第2節
整備新幹線計画



 整備新幹線計画の構想は、昭和40年(1965)を基準年度とする、「新全国総合開発計画」に始まる。これは、昭和60年を目標に、全国新幹線網を構想するもので、この際には、北陸新幹線は北回り新幹線として、東海道新幹線を補完する役目を持っていた。その後、諸処の理由から、上記の目的よりも、むしろ、北陸・長野地区と、首都圏・関西圏を結ぶ役割が主になった。

 この計画が具体的に動くのは、昭和45年に制定された、全国新幹線整備法で、翌46年には、上越新幹線(新宿〜新潟間、当時の予定)、東北新幹線(東京〜盛岡間、ほぼ現状に近い予定)、成田新幹線(東京〜成田間、その後中止、工事区間は「空港第2ビル駅」などとして一部流用)の建設が決定され、更に、昭和47年には、整備新幹線として構想されていた5線のうち4線、すなわち、東北新幹線の盛岡〜青森間、北陸新幹線、北海道新幹線(青森〜札幌間)、九州新幹線(博多〜鹿児島間)の建設が決定された。残った1線の九州新幹線(博多〜長崎間)は、昭和47年の暮れに追加された。

 上越・東北(盛岡まで)・成田新幹線の、具体的な整備計画は、昭和46年早々に決定したが、上記の5線は昭和48年度に持ち越された。昭和46年には、上越・東北新幹線の大宮以北が着工したが、持ち越しとなった5線(以下整備5線)は、国鉄(当時)の経営悪化、国の財源不足を理由に、着工が遅れることとなった。このため、昭和56年には、地方公共団体からの補助金の交付を可能とする、全国新幹線鉄道整備法の改正が行われた。

 しかし、昭和57年7月の臨時行政調査会の第3次答申で、国鉄の財政状況を理由に「整備新幹線計画の当面見合わせ」が打ち出され、9月には、整備5線の凍結が閣議決定となった。これに対し、昭和49年に富山新幹線建設準備事務所を設立していた、日本鉄道建設公団では、水面下で工事申請を行っていた。それによると、高崎〜小松間を優先し、更にその中でも、高崎〜軽井沢間を最優先するという計画であった。完成後の利用状況を考えると、現在の北陸本線(特急銀座とも言われる線区)の利用客が、そのまま見込める大坂側を優先した方が得策に思えるのだが、新幹線誘致に熱心であった、富山・長野両県が、東京駅との結びつきを望んだために、以上のように決定した。

 その後、国鉄民営化が順調に進んだために、整備新幹線計画の凍結は解除され、昭和63年1月に、整備新幹線建設促進検討委員会が設置された。しかし、この時、同時に運輸省(現国土交通省)が建設費圧縮案を発表し、北陸新幹線では、高崎〜軽井沢間をフル規格新幹線とし、軽井沢〜長野間はいわゆるミニ新幹線、高岡〜金沢間と糸魚川〜魚津間は、狭軌新幹線方式とすることとし、他の整備新幹線でも、上記の3方式によって着工することとなった。本来ならば、ミニ新幹線として長野まで開通する予定であった北陸新幹線が、フル規格新幹線となったのは、元々長野地区でのフル規格化の要望が強かったことに加え、1998年に冬季オリンピックを開催することが決定し、更にその要望が高まったことが、その背景にある。こうして、平成9年10月1日、北陸新幹線(長野行き新幹線)が開通し、その列車名は在来線で上野〜長野・直江津間を走っていた特急の愛称「あさま」が、そのまま踏襲された。  

※この節は、川島令三著「全国鉄道事情大研究北陸篇@」(草思社)を参照しています。


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