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宇宙のしくみ 

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[原理:相反するもので一対という同時の内界に時空間がある]

原理世界(原因と結果という相反するもので一対が同時にある=同時の内界に時空間がある):すべての原因(同時=目的=未来と、表裏一体にある、存在=虚空間という未結果量の総体=真の物量)を有し、すべての結果を得ていないから、相反する、すべての結果量(同時=虚空の質量=認識=物質)を有し、すべての原因を失う、が一対(同時)にあり、その内界に得た結果量と、相反する、失う未結果量の連続の積み重ねという時空間がある。                                    すべての結果を得ていないもの(均等=静止するもの=矛盾がない)から、相反する、すべての結果を得て、未来と虚空間を失う(均等=静止するもの=矛盾がない)に到達する間に稼動する時空間(ひずみ=矛盾)がある。到達すべき結果の総体(宿命)の内界に生まれ出た、あらゆる物質(結果量の総体=質量の総体=今)は、不均等(未確定=運命)の連続の積み重ねの途中にある。秩序から、相反する、秩序に到達する間に無秩序の総量があり、そして無秩序が増幅することは無秩序の総体が減少することであり到達するところに秩序が表れる。

原因(相反する真の物量=量子の形態):目的(概念量の総体=未来量=均等にあるもの=真の物量)と、表裏一体にある、存在(演算量=虚空間量=均等に在るもの=真の物量)というすべての事象以前にある原因(結果以前=質量と体積以前=未結果量の総体=量子という形態)。

すべての結果を質量(物質)として認識する:得た結果量と、相反する、失う未結果量に間(歪)という結果には認識するものと、相反して、認識できないもので一対にある。物質を存在するものとすれば意識は見ることも触ることもできず、意識を存在するものとすれば物質は結果の認識という虚空の存在となる。

時空間(同時の内界に連続する相反する結果量):未結果量の総体(未来と、表裏一体にある、虚空間=真の物量=すべての事象以前にある原因=未結果量の総体=量子という形態)が同時(一対)にある。その同時の内界に得た結果量(質量)の増幅と、表裏一体にある、未結果量(真の物量)の減少という相反する結果の増減がある、しかし相反するもので一対(すでにあるもの=原因と結果=同時)という総量は変わらない。                                                 結果量(質量)が増幅すれば物質(内界)は速さ(同時=質量の総体)を増し、相反する、未来と虚空間という外界の虚速さ(同時=真の物量)は減少する。見て触れることができると思える物質(結果=質量)とされるものは、相反する、見ることも触ることもできないと思える未来と虚空間(原因=真の物量=量子という形態)に到達しようとするもの。そして今とは物質が得る結果の総量(質量の総体=同時=光の単位)に到達する間にあり、得た結果量と、相反する、失う未結果量という相反する結果(歪)の間にあり、今の連続の積み重ねに時空間がある。物質(結果量=質量)を生み出す無数の原理世界(未来と虚空間)が相互作用を有するという集積体が今の宇宙という時空間を生み出す。

重力(意識)=物質と空間は相反する同じもの:相反するもので一対という二者で結果(ひとつの答え)を得ようとすることが重力(意識)であり、結果の総量(光の単位=時空間の総体=同時)へ到達しようとする意識の連続に重力が稼動する。意識は今だけにあるものではなく未来と虚空間〈原因)が生み出すであろう結果の総体から過去という今にやってきたもの、そして意識(思う)は自身が到達すべき、すでにもうあるという同時に連続している。                                      物質(質量)があるから重力が発生するのではなく重力があるから物質(質量)が発生する。結果に生まれ出た人間(意識)が、その結果を自身(生物)を含めて物質(在るもの)という前提とするならば質量が重力を発生するとなる、しかし結果(質量)を意識(人間=生物)が認識(物質)することを前提とすれば結果の総量に到達しようとする重力(意識の連続)に物質(質量)が発生するとなる。重力とは、すべての宇宙(原理世界)を稼動する根源的なエネルギー(意識)であり、今の宇宙が到達すべき結果の総量に向かおうとする意識そのものであるとすれば、その内界にある生命(生物=意識)には、結果量を認識すること自体が重力(引力)・物理的な力の移動という物質の行動に表現される。

光(今の宇宙を稼動する前提という単位=原因と結果が同時に在るもの=原理世界):光速度不変とは光の速さが不変にあることではなく、相反する不変の距離(世界観=ひとつのもの)として同時にあること。物質の発生から物質の終焉までの結果の総量を生み出す根源的な単位。光は虚距離の総体・虚速さの総体・虚時間の総体が同時にあり、その内界に時空間(得た結果量と、相反する、失う未結果量の増減)がある。すべての事象は同時にあり、しかしすべての素粒子は相対性の中に結果を生み出し、そして今の宇宙にある、すべての事象も相対性の中にある。

連続の積み重ね:世界観(3次元の総体=原理世界の完結=今)は以前(過去)にある世界観を内界に有し、そして更なる世界観(未来)の内界にある。すべては更なる世界観の内界にあり、そして更なる世界観に生まれ出ようとするもの。物質が移動(物理的な力=時空間=世界観に到達する以前)すると思えることも、あらゆる進化(更なる世界観=3次元の総体=認識に生まれ出る)するものも、設定量の世界(同時)が前提にあり、その内界に距離と速さと時間という概念(時空間=結果=同時の連続の積み重ね)が生まれ出る。今の宇宙がひとつの真空に完結しているとすれば、すべては同時にあり距離と速さと時間はなく、そして宇宙は稼動しない。

