

加賀前田家は、3代当主前田利常の次男、前田利次が封じられ、寛永17年(1640)に入部した。以後、13代232年間、明治に至っている。

しかし、富山城自体は、延宝3年(1675)に類焼、正徳4年(1714)に本丸御殿焼失、天保2年(1831)本丸全焼、安政2年(1855)千歳御殿焼失、文久3年(1863)諸役所焼失と、火災で初期の建物をほとんど失っている。

 

江戸時代以降
明治維新後、城郭建築取り壊し。

明治18年(1885)、富山県庁が置かれる。

昭和5年(1930)、県庁焼失後、城址公園となる。

昭和28年(1953)、翌年の富山産業大博覧会の開催を記念し、模擬天守閣建設。
昭和29年(1954)、富山産業大博覧会開催、各種展覧会を開催する。展覧会後、郷土博物館として開館。

昭和54年(1979)、自然史・理工部門を富山市科学文化センターに移管。
昭和59年(1984)、売薬資料を富山市売薬資料館に移管し、歴史博物館となる。

 


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