日本名城探訪記〜東北編〜


弘前城

弘前城天守閣南西側概要
津軽藩10万石の居城で、別名というか、旧名「高岡城(鷹岡城)」。
東北、というか、東日本で唯一現存する城郭である。

起源
慶長15年(1610)に築城した高岡城がその起源。初代津軽為信が慶長8年(1603)に幕府の許可を得て、慶長9年(1609)から築城工事にかかったという説もある。
高岡城は、翌慶長16年(1611)に完成し、2代藩主津軽信牧が、旧居城の堀越城から移転したが、寛永4年(1627)に落雷で天守閣を焼失し、翌寛永5年(1628)に、高岡城を弘前城と改名した。

天守閣焼失以後は、長らく天守閣のない状態であったが、文化7年(1810)に幕府の許可を得て、現存する天守閣を新たに築いた(旧天守閣とは別の場所)。
しかし、幕府に遠慮してか、江戸期は御三階櫓と称されていたらしい。

 

構造弘前城追手門
本丸に堀(内掘?)を巡らし、この本丸を中心に、北の郭・西の郭・二の丸を複合的に組み合わせている。この辺りまでは、防御能力は高いように思われる。北の郭・西の郭・二の丸の祖と外側にも堀(中堀?)があり、この外側に更に三の丸・四の丸を配置している。
三の丸・四の丸の外側にも堀(外堀?)を巡らせているが、10万石という規模(動員可能兵力約2500人)では、守備線が広過ぎる。いざという時には、三の丸・四の丸は放棄して、中掘より内部を固める思想であったのではないか、と思う。
中堀内は複雑な構造で、中掘の外では、単純な構造であるのが特徴的である。

本丸西側は二重の堀となっていて、門はない。中堀には、東内門・南内門が設置されている。外堀には、追手門・東門・北門が配置されている。
江戸期よりの城郭構造が、そのまま全て残されているのは、全国でも異例である。

天守閣は、中堀に面している2面(南・西側)は千鳥破風で飾られているが、本丸側の2面(北・東側)は、連続窓の質素な造りになっている。

 

弘前城天守閣北西側
弘前城の特徴
瓦が最も特徴的で、本丸天守閣の瓦は、木で瓦の下地をつくり、銅板を貼った銅瓦葺である。
その他の三棟の隅櫓の屋根は、いずれも栩葺と呼ばれる板葺である。これは、長さ90センチほどの板を、20センチ前後の葺足で重ねて葺く方法である。
城の瓦が板葺では戦時の防火という点で不利だが、津軽のような豪雪地帯では、普通の土瓦は冬に凍って割れる恐れがある。
他の地域でも、金沢城の鉛瓦、越前丸岡城の石瓦の例があり、これらと同様の理由であろうと考えられる。

また、天守閣こそ、白漆喰で塗り固められているが、5つある門は下部が木材むき出しのままであり、全体的に武骨な印象を受ける。


津軽家勃興
津軽藩藩祖、津軽為信は、元々大浦為信と称し、南部家の家老であった。ところが、中央に秀吉が興隆すると見ると、主家の南部家とは別行動で秀吉に接触し、秀吉の小田原攻めにも参陣して、津軽地方の所領安堵を得た。
これによって、津軽家は秀吉直参の大名となり、南部家から独立する。南部家から見ると、豊穣な津軽地方を掠め取られたことになり、そのためか、江戸期を通じて、南部家との係争が多かったといわれている。

同様の例は、肥前竜造寺家の家老であった、鍋島家にも見られる。但し、肥前では、後に竜造寺家が滅んでいる。

津軽為信は、関ヶ原の折も、長男信健を西軍に参加させ、どちらが勝っても「津軽家」は存続するようにした、したたかな人であった。
津軽家の歴代当主を下記に記す。

初代 津軽為信 大浦守信の子で、叔父の大浦為則の女婿となり大浦城主を嗣ぐ。
2代    信枚 津軽為信三男。弘前城(高岡城)完成。
3代    信義 信枚嫡男
4代    信政 信義嫡男
5代    信寿 信政二男
6代    信著 信寿の嫡孫(信寿嫡男の信興嫡男)
7代    信寧 信著嫡男
8代    信明 信寧嫡男
9代    寧親 支藩黒石6千石の5代津軽著高の長男で、黒石領六代領主。
宗家に嗣子なく、宗藩藩主を継ぐ。
10代    信順 寧親嫡男
11代    順承 三河吉田藩主松平信明三男。支藩黒石藩8代親足の養子。
津軽順徳となるが、宗家に嗣子なく、宗家藩主を継ぐ。
12代    承昭 肥後熊本藩主細川斉護四男

 

南部家との抗争
津軽家は、南部家から勝手に独立した大名である。しかも、江戸期に津軽平野の新田開発に成功し、本家の南部家よりも裕福になってしまった。このことから、南部家の家中では、津軽家への憎しみが深く、「相馬大作事件」として表面化することになる。

相馬大作は、津軽独立から200年以後の人である。当時江戸で軍学者として名高かった、平山子竜門下で、四天王と言われる人であった。しかし、津軽家の行列を襲撃しようとし、失敗すると、行列に向かって銃を放ったという(津軽家当主は被害なし)。
津軽家独立から、200年以上も経った後、1人の学者が、白昼堂々大名行列に銃を撃ち込むなぞ、異例中の異例である。
このことから、南部家と津軽家の深い怨恨(南部家→津軽家の一方通行だが)がわかる。

 

江戸時代以降
明治41年(1908)、皇太子(当時、後の大正天皇)、公園を鷹揚園と命名。

大正7年(1918)、第一会観桜会。

昭和27年(1947)、国の史跡指定。


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