相反する結果を相反する認識に積み重ねる得た結果量を認識して物質(質量の総体)という見ることも触ることもできるものとし、同時にある、結果の量を認識できず空間の膨張(反質量の総体)という見ることも触れないものとして観測する。物質(内界にある結果の総体=同時)は自身を感じず(在るとするものは無いもの)、そして更なる結果の連続の積み重ねを生み出すであろう未結果の総体(未来と虚空間)という認識できない(相反する真の物量=原因=到達すべき答え=量子という形態)を外界に感じる(無いとするものは在るもの)。すべては自己というひとつと、表裏一体にある、他者というひとつで一対であり相互作用を有し新たなひとつの結果を生み出そうとするもの。そして生まれ出たひとつという結果は自己が得た結果と他者が得た結果で一対(表裏一体)であり、それぞれの得る結果とは 認識(質量=世界観に収束)と、認識できない(虚質量=結果の量に均等する)がある。

[原理世界]

光の単位=物質の始まりから終わりまで(虚距離・虚速さ・虚時間の総体=同時という内界に生まれ出る得た結果量と、相反する、失う未結果量で一対という時空間)

光速度不変とは光の速さが不変にあることではなく、相反する不変の距離(世界観=ひとつのもの)として同時にあること。光に速さはなく前の宇宙に完結し今の宇宙にあるすべての事象の前提という世界観(同時=ひとつのもの=単位)。光の単位(同時)の内界には原因と結果が同時にある。目的(概念量=未来=真の物量=量子という形態=未結果量の総体=均等)と、表裏一体にある、存在(演算量=虚空間=量子という形態=未結果量の総体=均等)。すべての事象以前にある原因(生まれ出るであろう答え=量子という形態)であり、相反する二つのもので一対(同時にある)という、ひとつ(始まり)。すべての目的(概念量)が稼動し未来を失い、、表裏一体にある、すべての存在(演算量)が稼動し虚空間を失い、得た結果の総体という相反するものに到達した、世界観(同時=ひとつのもの)とは相反する認識という二つのもので一対(同時にある)という、ひとつ(終わり)。始まり(未結果量の総体)というひとつと、終わり(結果量の総体)というひとつ、という相反する二つのものが一対(同時にある)にあるというひとつ(原因と結果が同時にある)。そして光の単位(物質の始まりから、相反する、終わりまで)という同時(世界観=ひとつのもの)の内界にある得た結果量(膨張宇宙空間)と、相反する、失う未結果量(未来と虚空間)という相反する結果量の増減の間(歪)に今(認識=質量=物質)の連続の積み重ねという時空間が稼動する。すべてに事象(世界観=3次元に完結=ひとつのもの)は、相反するものが相互作用(結果の総量に到達しようとする=連続する意識=重力)を有し、相反する同じものに到達しようとするもの。

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 均等=同時の内界にある膨張と集約(相反する方向に増減する、相反する結果量)

静止する概念量(均等=未来の総体)が認識量の連続として増幅する(集約=あったはずの未来量を失う)、そして表裏一体にある、静止する演算量(均等=虚空間の総体)が存在量の連続として増幅する(集約=あったはずの虚空間量を失う)。得た結果(質量)が増幅の総量に到達することと、相反する、失う未結果量(相反する真の物量=未来と虚空間=量子の形態=原因)の総体が消失しようとする、相反する結果量が同時(表裏一体)にある。無限の角度の相反する方向に生れ出ようとする相反する結果量の総体(時間=同時)に流れはなく、得た結果量と、相反する、失う未結果量という相反して同時(総体)にあるものの増減。                        今の宇宙が結果の総体(同時=無=認識)に到達する内界には、内訳というひとつづつの結果(同時=無=認識)の連続の積み重ねがある。仮に結果の総量を知ったと仮定したならば今の宇宙に生まれ出る結果の総を同時に知ることであり、すべての距離・速さ・時間を同時に感じることとなり、そして距離・速さ・時間という概念は無くなる。今は得ていない未来と虚空間が生み出す結果(同時)の連続があるから、今という距離・速さ・時間という概念(同時=ひとつのもの=過去の総体)の積み重ねがある。 距離・速さ・時間とは同じもの。得た時間とは体積(距離の総体=速さの総体=同時=認識=無)であり、得ていない時間とは虚体積(虚距離の総体=虚速さの総体=同時=認識できず感じる=有)。得た結果量の増幅の連続の総体(同時)と、相反する、失う未結果量の減少の連続の総体(同時)という相反するもので一対(同時)の間(時空間)に意識(時間)は流れ、得た結果量の総体(同時)と、表裏一体にある、得ていない未結果量の総体(同時)に時間は流れない。                       自己(認識=今)は内界(ひとつのもの=同時=世界観)に得た結果量を積み重ね、相反して、連続する意識(結果の総量に到達する=重力)は外界(認識できない=未来と虚空間=原因)という未結果量の総体を失うを積み重ねる。そして相反する両者は同時(表裏一体=一対)にあり相反する同じもの。

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原理世界の一ページ1(結果の総体を同時に認識し、表裏一体にある、未結果の総体を同時に感じる=すべての事象は相反して同時にあるもの)

