街道をゆく〜西熊野街道〜

目的は、十津川周辺の観光です。
標題は、司馬遼太郎の紀行文「街道をゆく」(朝日文芸文庫)のそのままパクリです。


1.谷瀬の吊り橋

私の愛読書「街道をゆく」(司馬遼太郎著)の中でも、読んで実際に行きたいと思った内の1つが、「十津川街道」でした。
十津川は、奈良から距離的には近いものの、峻険な地理環境によって、長い間、一種の独立国のような様相を見せていた土地です。

比較的、支配体制が強化された豊臣政権や江戸幕府においても、「年貢赦免の土地」として、いわば支配をされていない土地であったわけで、日本中を見渡しても、稀有な例であると言えます。

もちろん、赦免の土地となったのは、米穀収集を中心とする時の政権において、米の収穫がほとんど望めない土地であった、という事情があるのですが、源平・南北朝・幕末と、日本史に必ず顔を出してきた、異例の土地でもあることに、以前から興味を持っていた地でした。

 

今回、吉野訪問を機に、足を伸ばして十津川へ行こうと思ったわけです。いざ、『遠つ川』(十津川の語源?)に向かって出発です。
尚、「十津川街道」は俗称で、十津川へと向かう国道168号線は、「西熊野街道」が正式名称なので、こちらを採用します。「十津川街道」の名は、司馬遼太郎の「街道をゆく」でも既に使用されていますし。

 

ファンカーゴ
今回借りたレンタカーは、トヨタのファンカーゴ。電話予約したところ、空いている車の中で、一番安いクラスがこれでした。

前日、奈良市内のホテルに泊り、翌朝レンタカーを借りたわけですが、ここで、奈良の地理に疎いことを露呈してしまいました。
十津川への入口は五條となるのですが、奈良−五條の距離感を完全に把握していませんでした(田原本・大和高田・御所を経由して約30km)。ここの間で朝の渋滞にも巻き込まれ、余計な時間を使ってしまったわけです。

前日のうちに五條入りし、五條で朝レンタカーを借りた方が無駄がなかったような気がします(五條から十津川まででも、約40kmあります)。

ファンカーゴは、この大きさにしては結構力強かったです。山道への旅となったので、結果的にはいい選択となりました。

 

五條からは、国道168号線を突き進むのですが、道は正に峻険というにふさわしい山道でした。車のラジオも段々受信しなくなっていくし・・・・
ちなみに、この国道168号は、全線全通したのが、昭和34年(1939)だそうで、十津川の人々が無償で土地を提供して完成したのだそうです。

日本の行政のある意味凄いところなのですが、道は完璧なまでに舗装されていました。定期的に舗装工事をしていないと、こんなに綺麗にはならんだろう、というくらいの整備状況。何かと批判の多い公共工事ですが、こういう場合だけは、行政に感謝ですね。

8:00(レンタカー店の開店時間)に手続きを行い、8:30に出発。最初の目的地である、谷瀬に着いたのは、11:00前でした。
五條に出るまでに、1時間半を要したのが無駄といえば無駄でしたね。

 

谷瀬の吊り橋
谷瀬という集落を最初の目的地にしたのは、この吊り橋があるからです。この辺りは、行政区でいうと、もう十津川村になります。

前記「街道をゆく〜十津川街道〜」では、簡単に「300mの吊り橋がある」と書かれているだけですが、この迫力は、実際に訪問しないとわからないかもしれません。

十津川村役場のHPによると、長さは297m、高さは54mもあります。こちらは日本一長い鉄線吊り橋だそうです。この吊り橋は、昭和29年(1954)架橋といいますから、その歴史の長さにも驚かされます。

但し、あくまで「日本一長い『鉄線』吊り橋」であって、「日本一の吊り橋」ではありません。
多くのHPで、「日本一の吊り橋」として紹介されていますけどね。まぁ、この規模であれば、あまり細かいことは言わなくてもいいのかもしれませんが。

ちなみに吊り橋としての、長さ日本一は、茨城県水府村の竜神大吊橋(375m、高さは100m、ヒンジ補号トラス橋、平成5年架橋)で、高さ日本一は、宮崎県綾町の照葉大吊橋(142m、長さは250m、ヒンジ補剛橋、昭和59年架橋)となっています。

 

吊り橋入口
吊り橋のスタート地点に立つとこんな感じ。対岸は遥か遠くにしか見えません。

私はそれ程、高所恐怖症というわけでもないのですが、それでもさすがに足がすくみます。
しばらく、入口で躊躇した後、意を決していざ渡ることに。

当然のことながら、一歩歩くごとに揺れる吊り橋(当たり前ですが…)。
この吊り橋を支えているのは、細い鉄線(ワイヤー)のみ。そして足場は、4枚の幅で渡された木の板!!

