修羅能における成仏の構造 〜観客論の立場から〜

岡田 登貴

2001年11月放送大学卒業研究)指導教官:渡邊守章 教授

 

 

 

序論 修羅能と成仏

 

軍体の能姿。仮令、源平の名将の人体の本説ならば、ことにことに平家の物語のまゝに書くべし。(『三道』 三体作所 条々)

かくのごとく書いた世阿弥が、彼の修羅能において、原作の平家物語では描かれていない武将達の「成仏」について書きこんでいったのは何故だろう。この疑問をこの小論で解き明かしていきたいと思う。

加藤周一氏はその「世阿弥の戦術または能楽論」(日本思想体系『世阿弥・禅竹』(岩波書店1974年))において「世阿弥がその題材をとった『平家物語』は、合戦を描き、恋を語り、平家の武将の死に及んでも、人間的立場に徹底していた。(中略;平家物語「敦盛最期」を話題にして)戦場の直実の心理は、武士の役割または任務に対する懐疑に要約されるが、懐疑の内容は人間的で、宗教的ではない。世阿弥の『敦盛』は、出家後の直実と死後の敦盛との出会いであり(中略)、そういう彼岸から、自己の生涯をふり返り、此岸の過去をみなおし、評価し、意味づけるのである。(中略)作者の意識下まで浸透した13世紀仏教の彼岸思想が、15世紀には「夢幻能」の形式であらわれたと解するほかはない」と書かれた。

では、この「彼岸思想のあらわれ」は、なぜ必要とされたのだろうか。

「必要」と書いた。

私は、表象が受容者に提示されるものである以上、受容者の「必要性」が、その表象を限定すると考えたい。舞台芸術における観客側の必要性を重視してこの論をすすめていければと考えている。

いうまでもなく、舞台芸術である能の受容者は観客である。世阿弥時代の観客。それはひとつには大パトロンであった室町将軍であり、そして、京洛の市民である。

世阿弥自身、『風姿花伝』のなかで「この道は見所を本にするところなれば、その当世当世の風儀にて」と言っているように、観客の嗜好や深層の欲求が舞台の表象を決定づける。その「必要」にいかに洗練を加えて、さらに自己を表現するかが舞台芸術家たる世阿弥に課せられた使命であり、戦略であっただろう。

彼ら観客が舞台で観なければならなかったものはなにか。

それは、平家物語の書かれた時代とどうちがうのか。

次章から検証してゆく。

 

第1章 成仏の時代

 

1節 鬼能《小林》

天野文雄氏の最近の研究に「古作の鬼能《小林》の成立」がある(『鬼と芸能』森話社2000年 所載)。しばらくこの研究にもとづいて論をすすめてゆきたい。

 『小林』は1389年から1395年にかけて生じた山名氏と足利義満との争いである『明徳の乱』(1391)に取材した能である。以下「古作の鬼能《小林》の成立」から引用する。

「《小林》という能は、小林上野守の事蹟を中心にしつつ、究極的には明徳の乱で敗死した山名陸奥守氏清とその一党への追悼を意図した作品ととらえるのが妥当と思うものである。しかし、そうだとすると、将軍義満に敵対して滅んだ氏清とその一党を追悼するような内容の能が、どうして乱直後につくられたのか(中略)幕府軍と山名方との合戦があった翌年の明徳三年(1392)に、義満は相国寺に禅僧千人を集めて七日間に法華経七部を書写させ、大施餓鬼会を行って、乱で戦死をした氏清をはじめとする敵味方の霊を供養した。(後略;以下後続の大規模な供養が述べられている)」

さて、このような状況のなかで、義満周辺の者によって書かれた『小林』は、天野氏によると『鬼能』とされている。その根拠はひとつには「室町後期の装束付けである『舞芸六輪次第』に「鬼の能」として配されている」こと、もうひとつは、「高知県室戸市吉良川の御田八幡宮で演じられる『小林』が、赤頭と鬼面の鬼形(甲冑を帯した武者姿)で演じられている」ことである。

続いて天野氏は次のように論考されている

「鬼能《小林》については、《敦盛》《頼政》《清経》など世阿弥によって完成された優美な修羅能(軍体の能)の祖形である可能性が考えられるのである。(修羅とは武士が死後堕ちる地獄。修羅能は鬼能の一種ともいえるが、古来鬼能とは区別されている)(中略)義満が氏清ら明徳の乱での死者を供養しようと思い立ったのは、『大宮辺ノ戦場ニハ修羅闘諍ノ声聞ヘテ』『敵味方ノ討死共、猶怨害ヲ含ミテ、合戦ノ苦患ヲ受、瞋恚強盛ノ炎ニ身ヲ焦ス』というような戦死者たちの霊魂慰撫のためであった。(中略)そして、この『修羅闘諍ノ声』や『合戦ノ苦患』が後の世阿弥の新風の修羅能(軍体の能)では基本的な構想(一曲の枠組み)となっていることに照らすと、《小林》が世阿弥の『軍体の能』の祖形に位置する作品である蓋然性はいっそう強くなるのではないだろうか」