原理世界の生み出す結果の始め(過去)と、相反する、結果の総量(到達すべき未来)という両極の間に、得た結果量(認識=質量=今)と、相反する、得なかった未結果量(未来と虚空間=相反する真の物量=量子という形態=原因)が同時(表裏一体)にある。物質は得た結果量の総体(質量の総体=同時=得た空間=体積)であり、そして内界にある得た結果量(時間の総体=同時=無いもの=今)を意識は認識(質量)し感じない。相反して、今は得ていない未結果量の総体(相反する真の物量=同時=量子の形態=原因)があり、そして外界にある今は得ていない未結果量(虚時間の総体=同時=在るもの=未来と虚空間)を意識は認識できず(虚質量)に感じる。そして相反する両者は表裏一体(同時=一対)にあるという、ひとつ。                                                                 得た結果量を同時に認識する、だから質量は体積という距離の総体を有し、距離の総体を同時に認識するから速さとなる。そして今は得ていないという未結果量(未来と虚空間=原因)は認識できないという虚質量(虚距離=虚速さ=虚体積)という物質(質量=結果)と相反する同じもの。そして物体は距離の端から、相反する、端までが同時にある。しかし、その同時の内界には時空間の生み出す結果(質量=同時)の総量もある。                                              光速の半分の速さで移動する宇宙船と同じ速さで移動する宇宙船は互いに宇宙船という形を認識できる。今とは過去の総体と同時にあるもの。しかし静止する宇宙船から見れば自身が得ていない原理世界の内界にある未来と虚空間の生み出す結果量に到達している宇宙船を見ることになる。多くの結果量(質量の総体)という距離の連続する総体を同時に認識し高速で移動する宇宙船は流れて見える。

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すべては加速度的に結果する(相互作用を有する結果の総体となる連続の積み重ね)

目的(概念量=真の物量の総体)と、表裏一体にある、存在(演算量=真の物量の総体)を、それぞれ六面体(体積)と仮定する。そして相反する真の物量が相互作用(意識=重力)を有した結果量(質量の総体)もまた六面体(体積)。ひとつの結果(体積)が10個の立方体という直線に並び(1次元=認識単位)、次に10個の幅に増幅し(2次元)という100個の結果量の総体(物質に到達する)となる。そして相反する、残りの900個という、目的(概念量=未来)と、表裏一体にある、存在(演算量=虚空間)が同時(相反するもので一対)にある。そして更なる得た結果量は、すべての質量(結果)が相互作用を有するという加速度的な結果量を積み重ねる。             質量とは物体の動かし難さや重さの度合いを表す量ということらしい。粒子が光速に近づくと見かけ上の質量が増し動かし難くなるため粒子は光速を超えないと記載されていることもある。粒子が速さを有して質量が増すとは結果の量が増幅することであり、速さを増すごとに結果量は比例して増すのではなく加速度的に増加する。静止する粒子が秒速1万キロメートルの速さに到達するために必要な結果量と秒速10万キロメートルの速さから、さらに秒速1万キロメートルの速さを得るためには、はるかに増大した結果量が必要。そして質量が増え動かし難くなるため光の速さを超えないということは光の単位(同時の内界にある時空間=結果の総量)に到達すること。

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[次元=世界観]

3次元(世界観=ひとつのもの)に到達し必要(機能という形)という進化となる。行動(結果)を積み重ねている間は未来と虚空間を有し進化(今=無)には到達していない。考え(結果)を積み重ねている途中は今という未来と虚空間の内界にあり、そして考えていても何も起こらず思い(世界観=ひとつのものに完結)が更なる結果を生み出すもの。

1次元(すべての事象に共通する認識単位=円)

原理世界が相互作用(意識)を有し、生まれ出た結果(質量)という1次元(認識単位)とは。原理世界の一辺という10個の結果(質量)の総体であり認識形態は直線であるが発生形態は10個の他者(質量)どうしが相互作用を有する結果量の総体であり、存在形態はループ状に連続する円。 すべての事象に共通する認識単位。

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2次元(物質という概念に到達し、相反する、未来と虚空間に稼動する)

2次元とは物質という概念に到達した結果量の総体。しかし更なる未来と虚空間が稼動する以前であり立体が静止するという平面にとどまる(静止する物質という概念と、表裏一体にある、静止する未来と虚空間)。2次元とは原理世界の一辺(1次元)という10個の結果(質量)の総体が平面状に増幅した100個という結果(質量)の総体。認識形態は平面となり発生形態は1次元というループ状の円の総体から円錐の底辺に生まれ出る。1次元という10個の他者(質量)どうしが相互作用を有した結果量の総体が更なる100個の他者(質量)どうしの相互作用を有した結果量の総体となる。そして存在形態はループ状に連続する円が設定された角度に増幅した中空の球体。すべての宇宙に共通する物質という概念が生まれ出る。

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3次元(世界観=すべての結果量を得て、相反する、未来と虚空間という未結果量を失う=今)

3次元とは世界観(ひとつのもの)に完結すること。物質に到達した2次元面(静止する物質という概念と、表裏一体にある、静止する未来と虚空間)が更なる相互作用を有した結果量を積み重ねる。認識形態は正六面体であり発生形態は円錐の底辺に到達した螺旋状に連続する結果(質量)の総体という2次元面が、相反する、目的の始まり(円錐の頂点)に還ろうとし2次元面が連続するという結果量の総体。中空(2次元)の球体の内界に向かう更なる中空(2次元)の球体の連続であり存在形態は始まりも終わりもないというすべての結果量(質量)が相互作用を有した連続する一本という質量(結果)の総体。                                         今の宇宙に現れるすべての事象は、発生形態・存在形態・認識形態として現れてくる。遺伝子に現れる二重螺旋は発生形態であり、地球は有限という質量が到達した存在形態という球体であり、そして熱の源である光は、ひとつの原理世界の有する未結果の総量という体積(正六面体)の一辺(距離の総体=速さの総体=時間の総体)という認識形態。                                                                                 

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世界観1(今という自己の在る位置)

