日本名城探訪記〜東海編〜


大垣城

大垣城天守閣概要
別名「巨鹿城」。
東海道の要所に位置し、大垣市内を流れる水門川を外堀に利用した、平城。もっとも、明治以前の東海道は、熱田から桑名へ海上七里を越え、鈴鹿峠を越えるルートであったため、築城当時は、中山道・北国街道上の要所であった。

起源
天文4年(1535)、宮川安定が築いたのがその起源とされているが、明応9年(1500)竹腰尚綱築城説もある。
天守閣自体も、慶長元年(1596)に伊藤祐盛によって築かれたとされているが、天守閣筒瓦に、天正16年(1588)の銘が入っているため、創建時期も定かではない。
現在は、四層四階の総塗り込め様式になっている。

 

構造
小高い丘の上に建てられてはいるが、さほどの高さではなく、平城である。四方を平地に囲まれており、堀も小さく、防御的な要素は乏しい。但し、本丸と二の丸・三の丸を複合的に組み合わせており、天嶮を利用しているわけでもないのに、攻めにくく、戦国期を通じて、強靭な防御力を持つ城として知られていた。

歴史的考察
大垣城が、歴史の上に名を残すのは、剣豪塚原ト伝(ぼくでん)の居城であったこと、そして、関ヶ原の戦いにおいて、西軍の石田三成の本拠地となったことである。三成は、城主伊藤盛宗に開城を命じ、盛宗は一旦は拒否するものの、結局、西軍の軍勢を背景に持つ三成に開城。以降決戦まで、三成の本拠地となる。

家康は、上杉討伐の軍を起こし、彼が大坂を離れると、三成が叛旗を翻すと予測した。事実、その通りになったわけだが、家康の構想では、三成挙兵の報と共に引き返し、美濃周辺で決戦するというものであった。
一方、三成も、軍勢を3手に分けて東進し、美濃周辺で決戦するという構想であった。両雄の構想が、ピタリと一致していたのは興味深い。それは、美濃関ヶ原の地形的特徴が関係している。

・家康は進軍速度を上げるためと、徳川家の軍勢を温存するために、東海道と中山道の2手に別れた。
 東海道と中山道の合流地点が美濃西部になる。
・三成も、軍勢を3手に分け、中山道・丹波方面・伊勢方面を制圧しつつ、美濃西部で合流する予定であった。

関が原は、四方から街道が合流し、中山道・北国街道・伊勢街道と、戦略上重要な街道が集
古来、このような土地を「衢地(くち)」と言い、兵法上、大会戦を行いやすいところとされている。

家康の計画もそうだが、敗軍の将となった、石田三成の戦略眼の高さも、伺い知ることができる。

その後、寛永12年(1635)、摂津尼崎から、戸田氏鉄が入封し(10万石)、以降明治まで、戸田大垣藩の居城となった。

 

江戸時代以降
昭和11年(1936)、国宝に指定される。郷土博物館として公開。

昭和20年(1945)、戦災により、焼失。

昭和34年(1959)、再建。


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