 足利義満の、供養に対する情熱と、芸能への執心が世阿弥の修羅能へのひとつの出発点だったことは疑いないだろう。

  

 

2節  『太平記』

平家物語の成立は13世紀中頃、世阿弥の活躍した15世紀前半よりも150年以上前のことである。世阿弥が平家物語に取材して「本説正しく」修羅能を書いたにしても、彼が生きた時代の心性は、平家物語がまとめられた鎌倉時代の心性とはことなってきている。そこで、ここでは14世紀半ばに起草され、世阿弥の生まれた1362or63年までには成立していた『太平記』の心性をみてゆきたいと思う。

とくに「太平記巻二十三」の「大森彦七事」は、猿楽と武士の怨霊というテーマが同時に出現し興味深いので、ここにとりあげる。

 

太平記巻二十三 大森彦七事

この章の主人公大森彦七は、大森盛長といい、「清和源氏。伊予の豪族。延元元年(1336年)5月湊川合戦において細川定禅の手に属し、楠木(正成)を自害においやった功により恩賞が厚かった。暦応5年(1342年)春頃、盛長は正成の亡霊に悩まされた。それは、その愛刀が壇の浦で討死にした悪七兵衛景清の持ち物であり、霊験あらたかな刀であるからそれを正成の亡霊が、奪おうとするからであった。やがて、盛長は般若心経の功徳によって正成の霊を静めたという。巻二十三巻所収の怪異譚の主人公である。」(cf:安井久善 著 『太平記要覧』平成9年 鰍ィうふう)と説明されている。

あらすじをかいつまんで書くと、彦七は湊川合戦の恩賞にあずかり、その記念に猿楽を催すことになった。舞台がしつらえられ、「彦七モ猿楽ノ衆也ケレバ」出演のために楽屋におもむく途中、美女にであった。彼女が猿楽を見たいというので、背負ってつれていこうとすると、にわかに重みが増し、美女は化け物になりかわって彦七を襲う。そのため、その日の猿楽は中止になってしまった。後日、再び猿楽を催そうとすると、また怪異現象があらわれる。「装束ノ唐笠程ナル光物、二三百出来タリ。」「其述(そのあと)ニ色々ニ冑タル兵百騎許、細馬ニ轡ヲ噛セ供奉シタリ。」という騒動である。そして雲の中より「大森彦七殿に申すべきことありて、楠木正成参じて候也」という大音声が聞こえる。その怪物が言うことには、「平家壇ノ浦ニテ亡シ時、悪七兵衛景清ガ海ヘ落シタリシ」刀を、いま彦七が腰に挿しているのだが、それさえあれば「尊氏ノ代ヲ奪ハン事掌ノ内」なので、よこせという。彦七は渡さじと睨みつける。すると正成の霊は海上に消え去った。四、五日後、こんどは猿楽の場ではないところに正成の亡霊が現れる。こんどは後醍醐天皇、兵部卿親王(護良親王)、新田左中将義貞、平馬助忠政、九郎大夫判官義経、能登守教経もいっしょである。正成の霊は「相順(シタガヒ)奉ル人人ハ、悉修羅の眷属ト成テ、或時ハ天帝ト戦、或時ハ人間ニ下テ瞋恚強盛ノ人ノ心ニ入替ル」と随う悪霊たちを紹介する。そのことがあってのち彦七は狂乱におちいり、毎夜のごとく現れる怪物と格闘する。やがて「彦七ガ縁者ニ禅僧ノ有ケルガ来テ」こう述べる。「仰今現ズル所ノ悪霊共ハ、皆修羅ノ眷属タリ。是ヲ静メン謀ヲ案ズルニ、大般若経ヲ読ニ不可如(しくべからず)」その言をいれて、大般若経を日夜六部迄読み続けると、怪異はやみ、彦七の狂乱もおさまった。

 

ここで注目すべき点は、みっつある。まずひとつめは、彦七が猿楽の者であったこと。彼が武士にしてなおかつ猿楽をよくする者であったがゆえに、修羅の眷属をひきつれて正成の霊が降りて来たのだ、と考えてまちがいないだろう。

芸能者に、死者の霊がおりると考えられていることは、芸能が本来もっているシャーマニスティックな点からいっても常識的な心性である。この場合彦七が憑りましとしての「さにわ」の役割をしているとも言えなくない。

ふたつめは、その猿楽が、湊川合戦の恩賞をうけた記念に催されたということである。太平記には詳しく書かれていないが、彦七のもくろみとして、最初から湊川合戦の戦死者を供養する目的があったのではないかと考えても飛躍はないと思う。

さいごに「禅僧」が鎮魂の担い手であるということである。

近年、時宗と能楽の関連に関する研究がさかんであり、成果もあげている。しかしここで注目すべきなのは、当時の武家の公式な宗教としての禅宗が、修羅の魂をしずめたというこの太平記の記述である。地方武士である彦七の物語にもそれはあらわれている。そして、先述した明徳の乱における死者の供養も禅僧の手によりなされている。