物質(命)は原理世界(今の世界観)の完結するまでの間(内界)に未来と虚空間を有し意識の連続に認識を積み重ねる。しかし更なる原理世界(次の世界観)に連続しようとする未来と虚空間を有さない。それは意識の連続が無いことであり生まれ出た物質は自身という外側を認識することはできない。そして生命(生物=未来と虚空間を有する物質=有機体)は今の宇宙を内界に有するという根源的な目的(概念量=未来=真の物量)と、表裏一体にある、存在(演算量=虚空間=真の物量)というすべての事象を生み出す原因(相反する真の物量=量子という形態)の生み出す結果の総量に到達しようという意識(重力)の連続上にあり意識は今だけにあるのではなく到達すべき結果の総体(すでにある結果=世界観)から、今という過去にある結果量を認識しにやってくる。だから生命は自身(内界)が積み重ねた結果という機能という形と、あらゆる生まれ出た結果という外界(環境)を到達するであろう世界観にある意識の総体で見ることができる。しかし仮に人間(生命)が到達すべき結果の総量に完結したならば更なる概念量(未来)と、表裏一体にある、更なる演算量(虚空間)を有さない生命に意識の連続はなく、物質(命)と同じとなり、いま在る自身という機能という形を見ることはできない。自身が今に存在しているというこを、今に存在している者は知ることができず、存在させているものしか分からない。                        道端に落ちている石ころも人間が作り出した機械でも、今に到達する以前には未来と虚空間に到達しようとした時空間が結果の総量に到達しようとする(生命の形態)がある。素粒子も原子も分子も物体という石ころも生物も自身が行かれた位置(立場)という世界観にある。石ころは素粒子が原子となり、そして分子となり、その相互作用を有するという物体になる、しかし、それ以上の世界観には生まれ出ず同じ世界観のみで稼動する(2次元面の平行移動)。人間が作り出した機械は更なる世界観という機能という形を有する(2次元面の積み重ね=相互作用を有する)。しかし機械も、その世界観の外界には生まれ出ることはできず同じ世界観のみで稼動する。機械という立場にあるお掃除ロボットが生まれ出るためには人間が掃除という必要(原因)を有し、そして掃除をしたことを認識するという外界(世界観=立場)がある。しかし掃除をしたロボット自身(内界=世界観=立場)は自身が掃除をしたということを知らず、そして掃除をしたという姿も見ることはできない。それは、いま在る世界観(立場)のみに完結する生命という形態であり生物のように到達した未来(世界観=外界)から過去(世界観=内界)にある結果を認識するものではないから。                                         

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 世界観2(3次元の総体=変化しないものに生まれ出る )

10X10X10=1000(一番小さな原理世界と仮定=真にひとつのものは稼動しない)。10X10X10という目的(概念量=真の物量=未来)と、表裏一体にある、10X10X10という存在(演算量=真の物量=虚空間)という相反する真の物量が相互作用(意識=重力)を有して得た結果量(質量)も10X10X10という世界観(3次元の総体=進化)に生まれ出るもの。1000という体積(3次元)にある数量が生み出すあらゆる可能性という結果の総体(世界観=同時=ひとつのもの)、その同時が更なる1000という体積(3次元)となり生まれ出る、あらゆる可能性という結果量の連続の積み重ねの世界。                                                          世界観(同時=ひとつのもの)には、その内界に結果の総体(時空間の総量)がある。そして今の世界観(同時)の内界には前の世界観(同時)があり、今の世界観(同時)は更なる世界観(同時)の内界にある。0(無)から始まり1〜9まで到達し、今の世界のすべてという1に到達し、0(無=認識)に還る。それが10(世界観)であり、そしてさらなる世界観に向かい前の世界の総体という1に今の世界の1に到達し11となる。その連続の積み重ねであり、今という結果の連続の積み重ねの間には得た結果を認識するという無がある。最も単純なしくみで稼動し最も矛盾の無い結果を積み重ねる原理世界はすべて10進法により完結(無=認識)する連続の積み重ね。        今の宇宙が世界観に完結し更なる宇宙(世界観)に粒子として生まれ出るとは。更なる大きな結果量を有する宇宙に認識されることであり、今の宇宙にある質量と空間の膨張量はそのままであり、しかし大きな世界から見れば粒子となること。今の宇宙に生まれ出た粒子は前の宇宙(世界観)という小さな結果量を有するものかもしれない、しかし、すべての宇宙は生命という形態上にあり前の宇宙にも生命(生物)は存在したのかもしれない。                                          結果の総体(世界観=3次元)の内界に掛け算と割り算がある。あらゆる生命が行動(結果量を積み重ねる)することは、加算(2次元面の平行移動)であるが、同時に積み重ねられた立体軸の総量(3次元)に到達した時、今という世界観(進化=新たな機能という形)に生まれ出る(完結=ひとつのもの=変わらない=強い力)。       強い力とは、仮に100人の人間が二人一組で手をつなぎ円(世界観)をつくり、更なる円(世界観)を作るとする。円という世界観に在るものは円を解体または変形できるが円を構成する二人一組という前の世界観に入ることは出来ず分解も出来ない、それは自身という円を構成する前提の世界だから。強い力は到達した世界観の内界でしか作用せず、そして前提という二人を引き離そうとすればするほど強い力で対抗する。          

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世界観3(同時の内界には時空間が稼動している)

前の宇宙に完結した世界観は今の宇宙の前提(光の単位)として生まれ出る。そして今の宇宙という更なる原理世界(未来と虚空間=原因と同時にある結果=量子という形態)の内界にあり、光の単位(同時)の内界にある時空間が稼動し、得た結果量(素粒子=認識単位)は、更なる世界観(物質という概念)という時空間に稼動し元素となる、そして更なる世界観(今の宇宙の到達すべき結果の総量)に向かい分子となり物体の集約と拡散を積み重ねる。                                 素粒子(1次元=認識単位)という結果(ひとつのもの=同時)の内界には未結果量の総体(量子という形態)が稼動(時空間)している。元素(2次元=物質という概念)という結果(ひとつのもの=同時)の内界にも未結果量(量子という形態)が稼動(時空間)している。そして物体の集約と拡散という今の宇宙の活動とは結果(3次元=今の宇宙の完結=ひとつのもの=同時)の内界にある未結果量の総体(量子という形態)に稼動(時空間)していること。宇宙とは1次元(認識単位=同時)と2次元(物質という概念=同時)及び今の宇宙の完結(同時)という3つの世界観が同時に稼動(時空間)する総体。

