いく野の道の 遠ければ・・・

目的は、天橋立の見物です。
標題は、百人一首、小式部内侍の「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天橋立」から考えました。


1.日本三景最後の砦

※以下、天橋立に関する和歌の解説です。読むのが煩わしい方は、こちらへ

今からおよそ、350年ほど前の寛永20年(1643)に、林春斎という学者が、「日本国事跡考」という著作の中で、
「丹後の天橋立、陸奥の松島、安芸の宮島を日本三景」と書いたのが、現在の「日本三景」決定の由来です。

私は、松島と宮島は行ったことがあるのですが、天橋立だけは未到達でした。その最大の理由は、「遠い」ということ。
松島は仙台、宮島は広島から近い距離にあるのですが、天橋立は、京都からも鳥取からも遠いのです。

しかし、天橋立は距離的には京都に近いところということもあって、平安の昔より、割りと知られていた存在でした。
和歌・俳句の題材とされることも多く、

・「橋立の 松の下なる 磯清水 都なりせば 君も汲ままし」   和泉式部
・「人をして 廻旋橋の 開く時 黒くも動く 天橋立」        与謝野晶子
・「はしだてや 松は月日の こぼれ種」                与謝蕪村
・「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天橋立」 小式部内侍

というのが、その1例です。
今回の標題としたのは、一番最後、和泉式部の娘、小式部内侍(こしきぶのないし)の和歌から採っています。一番有名なのもこれですね。

この歌は、やや解説を必要とします。小式部内侍の母、和泉式部は和歌の名手でした。小式部内侍も優れた和歌を詠むのですが、歳若く、母の代筆であると言われていたそうです。ある時、小式部内侍が歌会に招待された時、母の和泉式部は夫と共に、丹後に行っていました。藤原定頼という人が、「丹後に使いは送ったかい?返事が間に合うか心配だよ」と冷やかしたところ、小式部内侍が定頼の袖を捕まえ、この歌を即座に作ったといわれています。

「いく野」は、「行く」という意味と「生野」という地名、「ふみ」は「踏み」「文(ふみ・手紙のこと)」という2つの意味を持つ、「掛詞」になっています。

つまり、

「大江山を越えて、更に生野を通って行く道のりは遠いので、母のいる天橋立は行ったこともないし、手紙が来たこともありません。」

という意味になります。

 

ちなみに、小式部内侍をからかった、藤原定頼も、

・「朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木」

という和歌を百人一首に採用されています。

 

小式部内侍の和歌が、百人一首の中でも特に好きなので、長々と解説してしまいました。
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