日本名城探訪記〜東海編〜
岡崎城
概要
別名、「竜ヶ城」。東照大権現徳川家康生誕の地である。
起源
享徳元年(1452)に、三河守護職の西郷稠頼(つぐより、法名清海)により築城されたのが、その起源。但し現在の位置ではなく、明大寺の地であったとされる。大永4年(1524)に、家康の祖父、松平清康が、岡崎一帯を占領し、享禄3年(1530)に現在の位置に移されたという。
以後、三河松平党の根拠地となった。
構造
伊賀川と菅生川の合流地点の独立丘陵、竜頭山を基礎に築いた平山城である。
家康の頃には、本丸・二の丸を複合的に組み合せていた。
現在復元されているのは、元和3年(1617)、本多康紀の時に築かれた、三層三階の複合天守閣である。
松平時代
三河の土豪から出発した松平家は、家康の祖父清康の時代に一大膨張を迎え、三河一帯を支配し、その勢いを駆って織田領に攻め込んだ。しかし、陣中で家臣に殺害され(いわゆる「守山崩れ」)、家康の父、広忠の時代には、逼塞することとなる。
広忠は、政略的な意味もあって、尾張国境に近い刈谷の水野家から嫁を貰う。この時、水野家から輿入れしてきたのが、後の伝通院、お大の方である。
天文11年(1542)12月26日、松平広忠の嫡男竹千代が城内で誕生した。後の徳川家康である。
しかし、松平家は今川方、水野家は織田方と所属が別れたために、広忠とお大の方は離縁し、家康は3歳で母と生き別れになる。
家康は6歳の時に今川家に人質に出されるが、駿府(今の静岡市)に送られる途中、田原城主戸田氏に奪われ、敵方の織田家に送られる。
織田家では、人質を種に、松平家の織田家への随身を迫るが、広忠は拒否、織田信秀は竹千代を殺そうとしたが、助命したのは、信秀の嫡男、吉法師(後の織田信長)だった。
その後、広忠は、父清康と同様、城内で家臣に刺され死亡するという事件があった。今川家はこの事件に際し、城代を岡崎に派遣し、事実上、岡崎を直轄地とした。また、三河安祥城(安城)を攻め、信長の兄、信広を生け捕り、これと交換の形で、竹千代を取り戻している。
徳川時代
今川家の客将(実質は人質)として、19歳までを過ごした家康は、今川義元の上洛戦に参加。桶狭間の前哨戦では、鷲津砦を陥落させている。
ところが、織田信長の奇襲によって、今川軍が壊滅すると、城代までが逃げ帰って空城になった岡崎城を占拠し、以後今川家から自立することになる。竹千代は、元服時に、松平元信と名乗っていたが、「『信』の字は織田家と通じているのではないか?」との疑惑をかけられ、元康と改名し、桶狭間の後は、義元から拝領した、「元」の字も返上し、徳川家康と改名した。松平党の出身地が「得川」という地名だったことに由来しているといわれている。桶狭間の合戦の後、今川家の動向を観察しながら、水面下で織田家と盟約を結んだ。
この織田家との同盟は、「清洲同盟」と言われ、信長の死後も小牧の戦いで実効し、戦国時代には異例の破棄されない同盟であった。
清洲同盟もあって、家康は岡崎を拠点に三河を制圧、東の遠州征伐に向かう。
元亀元年(1570)に、本拠地を浜松城に移転し、岡崎城は、嫡子信康に譲る。
しかし、信康は武田勝頼内通の疑いをかけられ、信長から切腹を命じられることになる。
岡崎城主は、清康、広忠、家康を一代飛ばして信康と、3代の城主が非業の死に倒れていることになる。信康の切腹は、信長の嫡子信忠との能力の比較で、将来脅威になりそうだったので切腹を命じたという説もある。
桃山、江戸時代
徳川家康の関東八州転封によって、秀吉の家臣、田中吉政が岡崎城主となった。田中吉政は、文禄元年(1592)に大規模な城郭拡張工事を行い、この時にほぼ現在の原型と言える規模となった。
関ヶ原の後は、徳川譜代大名が封じられるようになり、本多、水野、松平と、徳川譜代の中でも、家格の高い大名が城主となった。
岡崎城主になるのは、城主としても誇りであったという。石高も5万石規模と譜代大名の中では多い方である。
以下に歴代城主を記す(岡崎城入場パンフレットより作成)。
| 城主名 | 在籍期間 | 備考 |
| 西郷稠頼 3代略 信貞 |
享徳3年(1455)〜大永4年(1524) | 三河守護職 |
| 松平清康 広忠 |
大永4年(1524)〜天文18年(1549) | 三河安祥より移転、清康・広忠、それぞれ暗殺される |
| (今川氏城代) | 天文18年(1549)〜永禄3年(1560) | |
| 徳川家康 | 永禄3年(1560)〜元亀元年(1570) | 浜松城へ移転 |
| 松平信康 | 元亀元年(1570)〜天正7年(1579) | 領地没収の上、切腹 |
| (徳川氏城代) | 天正7年(1579)〜天正18年(1590) | |
| 田中吉政 | 天正18年(1590)〜慶長5年(1600) | 筑後柳川へ転封 |
| 本多康重 康紀 忠利 利長 |
慶長6年(1601)〜正保2年(1645) | 上野白井より転封 遠江横須賀へ転封 |
| 水野忠善 忠春 忠盈 忠之 忠輝 忠辰 忠任 |
正保2年(1645)〜宝暦12年(1762) | 三河吉田より転封 肥前唐津へ転封 |
| 松平康福 | 宝暦12年(1762)〜明和6年(1769) | 下総古川から転封、石見浜田へ転封 |
| 本多忠肅 忠典 忠顕 忠考 忠民 忠直 |
明和6年(1769)〜明治4年(1871) | 石見浜田より転封、本多忠勝子孫 廃藩置県 |
江戸時代以降
明治維新後は、明治6年から7年にかけて(1873〜1974)取り壊され、廃城となる。
昭和34年(1959)、天守閣復元