世界観4(物質の活動=得た結果量は、更なる物質=世界観と同時にある)

物質をあるものの前提とすれば質量が生み出す重力により宇宙の活動があるとなる。では、その質量はどこから来たのか。真空から物質が生まれ出るとすれば、そこには量子の形態(未来と虚空間=原因と結果が同時にある)がある。量子の形態を前提とすれば結果の総量に到達しようとする重力(意識)が前提であり、物質宇宙の活動という物理的な力の世界とは重力により物質が生まれ出ること。                                                                  前の宇宙に完結し今の宇宙に生まれ出た素粒子(1次元=認識単位)が原子(2次元=物質という概念)となり物体の集約と拡散の総量という3次元(今の宇宙の結果の総体=世界観)に到達しようとしている。素粒子(世界観)の活動した結果量は素粒子の活動する時空間にはなく、更なる世界観という原子としてある。そして原子の活動した結果量は原子の活動する時空間にはなく更なる世界観という分子としてある。そして分子の総量(3次元=今の宇宙の到達すべき世界観)に到達するために物体の集約と拡散という時空間に稼動する。                                                                                    あらゆる事象には表裏一体に結果量がある、そして結果の総量(3次元=世界観=進化)に到達する連続の積み重ね。物質が移動するとは2次元面(物質という概念)の平面軸稼動の連続の積み重ねであり、物質が変化するとは2次元面(物質という概念)の立体軸稼動という3次元(世界観)の到達しようとする時空間にある。すべては生命の形態(結果の総量に到達する)にある、素粒子も原子も分子も生命という形態であり、そして有機体となり生物(さらなる生命の形態)となった。そして今ある生物は更なる生物(生命の形態)の途中に在るものなのかもしれない。                                                                   今ある世界観に存在(意識)するものは、その活動を物理的な力(時空間)によるものと認識し、そして更なる世界観に存在(意識)するものからすれば量子の形態(同時)と認識する。エンジンのピストン(世界観)は上限運動を繰り返すのみ、しかし生まれ出た結果量はエンジンの機能という更なる世界観に生まれ出て、到達すべき世界観(自動車)の生み出す機能の一部となる。そして自動車(世界観=同時)は更なる時空間に走行する連続の積み重ねとなる。

宇宙は9次元(得た結果量=質量)+1次元(失う未結果量=時間・重力・意識)=10次元で完結する

宇宙は10次元で完結する。その内界は3次元の総体(世界観)の積み重ねでもある。仮に原理世界(得るであろう結果の総量)を一辺が10という正六面体という1000の結果量の世界とする。1次元(認識単位=原理世界の一辺という10の相互作用を有する結果量=線)。2次元(物質という概念に到達する=原理世界の一辺X一辺=100の相互作用を有する結果量=面)。そして相反する、残りの900という未結果量(未来と虚空間)と表裏一体にあり静止する立体という世界。そして3次元に到達しようとし2次元面(静止する立体)が更なる未来と虚空間の生み出す結果量(質量)を積み重ねる連続(時空間)。そして3次元(世界観に到達する=原理世界の一辺X一辺X一辺)=1000の相互作用を有する結果量=体積)。すべての事象は同じ原理上にあり粒子も原子も分子も、そして物体の集約と拡散という時空間もすべては3段階に変化=世界観=進化)する連続の積み重ね。                                                                                今の宇宙にある粒子=1次元は認識単位(1次元〜3次元=3次元の総体)であり核の総量に到達しようとし、原子=2次元は物質という概念に到達する(4次元〜6次元=3次元の総体)であり、元素の総量に到達しようとする、そして分子=3次元という世界観に到達しようとする(7次元〜9次元=3次元の総体)という原子の外界に稼動する時空間となり物体の集約と拡散という結果量に生まれ出る連続の積み重ね。そして9次元の総体を稼動する10次元目とは時間であり、時間とは思い(得ている答えに到達する=意識の連続に結果を認識する=相互作用を有して結果を得る=重力)であり、未結果量の総体(未来と虚空間)は膨張宇宙空間の外界(宇宙の果ての先)にあり、そして結果(認識)に到達する以前であり均等にある質量以前(相反する真の物量=すべての事象にある原因)という量子といわれる形態にある。そして今の宇宙にある9次元の総体を稼動し未来と虚空間という自身を失い、今の宇宙のすべての結果の総体というひとつ(1)を得て無(0)という認識に到達し10となる。

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時空間(結果=世界観=ひとつのもの=同時は、更なる世界観=同時=ひとつのものの内界で稼動する)