世はまさに、宗派をこえて、成仏の時代だった。

それも「わが身」の成仏でなく、自分が殺した人たちの成仏に関心が持たれた時代だったのである。

 


 

第2章 観阿弥の鬼能と世阿弥の修羅能

 

1節 鬼の能

戸井田道三著『観阿弥と世阿弥』(1994年 岩波書店 初出 1969年)によると(以下p165以降 岡田要約)<観阿弥時代は、地侍をはじめとした在地農民のエネルギーが、南北朝の内乱をつきうごかしてきた。いっぽう、子の世阿弥時代になると安定した室町政権下、京洛の都市的文化が、応永文化として花開いた。>(以下p168 岡田要約)<『花伝』で、世阿弥は「修羅」はおもしろくない、といっている。ここでいう「修羅」は、世阿弥の修羅ものではなく、「鬼」の能のことである。観阿弥時代の修羅能は、平家物語から取材した物が現存せず、戦死した武将に修羅がついて狂うというものだったのか。それに反して世阿弥の「修羅能」は平家物語より取材、ひとが鬼になる、あるいは鬼がひとに憑くストーリーではなく、「修羅がかった人間の能」である>。

つまり観阿弥時代の修羅能は、人間とかけはなれたところにいる自然的存在としての鬼の能であったが、世阿弥になると修羅能は決定的に人間の妄執の能となる。これは、観阿弥の観客が自然を開墾し耕し、自然の脅威とたたかってきた農民、地侍層であったことと、世阿弥の観客が自然とはいったん切り離された都市の貴族、貴族化した武士、そしてなにより、自然よりも人間関係との相克によってその生存を決定される都市民であったことと関連してくる。戸井田説は観阿弥と世阿弥の鬼をこのようにとらえていると読み取れる。

世阿弥は、『風姿花伝 第二 物学条々』(1400年頃)で「鬼」について「是、ことさら大和の物也」と言っており、世阿弥最晩年の金春禅竹宛て書状には「是ハ、コナタノ流ニワ知ラヌ事ニテ候。(中略)タヾ親ニテ候シ者ノ(岡田註:観阿弥のこと)、時々鬼ヲシ候ニ、音声ノ勢マデニテ候シ間、ソレヲ我等モ学ブニテ候。ソレモ、身ガ出家ノ後ニコソ仕テ候ヘ。」(1435年頃)と書いている。この書状の文言、ある学説は「一種の誇張をもってその演ずべからざることを示している」(伊藤正義「世阿弥の能と幽玄――その理論と実際」『図説 日本の古典12  能・狂言』(1980 集英社)所載)と解釈している。しかし、私はそうではなく、世阿弥は鬼能をあまりに重んじたために、軽々に演じるなと言っているように思える。たしかに「力動風の鬼」は「此風形、当流ニ不得心(こころえず)」(「三道」(1423年頃))といわれているが、「砕動風の鬼」については、「以此見風ト成所也(これをもってけんぷうとなるところなり)」という様に、尊重している。かつ、その章のはじめには「砕動風鬼の能作。是、 軍体の末流の便風なり。是は形鬼心人也」と書かれている。

世阿弥が修羅能を、人間のドラマととらえていたことは上記によってあきらかであろう。では、どのような経緯が、観阿弥と世阿弥の間に横たわっていたのだろうか。観阿弥の鬼から、世阿弥の鬼はどのように変貌したのだろう。

 

2節 田園の鬼 都市の鬼

「日本のオニは多義的で、大地や山川大海に満ちる祖霊や死霊、怨霊や悪霊などを含み込み、これを祀りあげて守護霊に転化し、祀られぬことで怨霊や妖怪になるなど流動性は高い。(中略)オニとは要するに、荒ぶる神霊、野生の力であり、来訪神や護法善神となり、時には悪神でもあった」(「追儺の系譜 鬼の変容をめぐって」鈴木正崇   『鬼と芸能』森話社2000年 所載)と言われているとおり、古来日本の鬼は天地に棲むアノニムな存在であった。奈良朝から国家行事としておこなわれてきた追儺には鬼を払う役割の「法呪師」が欠かせなかった。そのひとつのかたちに「猿楽呪師」がいる。たいへん古い論文であるが、今もよくひかれる能勢朝次氏の論によると、「法呪師」の行法を「猿楽呪師」がものまねでわかりやすく演じ、「能楽衆」へとつながっていったのではないかという。(能勢朝次 「呪師考」『能楽源流考』 岩波書店1939年)

観阿弥までの「鬼」は天地自然の中に存在する、人格をもたぬ鬼であった、それを世阿弥の時代に、人格のある鬼に劇的に変化させて修羅能が生まれた。

ではなぜ、人格のある鬼が「必要」になったのか。それは前章で述べた、修羅に落ちた人々を成仏させるため という要因の上にもうひとつ、京洛という都市の性格も寄与しているのではないだろうか。

