日本名城探訪記〜東海編〜


掛川城

掛川城天守閣概要
別名、「雲霧城」。徳川勢侵攻の際に、井戸から霧が発生し、城を守ったということに由来する。
遠江の中枢に位置し、徳川時代には、西進する武田家への防御の拠点となった。

起源
文明年間(1469〜1486)に、今川義忠の命により、重臣朝比奈泰熙に築かせたのがその起源。今川家衰弱後、武田信玄が駿河に侵攻し、今川氏真は掛川城に逃れた。翌年、徳川家康に攻められ、開城。以降徳川家重臣石川家成が治める。家康が関東に転封となると、豊臣系の山内一豊が入城し、城の改築、城下の整備、天守閣の造営を行った。

構造
逆川と倉真川の合流地点の独立丘陵を利用した、平山城。3層4偕の天守閣を持つ。本丸は内堀で囲み、城外は外堀、城下町全体を総掘で囲んでいる。この堀には、上記の川を利用している。丘陵部を中心として、天守丸・本丸・二の丸・三の丸を配置した、堅固な作りとなっている。

掛川城の最大の特徴は、日本初の「木造による城郭再建」である。これまでの城郭再建とは異なり、極めて築城当時と近い形での再建となっている。平成6年に完成。山内一豊による縁なのか、高知城と非常に似た構成となっている。

家康時代
家康は、武田家と盟約を結んで曳馬城(浜松城)を攻略した後、一転して北条家と盟約し、掛川城を攻略する。
その後は、家臣石川家成が統治する。徳川時代は、高天神城と共に武田家西進の防御拠点となった。しかし、信玄の上洛戦の際、家康はそのルートを、駿河から、東海道沿いに西進すると考え、掛川城・高天神城の守りを固めたが、信玄は信濃から中央突破で二俣城に向かい、肩透かしを食らうことになる。

豊臣・江戸時代
秀吉の小田原城攻撃の後、徳川家康は、関東へ国替えとなった。その後、東海道の諸城は、秀吉の尾張時代からの朋友が配置されることとなった。駿府城には中村一氏、横須賀城には有馬豊氏、浜松城には堀尾吉晴、吉田城には池田輝政、岡崎城には田中吉政、清洲城には、福島正則といった具合である。この掛川城には、山内一豊を配置した。
秀吉は、自分の死後、家康が西進してくることを恐れ、その道筋になるであろう東海道を重要視していた。先祖代々の譜代の家臣を持たない秀吉は、尾張時代からの朋友が譜代の家臣に近い存在であったのだろう。秀吉の死後、その予想は的中し、家康は西進し、関ヶ原で石田三成を破って、豊臣の天下を奪った。しかし、その際に、これら街道沿いの諸将が、ことごとく家康に寝返るとは、秀吉も考えなかったであろう。

余談ではあるが、家康もその死の際に、島津・毛利が将来幕府に叛旗をひるがえすことを予想し、以後、薩摩藩と長州藩は、幕府の仮想敵とされていた。東海道の河川に橋が架けられなかったのは、薩長の東進に備えるものであった。この予想も的中し、幕末、薩長を中心に回天の気運が高まり、江戸幕府は滅びることとなった。

山内一豊は、関ヶ原に備える小山会議にて、「城・領地を家康に差し出す」という発言をし、東海道諸将は、次々にこれに倣った。山内一豊は、戦場では、さほど目立った戦果は挙げていないものの、戦後、掛川6万石から、土佐高知24万石に加増された。家康は、東海道諸将を一気に味方につけるきっかけとなった発言を、重要視したのだろう。掛川城と、高知城が似通っているのは、この山内一豊による縁と思われる。
ちなみに、幕末期、武力倒幕の気運が高まる中で、坂本竜馬の唱えた「大政奉還案」を、将軍徳川慶喜に献策したのは、この案を、重臣後藤象二郎から入手した、土佐藩主、山内容堂である。天下の分かれ道に、山内家は顔を出す運命にあるらしい。

山内一豊転封後は、主に譜代大名の居城となる。掛川城の歴代城主を以下に記す。(掛川城パンフレットより作成)

城主名 在城年間 石高 備考
朝比奈泰熙
     泰能
     泰朝
文明年間〜永禄12年(1569)   武田家駿河侵攻の際、今川氏真が避難する
石川家成
   康通
永禄12年(1569)〜天正18年(1590)   武田家に対する防御拠点となる
山内一豊 天正18年(1590)〜慶長6年(1601) 6万石 関ヶ原参陣の功により、土佐24万石へ転封
松平定勝
   定行
慶長6年(1601)〜元和3年(1617) 3万石 家康の異父弟、久松松平家
安藤直次 元和3年(1617)〜元和5年(1619) 3万石 徳川頼宣(家康11男、後の紀伊家)付家老
松平定綱 元和5年(1619)〜元和9年(1623) 3万石 定綱転封後、一時中泉代官預かりとなる
朝倉宣正 寛永2年(1625)〜寛永9年(1632) 3万石 徳川忠長(秀忠次男、後に切腹)付家老
宣正転封後、一時中泉代官預かりとなる
青山幸成 寛永10年(1633)〜寛永12年(1635) 3万石  
松平忠重
   忠倶
寛永12年(1635)〜寛永16年(1639) 4万石 桜井松平家
本多忠義 寛永16年(1639)〜正保元年(1644) 7万石  
松平忠晴 正保元年(1644)〜慶安元年(1648) 3万石 藤井松平家
北条氏重 慶安元年(1648)〜万治元年(1658) 3万石 氏重転封後、川井代官預かり
後、横須賀城主、城番
井伊直好
   直武
   直朝
   直矩
万治2年(1659)〜宝永3年(1706) 4万石  
松平忠喬 宝永3年(1706)〜正徳元年(1711) 4万石 桜井松平家
小笠原長熙
     長庸
     長恭
正徳元年(1711)〜延享元年(1744) 6万石  
太田資俊
   資愛
   資順
   資言
   資始
   資功
   資美
延享元年(1744)〜明治元年(1868) 5万石 寺社奉行
寺社奉行、若年寄、京都所司代、老中


堀田家より養子、老中
寺社奉行、現存する二の丸御殿造営

掛川城御殿
掛川城には、国の重要文化財でもある、二の丸御殿が現存する。この二の丸御殿は、嘉永7年(1854)に地震のため倒壊した後に、再建されたものである。
書院造で、畳を敷き詰めた部屋を襖によって仕切る構造となっている。

完成した文久元年(1861)から明治2年(1869)までの14年間、掛川藩の儀式・公式式典の場、藩主の公邸、行政役所として使われた。

 

 

 

 

江戸時代以降
明治維新後、廃城となる。天守閣は、嘉永7年(1854)に地震のため倒壊していた後、再建されていなかった。
二の丸御殿は、勤番所・徳川家兵学校に転用されたが、廃藩置県と共に、掛川宿に下賜され、聚学校として使われた。

後、女学校・掛川町役場・掛川市庁舎・農協・消防署と転用されている。

昭和47年(1972)、二の丸御殿修復工事開始(昭和50年完成)

昭和55年(1980)、二の丸御殿、国の重要分化財に指定される。

平成6年(1994)、天守閣再建。


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