べては原因と結果が同時にあるという内界で時空間が稼動する。時空間とは光の単位(相反する不変の距離に同時に到達する=原因=相反する未結果量の総体)がすでにあり、相反する、結果の総体に到達するために、原因と結果が同時にあるという内界に得た増幅する結果量と、相反する、減少する失う未結果量の連続の積み重ねの総体。原因とは目的(概念量=未来)と、表裏一体にある、演算量(存在=虚空間)という量子の形態であり、それは光の単位(世界観)だけではなく原子・分子・物体・生物・その他のあらゆる事象という結果(ひとつのもの=世界観)に共通するもの。世界観(同時=ひとつのもの)は静止せず、あらゆる内界に連続する世界観にある時空間、そしてあらゆる外界に連続する世界観にある時空間は稼動している。原因(未結果量の総体)は、相反して同時にある、結果の総量に到達しようとし、あらゆる可能性に生まれ出ようとし、得るであろう結果の総量という中で得た結果の総体となる。                                                        すべては3次元(世界観=同時)に到達しようとするものであり、1次元(認識単位)が2次元(物質という概念)となり、その物質という概念(2次元=静止する立体=面)の連続の積み重ねにより3次元〈世界観〉に到達する。今の宇宙も3次元(世界観)の到達しようとするものであり、到達するための始まりという1次元(認識単位)は光の単位(相反する不変の距離に同時に到達する)であり、その光の単位とは素粒子に到達しようとする量子の形態にあり今の物質宇宙を作り出す前提となる。素粒子(1次元=認識単位)は単体で完結するものではなく3次元の総体としてあり無数の素粒子(原理世界)の相互作用を有する結果の総体に向かい、あらゆる可能性の中で原子核の総量になろうとして稼動している。次に物質の始まり(2次元=物質という概念)となり、無数の原子が結果の総体に向かい、あらゆる可能性の中で分子の総量になろうとして稼動している。物質という概念(2次元=面=静止する立体)の連続の積み重ねが3次元(世界観=ひとつのもの)に到達するとは、あらゆる可能性の中で物質が集約と拡散の連続を積み重ねるという宇宙の活動であり原因と同時にある結果の総体の内界で無数の原理世界があらゆる可能性の中で相互作用を有し結果の総量に到達しようとする時空間に稼動している途中。                                                                                 生命が活動することは、その内界に物質が活動していることであり、物質が活動することはその内界に素粒子が活動していることであり。あらゆる世界観が原因と結果という同時の内界にある時空間に稼動している。ひとつの素粒子(光の単位)は自身という世界観にある時空間に稼動し、しかし宇宙という時空間の内界(結果量)に稼動している。原子(物質という概念)も自身という世界観にある時空間に稼動し、しかし宇宙(世界観)という時空間の内界(結果量)に稼動している。そして今の宇宙も更なる世界観(次の宇宙)という時空間(未来と虚空間=量子という形態)の内界で稼動している。                                                  地球上の生物(生命という概念=2次元)の総量は同時にあり、しかし静止せずあらゆる可能性に生まれ出ようとし未来と虚空間が生み出すであろう結果の総量に到達するために更なる生命活動の連続を積み重ねという時空間にある。

素粒子に到達し原子核に生まれ出ようとする(1次元〜3次元の総体=物質宇宙が稼動するための認識単位)=今の宇宙にある1次元

素粒子は前の宇宙に完結し今の宇宙の始まりに光の単位(世界観=同時=ひとつのもの=すべての事象の前提)として生まれ出て、その同時の内界にある時空間(量子という形態)にある。そして今の宇宙にあるすべての物質の根源という認識単位に到達しようとする。                                           すべては3次元の総体(世界観=ひとつのもの)に到達(完結)しようとする。素粒子も、1次元(認識単位)・2次元(物質という概念に到達する)・3次元(世界観に到達する)という3段階をへて素粒子という世界観として完結する。                                                                      無数の素粒子は更なる世界観(原子)という原理世界(未来と虚空間=量子という形態)に稼動し、あらゆる結果に生まれ出る可能性の中で相互作用を有し、生まれ出るであろう結果の総体(同時)の内界で結果の始めから結果の総量に向かう時空間にあり、原因と結果がが同時にあり、変化しない世界で変化する結果量を積み重ね、更なる世界観という原子核に到達しようとする。                                                                              素粒子と反素粒子が衝突すれば光を放ち消滅するらしい。それは光の単位(相反する不変の距離に同時に到達する)という原理世界(物質は発生から終わりまで)という、あらゆる事象(結果)の原因(未来と虚空間=真の物量=生まれ出るであろう答え=質量以前=量子という形態)に還ったこと。人間(自身)と、相反する、人間(他者)という二人が相互作用を有し、生れ出たひとつの結果とは、相反する両者がそれぞれ得たという二つ結果。そして他者と相互作用を有する以前に自身が相反する結果を内界に有していなければ自身さえも稼動しない。                                                                             いま在る細胞は死に到達し新たな細胞が生まれ出て生命の機能という形(生物たち)が維持される。死に到達した細胞は答え(存在理由)を失い均等に帰ろうとする(腐り土に還る)。今の宇宙も結果の総量に到達した相反する結果(相反する粒子=相反して認識される)は更なる宇宙に生まれ出て、今ある宇宙は死に到達し、均等(始まり)に還る。そして更なる宇宙に生まれ出たという相反する粒子(過去の宇宙の結果の総体)とは二重螺旋状に続く遺伝子(前提=認識単位)となる。今の宇宙にある意識は生物の細胞にある遺伝子を見ることができ、そして更なる宇宙にある意識に遺伝子(生物の設計図=積み重ねた結果の記録)の一部として見られているのかもしれない。

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原子に到達し分子に生まれ出ようとする(素粒子を内界に有するする更なる世界観4次元〜6次元の総体=物質という概念に到達する)=今の宇宙にある2次元