桓武天皇が山城に都をうつしてから、この都市は様々な個人の「怨霊」に悩まされてきた。早良親王しかり、菅原道真しかり。それは今も京都の町に残る数々の魂鎮めの神社や寺院の存在によってもあきらかだろう。田園で自然を相手に生きてきた人にとっての鬼は、名づけ得ぬ者であったが、都市で政争にあけくれる人々にとっては、「名前のある鬼」がリアリティーをもって存在していた。都に本拠をおいた室町幕府がその心性に影響をうけぬわけはない。とくに義満時代の応永文化は、京の貴族文化に範をとった。その貴族文化が恐れてきた「怨霊」が、室町幕府支配層にとって、自分達が殺してきた人々の「修羅の鬼」としての霊におきかえられたとしてもなんの不思議もない。だから、前述の『小林』という能も明徳の乱後いちはやくつくられたのだ。義満のおかかえ能楽師として生きた世阿弥が、観阿弥時代のアノニムな鬼を追い払う劇のシノプシスを利用しながら、「名前のある鬼」すなわち、平家の武将を救う能をつくらなければならなかった理由もここにある。

 

 

第3節 登場人物の登場

「鬼」にかぎらず、世阿弥の能には「名前のある登場人物」が登場する。

これは、現在からみると当たり前のように思われるが、当時としては画期的なできごとだったのではないだろうか。

それまでの芸能はどうだったのか。あまりにも世阿弥の時代からかけはなれている記録だが、11世紀中頃 藤原明衡(989〜1066)の『新猿楽記』を見てみよう。稲荷祭の猿楽であろうと推定されている演目のなかに、「唐術、品玉、輪鼓」などといった身体芸的な演目とともに「大領の腰支、蜈漉舎人の足仕、氷上の専当の取袴、山背大御の指扇、琵琶法師の物語、千秋万歳の酒祷、飽腹鼓の胸骨、蟷蜋舞の頸筋、福広聖の袈裟求め、妙高尼の襁緥乞ひ、形勾当の面現、早職事の皮笛、目舞の翁躰、巫遊の気装貌、京童の虚左礼、東人の初京上り、」という再現代行型の物真似芸がある。ここにかかれているこれらの人物、「大領・蜈漉舎人・氷上の専当・山背大御・琵琶法師・千秋万歳・飽腹鼓・蟷蜋舞・福広聖・妙高尼・形勾当・早職事」は、固有名詞ではなく人物の典型、あるいは職業といったようなものである。

そのような演劇状況は、世阿弥の時代までかわらなかったのではないだろうか。貞和5年(1349年)の有名な「四条河原桟敷崩」の記録にも、舞台の、登場人物の固有名詞はでてこないのである。

ここで興味をひくのは世阿弥自身による『三道』(1423年)の記載で、「凡、近代作書する所の数々も、古風体を少うつした取りたる新風也。昔の嵯峨物狂の狂女、今の百万、是也。(中略)松風村雨、昔、汐汲也。(中略)如此、いづれもへ、本風を以て再反の作風也」の箇所である。「嵯峨物狂の狂女」に、百万という名をあたえ、「汐汲」の物真似芸を松風村雨という少女と都人行平との愛の物語にかえていった世阿弥。彼の時代において舞台芸術は、固有名をもつ「登場人物」を登場させた。

それは『三道』において「人体」という言葉を冒頭から頻出させていることからもあきらかであろう。「種とは、芸能の本説に、其態をなす人体にして、舞歌のため大用なる事を知るべし。」「書とは、其能の開口より、出物の品々によりて、『この人体にては、いかやうなる言葉を書きてよかるべし』と案得すべし。」等等。そしてその「人体」の具体例として「男体には、業平・黒主・源氏」「女体には、伊勢・小町・祗王・祗女・静・百万」と名をあげている。修羅の能の場合(ここでは軍体といっているが)は具体名はあげられていないが「軍体の能姿。仮令、源平の名将の人体の本説ならば、ことにへ平家の物語のまゝに書くべし。」と言い、「源平の名将」といった固有名をもつ人物を「人体」と表現している。

かように、当時としての画期であったかもしれない「固有名をもつ登場人物」を、登場させた世阿弥。では、なぜ彼は、遠く離れた父祖の代の物語である平家物語の人物を修羅能の主人公に据えたのだろうか。次章で検証してゆきたい。

 


第3章 供養される者たち

 

1節 修羅能の登場人物

 現在上演される修羅能において、登場人物たちはどのように供養され、成仏しているのだろうか。ここで修羅能十六番のうち勝修羅三番をのぞいた十三の能についてみていきたいと思う。下の表を御覧頂きたい。

主人

供養する

供養の方

成仏の有

平敦

熊谷蓮生

十念・観無量寿

(浄土宗

世阿

生田敦

平敦

敦盛の

 

金春禅

今井兼平

木曾義仲

木曾の

 

