街道をゆく〜肥後のみち〜

目的は、通潤橋・田原坂の訪問です。
標題は、司馬遼太郎の紀行文「街道をゆく」(朝日文芸文庫)のそのままパクリです。


1.通潤橋

あれは、確か小学校の頃、教科書で知った話。

〜熊本県に、石で作った水道橋があり、何と江戸時代に造られたものである。〜

〜巨大な建造物は、時の権力者が造ったのではなく、水が不便な台地のために、一介の村の庄屋が計画したものだった。〜

〜庄屋は、開通式の際、死装束を着て橋の中央に座り、水が通らなかった場合には切腹をも辞さない覚悟だったという。〜

 

確か、教科書には、この橋の建設に関しての労苦が延々と描かれ、最後に、水の開通で話が終わっていたと思います。
正確に内容を思い出すことはできませんが、最後の、村民が水の開通で歓声を上げ、庄屋に感謝するシーンに、感動した覚えがあります。

しばらく、この話のことは忘れていたのですが、仕事で熊本に行った時、ホテルの壁に、この橋のポスターがかかっていて、この小学生の頃の思い出を思い出しました。

 

橋の名前は「通潤橋」。場所は「熊本県上益城郡矢部町」、庄屋の名前は「布田保之助」でした。

 

それからしばらく、この通潤橋を訪問したいと思っていたのですが、水道橋の放水が土日にしか行われないこともあり、なかなか都合がつく日程がありませんでした。その間約半年・・・・・しかし、どうにかうまいこと日程が合う日ができたので、いざ出発。半年がかりの壮大(?)な旅計画でした。

 

ヴィッツ、あいしちゃった
今回は場所が場所なだけにレンタカーを確保。
奥入瀬渓谷以来の、トヨタ「ヴィッツ」です。

熊本空港でレンタカーを借り、国道443号、445号を経由して矢部町に向かうというルートを取りました。距離にして約30kmありますが、山道で曲がりくねった道であったので、実走行距離は40kmくらいだったかもしれません。

奥入瀬の時も感じたことですが、エンジンパワーが少ないことを除けば、ハンドリングは「素直」の一言。ややオーバーステアに感じるくらい、キビキビとした感じの走りでした。

どうして、こういう走りがF1でできない、トヨタ!?

というツッコミは忘れて、いざ通潤橋へと向かいます。

 

 

通潤橋
最近のレンタカーはナビ付なので、本当に楽。「通潤橋」とセットすれば、あとは勝手に連れていってくれます。

で、ナビの指定通りに走り、着いてみたら山間の一角。こんなところにホントにあるのかよ!?と思っていたら、山と山の間にその橋がありました。

こちらが通潤橋です。こうして見ると、高さ20mくらいありそうな橋なのに、手すりがないことがわかります。まぁ、元々人が通るための橋ではないので、必要ないんでしょうけど、今では充分に観光地化しているしなぁ・・・何の制限もなく自由に立ち入りできるし。

しかし、これで特に転落事故とか聞かないから、日本人って凄いなぁと思います。

私が西村○太郎か、内○康夫だったら、まずここは殺害現場にしますね。転落事故に見せかけるなんて簡単そうですから。

橋の上には、3筋の石畳が通ってました。後から知ったことですが、これは別に通路ではなくて、石でできた水道管のようです。

 

 

通潤橋
橋の下へと降りてみました。通潤橋は左側の浜町台地から右側の白糸台地へと水を通すための水道橋です。

こうして見ると、きめ細かく石を組み合わせた、アーチ橋であることがわかります。もちろん、補強材のようなものは使用しておらず、力学的なバランスにのみで組まれていること自体が凄いなぁ、と思いました。

この橋を計画したのが、時の権力者(将軍や藩主)ではなく、村の庄屋(指導者的存在?)であり、実際に設計・施工したのが、卯助(勘平という説もある)・宇市・丈八と呼ばれる3兄弟で、別に当代きっての名人を全国から集めたわけでもなく、「肥後の石工」と呼ばれる、地元の名工だけで築いたということに驚きます。

以前も感じたことがありましたが、九州、特に熊本・大分の辺りは、石文化が本州とは比較にならないくらい、古代から発達していたことを痛切に感じます。

 

 