今の宇宙に生まれ出た素粒子(1次元=認識単位)は、更なる世界観という原子(2次元=物質という概念に到達する)となる。原子核の中は素粒子(光の単位=1次元〜3次元の総体)が集約(同時)し、原子という世界観にある時空間〈未来と虚空間=量子という形態)に稼動している。色の3原色のように、あらゆる色を生み出すものは相反するものだけでは稼動せず、中間(均等)という結果の総量に向かおうとする意識(重力)が必要。前の世界観に完結した素粒子が今の宇宙で原子核となり、更なる世界観に生まれ出た原子には目的量(概念量=未来)に到達するための演算量(虚空間=量子の形態)を外界に有し、到達すべき答えに連続する意識(重力)に結果しようとする。原子核は更なる目的(概念量=未来)と相互作用(意識)を有さない限り未結果量の総体という量子の形態(虚空間)を外界に有し、更なる目的(概念量)と相互作用(観測)し、得た結果量を電子として認識しされる。生命(未来と虚空間を有する物質=有機体)は今の宇宙の核のひとつであり更なる時空間(量子の形態)に向かい結果を生み出そうとする、それは原子が更なる世界観(分子)に生まれ出るために、その内界にある原子核(素粒子)も稼動していることになる。                   原子核は三つの素粒子で一組という答えを生み出し、あらゆる三つが相互作用を有し、生まれ出た答えが更なる答えに到達しようとするピラミッドの形態を有する。そして元素の内界にある陽子・中性子が増えれば電子の数も増え、その電子とは量子の形態(演算量=虚空間)であり、更なる概念量(目的=未来)という原子の外側の世界観に結果(対応)する答えを有している。                                                                                   すべては3次元の総体(世界観=ひとつのもの)に到達(完結)しようとする。原子も、1次元(認識単位)・2次元(物質という概念)・3次元(世界観に到達する)という3段階をへて原子という世界観として完結する。                                                                                無数の原子は更なる世界観(分子)という原理世界(未来と虚空間=量子という形態)に稼動し、あらゆる結果に生まれ出る可能性の中で相互作用を有し、生まれ出るであろう結果の総体(同時)の内界で結果の始めから結果の総量に向かう時空間にあり、原因と結果がが同時にあり、変化しない世界で変化する結果量を積み重ね、更なる世界観という分子に到達しようとする。                                                                                                     

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分子=物体の集約と拡散の総量に到達しようとする(素粒子と原子という2つの世界観を内界に有する、更なる世界観に向かう7次元〜9次元の総体)=時空間

すべての可能性の中で結果の総量に到達する。素粒子の総量(1次元=認識単位)が原子(2次元=物質という概念に到達する)の総量となり、分子(3次元=世界観に到達しようとする=今の宇宙の完結)の総量に向かい物体の集約と拡散を積み重ねる。素粒子(1次元〜3次元=3次元の総体)が原子という世界観の内界に稼動し、原子(4次元〜6次元=3次元の総体)は分子という世界観の内界に稼動し、分子は今の宇宙という世界観の内界に稼動し物理的な力という意識(重力)に集約と拡散を積み重ねる宇宙の活動(7次元〜9次元=3次元の総体)にある。                                                     すべては3次元の総体(世界観=ひとつのもの)に到達(完結)しようとする。分子も、1次元(認識単位)・2次元(物質という概念)・3次元(世界観に到達する)という3段階をへて分子という世界観として完結する。                                                                          無数の分子は更なる世界観(今の宇宙の完結)という原理世界(未来と虚空間=量子という形態)に稼動し、あらゆる結果に生まれ出る可能性の中で相互作用を有し、生まれ出るであろう結果の総体(同時)の内界で結果の始めから結果の総量に向かう時空間にあり、原因と結果がが同時にあり、変化しない世界で変化する結果量を積み重ね、べての物質の集約と拡散の総量という今の宇宙の完結(世界観)に到達しようとする。        

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10次元に到達する(10次元目=失う未結果量=時間=ゼロに到達する)

3次元+時間=時空間ということらしい、他にも今の宇宙はもっと多くの次元で出来ているという記述もある。物質発生という次元と、時間という次元が同じ次元という表現でいいのか分からないが今の宇宙は素粒子(1次元=認識単位)から原子(2次元=物質に到達する)そして物体(3次元=世界観=進化到達しようとする)にあり、すべてが同時に稼動しているとすれば今の宇宙には素粒子と原子と物体に共通する時間があり、それは一番小さな素粒子という世界観にある光の単位(同時)という時間が前提となる。同じ時間という単位であるが次元(世界観)により未結果量(量子という形態の量)が違うということになる。すべての次元が稼動するためには到達すべき結果量(量子の形態)がなければならず10進法で完結することを前提とすれば、10次元目とは時間であり、時間とは思い(得ている答えに到達する=意識の連続に結果を認識する=相互作用を有して結果を得る=重力)。                                                                             増幅する得た結果量を質量として認識し自身を感じない(静止する=均等=同時)と、相反して、減少する得ていない未結果量(未来と虚空間=相反する真の物量=虚時間)を認識できず外界に感じる(静止する=均等=同時)。未結果量の総体(未来と虚空間)は今の膨張宇宙空間の外界にあり、そして結果(認識)に到達する以前であり均等にある質量以前(相反する真の物量)という量子といわれる形態にある。そして今の宇宙にある9次元を稼動し未来と虚空間という自身(在るもの)を失い、今の宇宙のすべての結果というひとつ(1)を得て無(0)という認識(無いもの)に到達し10となる。

[計算世界]

物質として存在するものには形がある。今という世界観(時空間)を更なる世界観にある意識が認識し、ひとつのものとする。だからあらゆる存在するものには、すべての端が同時にある。距離の総体・速さの総体・時間の総体が同時にあり、そして同じもの。その同時(世界観)という内界を移動しようとするから、そこに速さとj時間という概念(時空間)が生まれ出る。そして存在するものの内界にある原因と、同時にある、結果=量子という形態は生まれ出るであろうすべての結果が相互作用を有する総体。そこに端と端は同時になく、直線(1次元=ループ状の円)が中空の球体(2次元=ループ状の円が角度に増幅する)となり、内界に連続する球体(3次元に到達しようとする=内界にある虚空間を失う)という球体。今という世界観(時空間)に存在するものは自身という形(同時)を見ることができず、外界にある意識の内界に認識(同=ひとつものも)される。見て触れるものも、見ることも触ることもできないものも、存在する形態があり、そして、すべては相対性の中にあるもの。