ほぼ世阿

平清

なし(妻は恨みをいうだけ

南無阿弥陀

最期の十

世阿

平実

他阿弥上

南無阿弥陀

世阿

俊成忠

平忠

藤原俊

 

内藤河内

または世阿

平忠

俊成の身内の

 

安堵す

世阿

平経

 

しな

ほぼ世阿

平知

西国の

法華

懺悔慙

ほぼ世阿

源朝

嵯峨清涼寺の

観音懺

(天台宗、

ほぼ世阿

木曾の

 

世阿弥

平通

阿波に滞在する

法華

井阿弥と世阿弥の合作か

源頼

諸国一見の

法華

世阿

 

<作表 岡田>

 

 

<表についての注記>

 i.  表に「成仏の有無」とあるのは、能の詞章でシテなり地謡なりが「成仏」すると言っているか、言っていることを基準とした。

例@  敦盛=成仏する

       「終には共に生まるべき、同じ蓮の蓮生法師、敵にてはなかりけり…」

例A  頼政=成仏不明

       「あと弔ひたまえおん僧よ、かりそめながらこれとても、他生の種の縁に今、扇の芝の草蔭に、かへるとて失せにけり」

       (弔いを依頼しているが、成仏したと宣言していない)

 

  ii.  供養の方法については、能のう詞章のなかに具体的に出てくる経典名や経文、または「懺悔によりて」などの文言によった。

 

 iii.  作者の推定については戸井田道三氏の「世阿弥と修羅能」(『日本文学研究叢書   謡曲・狂言』有精堂 1981年)に引用された野々村戒三氏の説に準拠した。

 

 iv.  ただし「俊成忠度」(内藤河内守と断定する説あり)、「巴」(小次郎信光とする説あり)、「通盛」(井阿弥単独作者説 あり)は作者の同定に異説がある。

 

 

 

さて、上記の表からあきらかになることは、作者が世阿弥と特定される作品は、『忠度』を残して供養の方法がはっきりしていることである。

(再掲)

平敦

熊谷蓮生

十念・観無量寿経

(浄土宗

世阿

平清

なし(妻は恨みをいうだけ

南無阿弥陀

最期の十

世阿

平実

他阿弥上

南無阿弥陀

世阿

平忠

俊成の身内の

 

安堵す

世阿

源頼

諸国一見の

法華

世阿

 

 

これらの作品のうち四作までが、供養の方法がはっきり詞章にあらわされており、また、そのうち三作までが、念仏宗系の供養であることは注目にあたいする。昨今、能楽と時宗の関係が研究されているが、このあたりの根拠からそのような着目が生まれたのであろう。

しかし、ここではそのことに深くふれずに、供養される側の「主人公」について考えていきたいと思う。

 

2節 王朝文化の後継者

  敦盛、清経、忠度。彼らはいうまでもなく平家政権末期の武将たちである。そして、次なる源氏政権の興隆のために殺された人たちである。

  しかし、彼らはただたんなる「武士」だったわけではない。平家が都に政権の中枢をおき、公家化し、王朝文化の継承者として生きた、その時代に都周辺で育った人たちである。敦盛の笛、清経の琵琶、忠度の歌。それらは、王朝文化を象徴するファクターとして用意されている。そのように彼らは文化的には王朝文化の後継者だった。にもかかわらず彼らは武士として殺された。

室町期に歴史として平家の武将たちの生と死を読んだ、あるいは聞いた人々は、そのことをどのように受け取ったのであろう。とくに、世阿弥の観客となる高級武士達は。

歴史を語る装置である『平家物語』は平家の武将の生と死を、「事実」として、一種つきはなしたかたちで坦坦と語っていく。そして、彼らが死後「成仏」したかどうかについては関心をいだいていない。描かれるのはどの人物も死のその時までである。彼らがたとえば死の間際に<(忠度)は其後西に向ひ、高声に十念となへ「光明遍照十方世界 念佛衆生摂取不捨」との給ひもはてねば、六野太うしろよりよッて薩摩守の頸をうつ>(『平家物語』巻九)と念仏しても、それは自分が成仏するためである。維盛(彼は能楽の主人公ではないが)に出家をすすめる滝口入道にしても、「出家の功徳は大きく、何人もの人を殺した武士でも往生できる」と説くのだ。決してもう死んでしまった人を往生させるための仏教を説いているのではない。しかし、世阿弥の能の主人公は、他者に供養してもらう存在に変貌している。

なぜだろう。

それはつまり、「主人公をもつ演劇」という、新しいメディアの観客達が「他者に供養してもらう存在」を求めたからにほかならない。

この希求は彼らに「意識」されたものでなく、深層にうずまくものだったかもしれない。逆の視点からいえば、観客のこれらの無意識の希求をほりおこし、それを現前せしめたからこそ、世阿弥の能は人気を得たのだといえるのだ。

大和猿楽の観世一座をぜひとも維持してゆく責任をもった世阿弥。彼が戦略的にえらんだ「供養される者」としての主人公。

では、当時の観客達にとってこれらの主人公はどのような意味をもつ登場人物だったのだろう。

 