対向者が歩いてくると、すれ違うたびにドキドキです。

「ええいっ、オレが歩いている時は渡るなぁっ!!」

と叫びたいものの、そうもいかず、慎重にすれ違っていきました。多分、渡っている人のほとんどが、こう思っていたんじゃないんでしょうか?

 

谷瀬の吊り橋中央部
ビクビクしながら歩いていくと、やがて中央部にさしかかりました。上の写真と比べて、左右のワイヤーの高さが低くなっていることがわかります。

無意識のうちに、左右のワイヤーの存在に安心していたのか、ワイヤーの高さが低くなると恐怖感倍増です。

しかも、まだまだ先は長いし…ここまで来た時に、この吊り橋を渡ることを決めたことに少し後悔しました。しかし、行くも帰るもどっちにしても渡らなければならないわけで・・・・

このまま先へと進むことにしました。中央部なだけに、揺れもクライマックスです。

 

 

 

 

谷底を覗く
よせばいいのに、中央部で、橋の下を覗いてみました。

ひゃぁ〜〜〜っ!!

この写真では、高さが実感としてわからないかもしれませんが、半端なく高いんですよ、この橋は。川だって、結構流量のある川なのに、小川程度にしか見えないし。

しかも、上の写真ではわかりにくいかもしれませんが、渡されている木の板には隙間があって、どうしても、そこから谷底が見えてしまうんです・・・・

3つ上の写真で、中央部の高さを確認してみて下さい・・・・・

 

 

 

 

吊り橋反対側
やっとの思いで渡りきった吊り橋です。反対側から、今渡ってきた吊り橋を眺めてみます。
まぁ、渡りきったということは、もう1度渡らないと、元いた場所に戻れないわけで・・・・

そう言えば、この橋を渡る前に読んだ注意事項に2点気になる内容が。

@一度に20人以上で渡るのはやめましょう

鉄線とはいえ、大人数で渡るのは、やっぱり危険なんですな・・・・・

Aこの橋は通学路です。ゆずり合って渡りましょう

通学路!?ってことは、毎日この橋を渡らないと、学校に行けないの!?
毎日渡っていたら、大概のことでは驚かなくなるんでしょうなぁ。

 

司馬遼太郎は、「スクーターくらいでしか渡れない橋」と表現していますが、この橋をスクーターで渡るのは、ちょっと命懸けだぞ。
チャリなら何とか・・・・でも、それにしたって、恐ろしいことには違いない。

しかし、一度渡ってしまうと、体が慣れるのか(?)、帰りは割と平気でした。「下を見ないで、正面を見て渡る」というコツを覚えたのもありますけど。

 

 

天誅組本陣跡
橋を渡り終えて、駐車場に戻った時に、こんな石碑を見つけました。幕末の大和義挙「天誅組」の本陣跡です。

幕末、長州を中心とした過激派志士達が、天皇の大和行幸を計画し(実際には拉致ですね)、その情報を得た一部の志士が、先駆けとして大和に入り、五條の大和代官所を襲撃したのが、天誅組です。

しかし、皮肉にも、天誅組蜂起(文久3年【1863】8月17日)の翌日、「八月一八日の政変」で、長州派志士は京都から追放されてしまいます。

後ろ盾を失った天誅組は、十津川郷に援軍を求め(実際は徴収ですね)、不休不眠のまま高取城を攻めるも落とせず、天ノ川辻から南下して、上野地東雲寺に本陣を置いたと言われています。ここが実際の本陣跡かどうかは、確定はされてはいないそうですが、取り合えず石碑が建てられているということになります。

暴発としか言いようがない「天誅組」ですが、江戸幕府に対する最初の武力蜂起となりました。多くの人材が非業に斃れましたが、彼らの蜂起があったからこそ、革命としては、ほぼ奇蹟と言ってもいい明治維新が成り立ったのでしょう。そう思うと、感慨深いものがあります。

 


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