布田保之助像
橋の下で、今も通潤橋を見つめ続けている、布田保之助像です。

布田保之助は、代々庄屋を務める、布田家市平次の子として産まれ、早くに父を亡くして苦労したものの、村人思いの人望ある庄屋であったようです。

彼は32歳で惣庄屋となり、道路を造ったり、新田開発をしたりして、村人のために尽くしていましたが、実は、庄屋職を継ぐ以前から、この水道橋の構想を練っていたと言われています。

この辺りの白糸台地を呼ばれる地域は、周囲を川に囲まれているものの、台地そのものに水源はなく、水に乏しい、貧しい生活を強いられる土地だったと言われています。しかし、川を挟んだ浜町台地は水が豊富であり、ここから水を引くことを、布田保之助は、早くから考えていたようです。

保之助が17歳であった、文化14年(1817)、砥用に雄亀滝橋というアーチ橋が完成した時、施工を受け持った、「八代の三五郎」という石工に、将来、石橋を造ってほしい、とリクエストをしていたという逸話があります。

それから35年後の嘉永5年(1852)に、いよいよ計画が実行に移されたわけです。35年前の約束は、三五郎の甥、卯助・宇市・丈八に受け継がれていました。こういうところが、人情的でたまりません。彼らは、霊台橋などのアーチ橋を既に手がけた「種山石工」と呼ばれる、名工となっていました。

そんな彼らでも、水道管の設計には苦労したようで、最初は木製で失敗し、石製にしたものの、水漏れを解決できず、ようやく、特殊な漆喰を使うことで水道管の目処がつきました。

しかし、浜町台地から白糸台地に、ストレートに水を引こうとすると、高さ30m近い橋となり、技術的にも経済的にも困難で、結局「逆サイホン式」を利用した、高さ20.3mの水道橋となりました。

「逆サイホン式」とは、連管を使って水圧で\__/状に水を流す方法です。水は高いところから低いところに流れますが、密閉された空間においては、水圧によって水面は一定に保たれるため、一度下った水が上昇するという現象が起こることになります。
正確に言うと、白糸台地側の取水地の方が、若干低い位置に作られているので、上昇すべき高さも低めになっていますが、水が一度下って、後に上昇するという仕組みには間違いありません。

 

通潤橋は、当時最先端ともいうべき技術で造られたことがわかります。この当時、日本はペリー来航に揺れている時期でしたが、ほぼ同時期に熊本の片田舎(失礼っ!!)で、このような橋が造られていたことに、江戸時代の文化水準の高さが表れています。

もっとも、たとえ布田保之助が、どんな計画をしたとしても、それを支える石建築技術がなければ、建設は不可能であったでしょう。
通潤橋は、肥後の高い文化水準(肥後の議論好きというくらい、学問は発展していた)と、「肥後(種山)の石工」達の高い技術力の融合とも言うべきで、肥後でなければ、これだけの橋を造ることはできなかったのかもしれません。

「封建的」というと、古臭いイメージがありますが、私達は封建的江戸社会のことをもっと誇りに思っていいのかもしれませんね。

 

 

通潤橋放水
12:00に、通潤橋の放水が始まりました。前述したように、水路が\__/状になっているので、橋内部の水路にゴミがたまりやすく、定期的に水抜きをする必要があるのだそうです。

基本的には土日の12:00〜12:15に放水となっているのですが、1月〜3月は放水していませんし、夏場も農作業が優先されるので、事前に矢部町HPで確認しておくことをお薦めします。
ちなみに、3日前までに予約すれば、¥5000で放水してくれる時期もあります(1〜3月も有料放水は行う)。こちらも、
矢部町のHPを確認されることを薦めます。

12時が近付くにつれ、観光客達は既に情報を得ているのか(私もですが)、次第に橋の周辺に集まってきます。そして12:00になると、いよいよ放水開始。最初は真下に落ちていたものが、次第に勢いが付き、美しい放物線を描くようになっていきました。

 

 

通潤橋放水
しばらくすると、裏側からも放水が始まりました。手前側に2筋、向こう側に1筋と、計3筋の放水が行われています。通潤橋は石造りのアーチ橋として、非常に美しい橋ですが、やはり日常の姿よりも、放水時の方が華がある感じがします。

この日は雲が多い日となっていましたが、勢いのある放水は訪れていた人達に歓声をあげさせていました。日の差し込み具合によっては、時々虹も出ていました。

しかし、訪問客の歓声に決して負けることがないのは、この橋から流れ出る水の轟音。
内蔵に直接響くような、重低音はかなりの迫力があります。

環境省による、「残したい日本の風景100選」に選出されているのは伊達ではないですね。