 

第3章 『リチャード3世』

 シェイクスピアの戯曲のなかで、歴史上の人物を主人公にし、かつ殺された者達の亡霊でてくるものを探してみよう。すぐに思い浮かぶのは『リチャード三世』である。

 この戯曲で終幕にでてくる亡霊たちは、リチャードを許さない。それどころか彼の滅亡に手を貸す。どうしてシェイクスピアは、このような亡霊を登場させたのか。

 彼のパトロンであったエリザベス1世は、リチャード3世を滅ぼして王位についたリッチモンド伯、すなわちのちのヘンリー7世の孫にあたる。

 リチャードの滅亡に手を貸す亡霊たちは、当時の観客エリザベス1世の宮廷の王位継承を正当化する者たちである。「悪」の王、リチャードの罪を証言し、その悪を滅ぼすリッチモンド伯を正義とみなす。プランタジネット家のリチャードから王位を奪った者である、チューダー家のヘンリー、つまりエリザベス1世の祖父を擁護するはたらきをしている。

エリザベス朝で演じられた「リチャード三世」という戯曲は、このように、現政権の正当性を主張する働きをしている。

 

 さて、それに較べて世阿弥の主人公、平家の武士達たちを考えてみよう。彼らは頼朝政権の犠牲となったものたちである。室町幕府にとっては、直接の「前政権」ではない。であるから、とくにその「悪」を証言する必要はない。

シェイクスピアの中のリチャードは徹底的にその「悪」が証言され、世阿弥の主人公は「供養されるべき者」として扱われている。つまり、エリザベス朝では、前政権は悪で、現政権は正義、といいたかった、または考えたかった、のに較べ、室町政権は、源氏に滅ぼされた平家政権は「我等とおなじ者。供養してやらないと、祟るかもしれない鬼」とみなしていたのではないだろうか。

 

 

第4節    安定政権への道

  南北朝の分裂をようやくおさめたのが1392年、大内義弘を敗死せしめた応永の乱が1999年、このころ、やっと国内は安定へとむかい、義満の関心も明との貿易にむかっていった。それと時を同じくして1400年ごろ『風姿花伝』が書かれる。世阿弥は三十代後半、働き盛りの年齢である。 その8年後には後小松天皇の北山第への行幸もある。そんなとき、義満はじめ室町幕府中枢の深層にあったものはなんだったのだろうか。

  まず、彼らがめざした政権は、どのようであったのだろう。「幕府」という武士政権の形式をとっているとはいえ、頼朝が樹立した武家連合型の鎌倉幕府とは、またちがったかたちが、彼らの脳裏には思い描かれていた。それはなにより、政権の中心を王権の地、京都においたことからもあきらかである。彼らがめざしたのは京都から独立した頼朝型の支配ではなく、天皇制に依存し、またその制度の頂点に立つ天皇そのものをめざす都市型中央集権の政権であった。そのモデルとして思い描かれていたのは清盛を最盛期にもつ、平家型の政権ではなかったか。

  みっちりと王権内部にはいりこみ、その王権そのものを自分の手にいれるかたち。それをめざすにあたって、彼らが供養すべき存在は、都に育ち、王権の内部で政権をはぐくみながら、敗れていった平家の武将たちではなかっただろうか。

 足利家は系図的には源氏である。清盛政権=平氏→頼朝政権=源氏→北条政権=平氏とうつりかわってゆくなかで、氏族的には頼朝政権に同化する。ところが、そのおなじ氏族の頼朝政権に殺された者たちこそ、足利幕府がモデルとする平家の武士たちなのだ。このことから、安定期にむかおうとしている足利幕府にとって、平家の武将たちの供養こそ、自分達の繁栄をもたらすものとして考えられていた、と言っても言い過ぎではないと思われる。

  そして、彼らがこれから繁栄していかなければならない、都に思いを残す平家のた魂鎮めは必要欠くべからざるものだったにちがいない。それも、チューダー朝にとってのプランタジネット朝のような、直接の敵ではなく、親しき者としての魂鎮めが。

 


第4章 室町武士

 

1節 『弁慶物語』

  ここで能の受容者である室町武士の仏教的教養をみておきたい。

  能の観客と同じようなレベルの受容者に受容される文学として「室町物語」をとりあげたい。御伽草子と一般によばれる室時代町成立の物語文学のなかに「弁慶物語」がある。(以下引用は「新日本古典文学大系55 『室町物語集 下』」(1992岩波書店)所載「弁慶物語」 徳田和夫 校注)詳しい成立年代はわかっていないが、『看聞御記』永享6年(1434)11月6日条に「武蔵坊弁慶物語二巻」の記述がみられることから、世阿弥の時代とほぼ同時代に読まれていた物語だということができる。源義経の家来、武蔵坊弁慶を主人公にする英雄豪傑譚である。その物語のなかで、弁慶が六条河原で首をきられそうになるシーンがある。

