日本名城探訪記〜東海編〜


清洲城

清洲城概要
別名清須城。交通・商業の要衝である、尾張の中心として栄えた。
織田信長の居城としても有名である。

起源
応永12年(1405)、尾張守護職斯波義重が、尾張守護所下津城の別郭として築城したのがその起源。文明8年(1476)に下津城が戦乱によって焼失すると、清洲に守護所が移り、以後、尾張の中心地となる。

構造
五条川の流れを天然の堀とした、平城。天嶮に拠っているわけではないので、防御能力は、それほど高くはないように思える。現在の天守閣は想像復元である。

 

 

 

清洲城天守閣織田家勃興
室町幕府の三管領と言われる、斯波・細川・畠山家のうち、尾張・遠江・越前は斯波家が守護大名として治めていた。斯波家は、足利将軍家の一族で、足利幕府の御三家とも言える、吉良家、今川家に次いで高い家格であった。

しかし、応仁の乱の後、その勢力は衰え、守護代の織田大和守(織田宗家)が実権を握るようになってくる。その織田宗家の織田敏定の代に、織田家三奉行の1つであった、織田信秀が勢力を伸ばすようになり、織田宗家をも凌ぐ勢力となった。

清洲城は、当初守護代の織田宗家が居住していたが、後に織田信秀が清洲奉行として赴任する。織田信秀が、古渡城に移ると宗家の織田信友が清洲城主となる。

ちなみに、斯波家の領国のうち、越前は同じく守護代の朝倉家が実権を握り、遠江は、隣国の今川家に支配されるようになった。後に、織田・朝倉は激突することになるが、この斯波家の家臣としての家格の違いという、微妙な空気がその激突の一因であったとも言える。
(守護代朝倉家から見ると、守護代織田家の奉行の出である織田信長は、家格は下になる)

織田信秀は、古渡城を拠点として尾張を統一し、守山城には弟信光、那古屋城に嫡子信長、末森城に次男信行を配置し、その安定を図った。その上で、隣国三河の松平家や、美濃斎藤家と戦っていたが、天文16年(1547)斎藤道三に大敗してしまった。これを契機に織田家には暗雲が垂れ込めることとなる。

 

 

清洲城址織田信長像織田信長時代
斎藤家に対する敗戦で、尾張の支配が微妙になったのである。織田宗家の信友や、犬山城の織田信清らが、信秀の命に従わなくなった。織田信秀は斎藤道三と和睦し、道三の娘、濃姫を嫡子信長の嫁として迎え入れた。こうした微妙な空気の中、織田信秀は、卒倒により急死し、嫡子信長が家督を継ぐ。

信長は、家督を継ぐと、叔父信光と共謀して、織田信友を攻め、清洲城を奪取、以降清洲城を居城とするようになった。

永禄3年(1560)、駿・遠・参の太守、今川義元が上洛する遠征軍を発すると、信長は清洲城から出陣し、これを迎撃、田楽狭間で撃破した(桶狭間の戦い)。信長は戦勝後、岡崎城を拠点に三河一円を支配した松平元康(後の徳川家康)と同盟を結び(「清洲同盟」)、以後は西に向かって進むことになる。

尚、清洲同盟は、信長の死後も有効で、家康は、小牧の戦いにおいて、信長の子、信雄を支援している。

信長は、東への備えを行うと、遂に美濃に侵攻する。その拠点として、小牧山に城を築き、移転した。この時以降、清洲城は、番城という扱いになっている。

 

清洲城その後
信長が本能寺の変で斃れた後、清洲城に織田家宿老が終結し、織田家の家督についての会議を行った(清洲会議)。
この時、柴田勝家の推す三男信孝、丹羽長秀の推す次男信雄を抑えて、羽柴秀吉の推す、嫡孫三法師(後の秀信・長男信忠の嫡子)が織田家を相続することに決まった。

この時、三法師の後見人として、織田信雄が清洲城主となった。信雄は天正14年(1586)に清洲城の大改築を行い、内堀・中堀・外堀を持った大城郭へと改築している。この時、大天守、小天守、書院が造営されている。

天正18年(1590)に、織田信雄が秀吉によって除封されると、尾張出身の福島正則が20万石で清洲城主となった。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの折りには、東軍福島正則の居城である、清洲城が後方基地とされた。

関ヶ原の戦いの後、家康の4男、松平忠吉が42万石で清洲城主となっている。松平忠吉は、関ヶ原で受けた傷が元で病死し、慶長12年(1607)に、家康の9男義直が47万石で封じられ、慶長15年(1610)、家康は清洲廃都、名古屋遷都を指令し、慶長18年(1613)に名古屋城が完成すると人口6万と言われた都市は名古屋に移転し、消滅することになる(「清洲越し」)。

この時、「思いがけない名古屋ができて 花の清須は野となろう」と唄われている。
実際に、清洲は廃墟となり、その後の水害で跡形もなくなったらしい。

ちなみに、名古屋城築城の際に、清洲城も築城の材料として使われ、名古屋城御深井丸の西北櫓は、清洲城天守閣の古材が使われているという。この西北櫓は、「清洲櫓」と称され、現在も健在である。

 

清洲城の歴代城主(織田信長以降)を下記に記す。
秀吉も、家康も、清洲を東海道の押さえとして重視した人事を行っているのが興味深い。

城主名 主な出来事 城主その後
織田信長 桶狭間の戦い 清洲同盟締結 小牧山城に移転
織田信忠   岐阜城に移転
織田信雄 清洲会議により、織田家家督を継いだ三法師(後の織田秀信)を後見 除封
福島正則 関ヶ原の戦い 岐阜城攻撃の後方基地となる 安芸広島城へ転封
松平忠吉   病死
徳川義直 以後、尾張徳川家 「清洲越し」と言われる移転を行う 徳川御三家  

江戸時代以降
平成元年(1989)、天守閣再建。
尚、元々の城跡は、現在の天守閣の場所ではなく、五条川対岸の織田信長を祀る祠がその位置である。


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