日本名城探訪記〜東海編〜


岐阜城

岐阜城天守閣概要
別名というか、旧名「稲葉山城」。
古来より肥沃な、濃尾平野の中心に位置し、長良川沿いの金華山を利用した、典型的な山城。

起源
建仁元年(1201)に、鎌倉幕府の執事、二階堂行政が、軍事目的のために築いたのが、その起源とされる。城郭としての築城は、永正6年(1509)、美濃守護代、斎藤氏によるとの説もある。

構造
長良川を見下ろす金華山と隣接する瑞龍寺山に、複合的に城郭を組み合わせ、「難攻不落の城」として、天下に名を馳せていた。しかし、実際には、3度の落城を経験している。

1回目・・・永禄7年(1564)1月11日、竹中半兵衛
2回目・・・永禄10年(1567)3月15日、織田信長
3回目・・・慶長5年(1600)8月23日、福島正則・池田輝政

である。その経緯の詳細は以下で触れる。なお、天正10年(1582)秀吉による、神戸信孝(信長の三男)攻めは、岐阜城を囲みはしたものの、講和によって解決していること、翌天正11年(1583)北畠信雄(信長の次男)による信孝攻めは、戦わずに開城しているため、落城には数えていない。

・竹中半兵衛の場合 ・・・武備を怠る、斎藤龍興を諌めるための、わずか16人での奇襲。
・織田信長の場合   ・・・攻城前に、松平(徳川)・武田と同盟を結び、鵜沼の大沢正重、西美濃三人衆の内応等、
                政略を尽くした上での攻撃であった。
・福島・池田軍の場合 ・・・関ヶ原前哨戦としての攻城であり、人数も、岐阜城側(城主織田秀信)6000余に対して、
                福島軍16000余、池田軍18000余という、圧倒的な戦力の差があった。

という、事情があり、正攻法で攻めれば、文字通り、難攻不落の名城であった。
竹中半兵衛は、斎藤家家臣であり、奇襲を知らない門番が、簡単に入城させたことが大きい。
また、織田信長は、永禄10年に陥落させるまでに、7回の遠征を行っている。
関ヶ原前哨戦でも、城主織田秀信が、織田家の伝統である城外決戦(信長の父、信秀以来籠城したことがない)を主張し、城から打って出たことに敗因がある。最初から籠城していれば、人数の差はあるにせよ、簡単には落城しなかったはずである。

道三以前
二階堂行政の築城以来、佐藤朝光・伊賀光宗・稲葉光資・二階堂行藤が城主となり、応永年間に、美濃守護土岐氏の執権、斎藤利長が城主となる。以降、斎藤氏の居城となる。
斎藤妙椿が城主となった際、美濃郡上八幡城を攻め落としている。
妙椿は、郡上八幡城主東常縁が、応仁の乱の余波による、千葉氏の騒乱を鎮めるための遠征中を狙ったのだが、
常縁が関東で落城の報を聞き、嘆いているということを聞き、
「和歌を詠んで送ってくれるなら、城を返す」(東常縁は、当代屈指の歌人で、妙椿もその方面の教養があった)
と常縁に伝えた。常縁もそれに応え、和歌十首を送ったとされている。

  たよりなき 身を秋風の 音ながら さても恋しき 故郷(ふるさと)の春
  堀川や 清き流れを へだてきて 住み難き世を 嘆くばかりぞ

このような、和歌を受け取り、妙椿は返歌を返すと共に、城も返している。戦国初期は、「元亀天正」を称される、戦国時代の全盛期に比べて、よほどのどかな雰囲気であったらしい。

その後、一介の油売り師が、斎藤家を乗っ取り、主家土岐家をも凌ぎ、美濃一国を奪った。「蝮」をあだ名される、高名な斎藤道三である。天文18年、稲葉山城を修復、天文23年に、嫡子義龍に譲り、鷺山城に移る。
しかし、弘治2年(1556)に、義龍に攻められ、長良川で戦死している。
義龍の母、三芳野は、道三の妻となる前は土岐頼芸の愛妾で、道三の妻になった時には、すでに義龍を身ごもっていたと言われている。つまり、義龍にとって、道三は父の仇となるわけである。しかし、道三の実子だったという説もあり、今となっては、確認のしようがない。義龍病死後、嫡子龍興が継ぎ、永禄10年(1567)まで、斎藤家の支配が続く。

信長時代
織田信長が、永禄10年に入城するまでは、城の名前は「稲葉山城」であり、街の名前も「井ノ口」であった。
「井(井戸)の口は狭い」ことから、信長は街、及び城の改名を決意し、尾張政秀寺の沢彦和尚に命名を依頼した。

周の文王、岐山に起って天下を望む

和尚は上記の中国の故事から、金華山を岐山に見立て、「岐山」「岐陽(南という意味)」と案を出すが、
信長は気に入らず、「岐阜(岐を阜す、丘・石のない山の意)」に至って同意したという。
岐山の「岐」と、孔子廟のある儒学の聖地、曲阜の「阜」を取ったという説もあるが、日本において、儒学が流行する
のは、江戸時代になってからであり、信長の時代の、曲阜の知名度を考えると、この説は的外れのような気がする。

信長は、有名な「天下布武」の朱印を使うようになり、楽市楽座や、関所の廃止など、新たな政策を打ち出していった(部分的には清洲城下でも行っていた)。岐阜での成功をみて、後、安土城下でも実践することになったと言われている。

信長は天正4年(1576)、安土城に移り、以降岐阜城主は、長男信忠が務める。
しかし、天正10年(1582)、本能寺の変で、信忠は討ち死、信長の三男、神戸信孝が伊勢神戸城より移る。
その、信孝も翌天正11年(1583)に秀吉の命によって、兄信雄に攻められ、開城する。織田家による岐阜支配はここで一時中断する。

岐阜城その後
天正11年(1583)、池田元助が城主となるが、翌天正12年(1584)に元助は父信輝と共に、小牧・長久手の戦いで
討ち死し、翌天正12年(1585)元助の弟、輝政が城主となる。

池田輝政は、江戸に転封となった、徳川家康への抑えの一人として、天正18年(1590)三河吉田へ転封となる。なお、
池田輝政は、秀吉の死後、家康につき、後、姫路城主となっている。

天正19年(1591)、秀吉の養子、豊臣秀勝が城主となる。しかし、翌文禄元年(1592)、文禄の役出陣中に陣没する。
余談ではあるが、秀吉の子で、「秀勝」という名前は3人いる。
初代(?)は、秀吉が長浜城主であった頃の実子で、早世している。
2代(?)は、信長の四男を養子に貰い、羽柴秀勝と名乗るも、天正13年(1585)、病没している。
3代(?)が、この岐阜城主で、三好吉房の子を養子にした。後の関白秀次の弟にあたる。

秀勝の死後、安土城主織田秀信(信忠の子、信長の孫)が入封し、16年ぶりに織田家の支配するところとなる。
秀信は、関ヶ原の戦いで西軍に属したため、戦後高野山で蟄居。慶長10年(1605)、病没している。

岐阜城自体は、慶長6年(1601)に廃城となり、その構造物は、加納城に多く移築された。

江戸時代以降
明治43年(1910)、木製の模擬城が建設される。

昭和18年(1943)、模擬城焼失。

昭和31年(1956)、現在の天守閣を再建。


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