  そこで首切り役の吉内左衛門が「一遍の念仏をも申、後生助かり給へかし。」というのに答え、弁慶は吉内左衛門の表面的な仏教理解に対して皮肉をいいはじめる。出家の自分が在家の左衛門の「教化にあづかるこそ返々も恥づかしけれ。」と言ったあと「三平等の観念も不足なれば、真言、陀羅尼もかなふまじ。本地信へ゛の奥蔵なれば、行願は難行なり。造悪不善の儀なれども、直に西方の浄土は尊し。されば念仏を申べし。同じくはよく教化し給へ。念仏にをひてもあまたあり。一念か多念か、自力か他力か、一向か専修か。いづれを申べきぞ。」…そのあと弁慶は、捕手をひきずってその場から逃げおおせるのだが、問題は、このような皮肉が、物語の受容者に理解できた、ということである。

  英雄豪傑譚を読んだ、または読み聞かせられただろう、室町武士の仏教的教養が、この程度まではあった、ということの論証にはなると思う。

 

第2節 出家遁世の武士

 五味文彦氏の「殺生と信仰―武士を探る」(平成9年角川書店)のなかには、発心する武士達の姿が数多く描かれている。「殺生を業とする武士に強い信仰心を抱かせたのが観音なのであって『粉河寺縁起』もまたそれを題材にした絵巻である」という記述や「こうした観音とともに地蔵もまた武士の信仰を広く獲得していた」という記述とともに、世阿弥の時代からはずいぶん遠ざかるが『宇治拾遺物語』にみえる賊の発心の話、鴨長明筆といわれる『発心集』、西行に擬せられる『撰集抄』のなかでの武士の出家が数多あげられる。

  ここで興味をひくのは検非違使の平諸道の父が地蔵信仰により救済されたという『今昔物語』の記述である。検非違使は都の市の支配に重要な位置をしめ、かつ、市の守護をする仏は地蔵であったという関係である。そして市では、芸能が行われていた。検非違使と芸能についてはのちほどふれる。

  五味文彦氏は「武士の生き方は仏道の本質に背くものであって、それだけに自分のおかした殺生の罪業が、武士の往生を求める心を悩ますことになっていた。出家したらそれでよいというだけにはゆかず、日頃から武士たちも館の中に持仏堂を造り、往生を願っていたのである」と結論づけている。

 

3節 検非違使の没落

  いまひとたび「鬼」にもどろう。都では「鬼」はどのように祓われていたのだろうか。

鈴木正崇氏の「修正会」という論文(岩波講座 東洋思想 第15巻 日本思想1(1989年 岩波書店)所載)に「平安時代に王朝のケガレ観が確定し、王朝に居する天皇を「浄」とみた時に、その対極にある「穢」を凝縮させる存在として鬼が急速に形象化され、その脅威を異界に祓い戻すことで秩序を更新する儀礼が隆盛をきわめたとも言える」という記述があり、かつ丹羽谷哲一氏の論考をひき「検非違使が法勝寺・法成寺の後戸奉行に任ぜられ」「国家や王権の存立を危うくするような異質なものを統御し排除する役割を担ったのである。後戸奉行に検非違使が任ぜられていたのは、14世紀まで確認できるとされ、南北朝時代に日本の権力構造が大きく転換し、非農業民に対する差別が強まった時期に姿をけしてゆく」と述べている。

 ( 「後戸」とは世阿弥の「風姿花伝 神儀云」にも書かれている能楽発生の重要な「場」で、寺院の後戸で演じられた芸能が猿楽につながってゆくのだが、ここでは少し先を急ぐ。)

  この記述のように、14世紀まで重要な位置をしめてきた検非違使。彼らが歴史の舞台から消えた室町政権下で、検非違使にかわるものは誰だったのか。

  佐々木銀彌 著「日本の歴史第13巻(1975 小学館)」の簡明な記述によれば、「元来京都の治安・警備は、平安時代に令外の官として設置された検非違使管下の使庁の任とされていた。(中略)侍所の役割は、いわば王城・幕府の鎮護の役割を、由緒ある検非違使庁の手から、事実上うばいとってしまったことを意味している(中略)こうしたいわば京都市政権の掌握は、佐藤進一氏も指摘しておられるように、二代将軍義詮の晩年から義満の時代にかけて推し進められた。」という。

  このように、平安時代から続いてきた検非違使にかわって室町幕府の侍所が、京都市内の警察権を掌握した。しかし、彼らが検非違使がはたしてきたような祭祀的な役割をひきついだかといえば、そうではないだろう。室町幕府の文化面を強力に支えた 御伽衆、阿弥衆の跳梁が芸能面にもはたらいたとみなければならない。世阿弥や近江猿楽の道阿弥、義持にもちいられた田楽の増阿弥らが、いままで検非違使が王権に対してはたしてきたような、「穢」はらいの役割をはたすようになったとみるのが順当な見方ではないだろうか。。

