日本名城探訪記〜北海道編〜
五稜郭
概要
開港により、幕府が置いた函館奉行所を守るための城郭。幕末、火器が飛躍的に発展し、従来の日本城郭では、守備が困難であると考え、武田斐三郎が設計、死角のない星型の構造とした。あくまでも、仮想的は外国艦隊であったのだが、実際には戊辰戦争最後の戦い、函館戦争の舞台となる。
起源
安政元年(1854)の日米和親条約により開港した、函館港を治めるための函館奉行所がその起源。当初は港湾近くにあったのだが、海防上の理由から、港湾から内陸地に移された。安政4年(1857)から建設が始まり、慶応3年(1864)に完成した。
構造
函館港の北東部に広がる平野部に、日本発の西洋式城郭建築として築かれた。しかし、当初日本で考えられていた艦砲射撃の射程距離は、幕末に飛躍的に発展し、艦砲射撃の射程圏内に入ってしまった。従来の城郭のような櫓は存在しない。外郭は下部が石垣、その上に土塁という構造になっている。
五稜郭は、外郭が低く、防御力は極めて低い。
幕末、榎本武揚以下、旧幕臣が五稜郭に立てこもり、独立国を作ろうとするが、この五稜郭の防御力を本気で考えていたのか疑問に思う。
五稜郭は、本州の城郭で言えば、言わば政治目的の平城であり、周囲は広大な平野である。
大軍に囲まれては、防御のしようがない。
以下は私、個人の推論である。
榎本武揚は、自分が艦長を務めていた、幕府軍艦「開陽」を初めとする、海軍の武力を過信していたのではないだろうか?
確かに、その戦力としては、新政府軍も充分に恐れを抱いていた形跡がある。
海軍重視のためか、五稜郭自体の城郭に改良を加えた形跡は見られない。
また、「開陽」を擁して、北海道を平定すれば、「新政府軍が攻めてくることはない」とタカをくくっていたのではないか?
北海道は、本州からの移住者が増えてきているとはいえ、人口は少なく、産業も発展しておらず、経済を貿易に頼っていたのである。
戦争を行うには、人口、経済共に不足していた感がある。
皮肉なことに、榎本が頼りとしていた軍艦は、大半が事故で失われた。
「開陽」自体が、江差攻めの折り、不安定な投錨地で、悪天候のため沈んでいる。
函館戦争では、新撰組の生き残り、「陸軍奉行並土方歳三」が奮戦するも戦死。土方の戦死後、旧幕府軍は新政府軍に降伏している。
五稜郭は、江戸時代・戊辰戦争の終焉地であると同時に、武士の終焉の地でもあると思う。
武士の生き残りである士族は、鹿児島の城山で終焉を迎えることになる。
榎本自身は、その見識を新政府から必要とされ、各大臣を歴任している。