日本名城探訪記〜東海編〜


名古屋城

名古屋城天守閣概要
別名「金鯱城」。。
東海道の押さえとして、慶長15年(1610)に徳川家康によって築かれた。天守閣と小天守が繋がれた、連結式天守閣である。

起源
起源は、大永年間の初めに、今川氏親が築いた那古野城がその起こりで、織田信長が生まれた城として、有名である(勝幡城・古渡城誕生説もある)。信長が城主となり、その後織田信光・林通勝が城主となるが、やがて廃城となった。この那古野城は、名古屋城の二の丸の一部となっている。

構造
巨大な堀があるものの、防御的構想はあまりなく、完全に政治目的が主目的である、平城となっている。
築城は、牧野信次・滝川忠征・佐久間政実・山城宮内・村田権左衛門が奉行となり、外様大名の経済を圧迫するために、加藤清正・福島正則ら、北国・西国の諸大名20家が普請を命られた。慶長17年(1612)に完成、家康の九男義直(61万9千石)の居城となった。

「尾張名古屋は城でもつ」と言われる程、名古屋の象徴となり、以降徳川御三家筆頭の居城として、明治維新まで続いた。築城が慶長年間ということもあり、この城における戦闘の歴史はない。

名古屋城の特徴は石垣で、あちこちの石垣に、刻印が見られる。
刻印とは、石に刻まれた落書きのようなもので、持ち場を担当した大名を表すものが多い。

刻印刻印

 

 

 

 

 

 

 

上の写真で、石に刻まれた、四角に十字の落書きが、「刻印」である。わかりにくい場合は、上右を参照。
これらの刻印により、各大名がどこを担当したのかがわかる。

名古屋城築城では、加藤清正が活躍しており、現在も様々な逸話が残っている。代表的なのは清正石。

清正石

こちらが清正石。加藤清正が運んだ石と伝えられている。しかし、ここの持ち場は池田家であるので、単なる説話である可能性が高い。

しかし、加藤清正は築城・築城以外にも、
・旧那古野城周辺の丘陵を切り崩し、湿地・谷間の埋め立てを行った
・名古屋の遊女を「石遣り」(石の運搬)に帯同させ、自ら石の
 上に立ち音頭をとった
・天守閣に金のシャチホコを乗せることを提案した
など、名古屋城築城期に徳川家に対して、積極的に協力的な態度をとっている。

名古屋城築城期には、まだ大坂の豊臣家は存在しており、豊家子飼いの大名である、加藤清正が、徳川家に協力的であったのは何故であろう。以下推論してみる。

・時世の移り変わりによる、単純な保身策(水戸頼宣との縁談がこの時期にあり、やがて実現している)。
・豊臣秀頼の転封が話題に挙がっており、秀頼の新規居城のために、築城の先例を、名古屋でつくるため。
・故郷尾張に錦を飾るため。

常識的に考えれば一番目であるが、加藤清正の性格・行状を考えると、純粋に権力に屈したとは考えにくい。むしろ、この時期、関東近辺に豊臣家を転封させ、幕府が監視する、または、大和奈良または郡山に転封し、防御力のない大名にするという案があり(江戸幕府安定のために、豊臣家大坂割拠は不都合であった)、そのための新規居城の為に、布石を打ったと考える方が妥当なような気がする。3番目は、直接的には関与はしてないものの、どこかに意識はあったと思われる。

江戸時代以降
名古屋城は、昭和20年5月の、名古屋空襲によって焼失し、現在の天守閣は、昭和34年10月の再建。
空襲による焼失を免れた、西北・西南・東南の3つの櫓、表二之門、旧二之丸東二之門、二之丸大手二之門の3つの門、本丸御殿障壁画、天井画の大部分は、重要文化財に指定されている。


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