もちろん、仏教行事の修正会や、修二会に付随する追儺の儀式は残っただろうが、そのような古いかたちでの鬼追いはもう、民衆や武士や貴顕のカタルシスにはならず、名前をもつ主人公に仮託された、情念そのものが、「鬼」として、追われ、供養されていった。その場にいたのが世阿弥をはじめとする芸能者である。


結章 観るものの力

 

  ここまで書いてきたとおり、世阿弥の時代に日本演劇の中に「名を持った登場人物」が、輪郭をもって登場した。それは、当時の有力な観客の「罪を祓う」欲求からきたものである。

  だから世阿弥は原典の平家物語に書かれていない、平家の武将たちの成仏を書いた。そこで供養される者たちは、京洛に政権をおき、武士ながら、王権の継承者とならんとした者達である。その平家武士達の魂が怨念として修羅道にとどまっているかぎり、平家と同じように都に政権をおき「王」になろうとした、足利三代将軍、義満の野望は阻まれるだろう。

  また、「王」になろうとする将軍のために、現時点で多くの戦いをし、多くの者を殺してきた室町武士たちは、舞台で修羅道に落ちた者が成仏するのを見て、「深層にすくった罪の意識」が癒されるのを感じただろう。

  王権と武権というはざまをゆれうごいてきた日本の歴史の一端が、演劇史の転換にも如実にあらわれている。

  シェイクスピアが「断罪」をもって現政権を正当化したのとおなじはたらきを世阿弥は「供養」でおこなったのだ。それは日本人の心性に深くかかわるできごとだった。

 

  このように、演劇は、作り手だけの芸術的欲求や、美意識だけで形成されるのではない。大きく社会の動きの中で、「観るもの」によってもかたちづくられていくのだ。そして、その「観るもの」の深層の動きを底浚いしてかたちにする能力のあるものこそ、その時代の演劇を画するのである。

  世阿弥はそうした能力がある人であった。

  

しかし、さらにいえば、世阿弥はそれだけの能力をもっていただけではない。彼の戯曲は、21世紀に生きる私たちの心をも打つ。

  

さてはその夜の御遊びなりけり。城のうちにさも面白き笛の音の。寄手の陣まで聞こえしは

それこそさしも敦盛が、最期まで持ちし笛竹の

音も一節を謡ひ遊ぶ

今様朗詠

声々に

拍子を揃え声をあげ

 

と、もりあがって舞いになる、そして直実と敦盛の汀の戦い、回向が描かれ、「同じ蓮に生まるべき」となれば、直実・敦盛ふたりだけでなく見所もふわりと蓮の露となって夏草茂る一の谷をあとにする。

  室町時代の観客にとっては平家の公達の魂鎮めであっただろうが、それ以上に、風雅を愛しながら戦場で死ななければならない時がくれば、死んでゆかざるをえない人間存在に対する鎮魂でもある能。

 このような芸術を生んだ時代と、京洛というトポスと、そして当時の観客達に私は限りなく愛着を感じる。そして、いま、「観るもの」としてどのような芸術を未来へおくりだしているのか、深く考えたりもするのである。

 

2001年11月京都東九条にて


★参考文献

加藤周一「世阿弥の戦術または能楽論」

日本思想体系『世阿弥・禅竹』所載(岩波書店1974年)

 

天野文雄「古作の鬼能《小林》の成立」

『鬼と芸能』所載(森話社2000年)

 

安井久善『太平記要覧』(おうふう 平成9年)

 

後藤 丹治 他校注「太平記」

日本古典文学大系 『太平記』(岩波書店1977年)

 

戸井田道三『観阿弥と世阿弥』(岩波書店1994年 初出 1969年)

 

伊藤正義「世阿弥の能と幽玄――その理論と実際」

『図説 日本の古典12  能・狂言』所載(集英社 1980年)

 

鈴木正崇「追儺の系譜 鬼の変容をめぐって」  

『鬼と芸能』所載(森話社2000年)

 

徳田和夫 校注「弁慶物語」

「新日本古典文学大系55 『室町物語集 下』」(岩波書店1992年)

 

五味文彦『殺生と信仰―武士を探る』

(角川書店 平成9年)

鈴木正崇「修正会」

『岩波講座 東洋思想 第15巻 日本思想1』所載(岩波書店 1989年)

 

佐々木銀彌 『日本の歴史第13巻』(小学館 1975年)

 

★基本文献

日本思想体系『世阿弥・禅竹』(岩波書店1974年)

 

日本古典文学体系『謡曲集 上下』(岩波書店 昭和35年初)

 

佐成謙太郎『謡曲大観』(明治書院 昭和6年初)

 

日本文化総合年表(岩波書店 1990年)

 

 

★放送大学テキスト

毛利三彌『東西演劇の比較』(放送大学1993年)

 

五味文彦『日本の中世』(放送大学1998年)

 

渡邊守章 『舞台芸術論』(放送大学1996年)

 

渡邊守章 他『演劇を読む』(放送大学1997年)

 

渡邊守章 『舞台芸術の現在』(放送大学2000年)