虚空間(演算量)と、プログラム(更なるステージ)

目的(概念量=未来)は今の宇宙が到達すべき結果の総量に連続している。そして存在(演算量=虚空間)は得た概念が稼動するための演算量にある。すべては結果量の連続の積み重ね。しかしすべてがひとつの世界観の中で加算されるのであれば、すべてで距離の総体・速さの総体・時間の総体(同時)となり、そこに距離・速さ・時間という概念は生まれ出ない。すべてはひとつの原理に稼動するとは、すべてが3次元(世界観=プログラム)に到達し、更なる世界観(プログラム=ステージ)に生まれ出ようとする連続の積み重ねにある。

すべての結果量(質量)を物質として認識する(連続する意識上にある虚空の存在)

意識の連続は結果を質量として認識する。そして意識である人間は、あらゆる結果を物質(質量)とし存在するとしている。あらゆる物質は結果であり、表裏一体には、原因という量子の形態(目的と結果が同時にある=光の単位)があり、その内界にある時空間(j結果の総量に到達しようとする)とは重力(意識の連続)であり、物質には、表裏一体に、意識がある。物質は原理世界ごとに完結し、過去のページに消えて行き、継続して存在するものとは到達すべき世界観(3次元)連続する意識。あらゆる物質とされているものが、あらゆる事象という結果を起こすのではなく。あらゆる物質の生み出す事象以前には、目的(概念量=未来)と、表裏一体にある、存在(演算量=虚空間)という、相反する真の物量(原因=生まれ出るであろう答え=量子という形態)がある。                                                  得た結果量には認識できるものと、認識できないものがある。物質を存在するものとすれば意識は見ることも触ることもできず、意識を存在するものとすれば物質は結果の認識という虚空の存在となる。しかしどちらか片方のみでは成立せず、相反する両者で一対として在る。物質は意識に積み重ねられた結果量(世界観)に収束(得た結果量と同じ量の未来と虚空間を失う=得た空間という体積)する。そして認識を生み出した結果の量は膨張宇宙空間(均等)にあり見ることも触ることもできない。

世界観(今ある速さに到達し、更なる速さに遅くなる=大きな結果量の内界にある小さな結果量)

素粒子は単体(今の世界)に完結し光の速さに到達している。そして素粒子と素粒子が相互作用を有し今ある世界観に到達(同時)し、更なる世界観(時空間)の始まりに位置し、更なる目的(未来)と、表裏一体にある、更なる存在(虚空間)を得て遅くなる。その連続の積み重ねに生まれ出た物体が今の速さにある。そして生命も今ある速さに位置し、そして更なる速さ(進化)を得ようとしている。

ヒッグス粒子と言われるもの(物質を構成する素粒子以外は計算機能そのもの=物質という概念に到達するまでに稼動する)

素粒子(今ある世界観)が陽子(更なる世界観)に到達する。物質を前提とすればヒッグス粒子が物質を構成する素粒子に当り速さを遅れされ質量が生まれ出たとなる。しかし目的世界を前提とすれば物質を構成する素粒子が更なる世界に生まれ出るために素粒子どうしが相互作用を有し、更なる世界観の始めに位置し速さを失うこと。ヒッグス粒子とは、計算世界の有するプログラム(世界観=同時に到達する=認識)上にある機能そのものであり、機能(稼動)した結果量さえも物質として認識される。そして陽子が破壊されれば陽子に生まれ出ようとした計算世界が稼動した機能という結果は要らなくなる。陽子と陽子をぶつけると破壊され素粒子が飛び出す、そしていらなくなった機能という素粒子は光を放ち未結果量(未来と虚空間)という均等(光の単位=同時)に還る。計算世界には演算量という機能もあればプログラムという機能(ストーリー)も同時にある。

ニュートリノと言われるもの(物質を構成する素粒子以外は計算機能そのもの=物質という概念〈2次元〉が世界観〈3次元〉到達するために稼動する)

意識の連続に生物(結果量=質量=物質)として認識し、他の物体(結果量=質量=物質)を同じく存在するものとしている。物質を認識するためには意識の連続がなければばらず、しかし物質を認識するために意識があるのではなく、意識が積み重ねた結果量(質量)が物質であり、物質とは虚空の存在とも言える。単純計算でも演算でも結果に到達するためには他者という数字どうしが相互作用を有しなければならない、ニュートリノとはその相互作用という計算機能そのもの。物質という結果(質量)を生み出そうとする計算システムであり物質(質量)以前にあるニュートリノは物質とは別の世界観にある。結果(質量)どうしは物理的な力に相互作用を有し、計算機能は結果(質量=物質)以前であり、生まれ出た結果量(質量=物質)とは相互作用を有さない。そして地球やその他の物体という質量のあるものを通過する。そして光の単位という物質の始まりから物質の終わりまでの間という結果量(光の単位の内界に稼動する)を生み出そうとするニュートリノは光の速さを超えることはできない。           物体が重力という物理的な力で稼動する。その内界には原子があり、核の内界には素粒子がある。そして素粒子が稼動(時空間)しなければ物体は稼動しない。コンピューターのシュミレーションに表れる結果量には、その背景に計算機能がある。3+3=6と計算機に入力する。3とは物質を作り出す素粒子の質量であり + と=は結果を生み出そうとする機能という素粒子。その機能が稼動したという結果量を物質として認識することでありニュートリノはあらゆる生物と物体が稼動する機能(概念量と演算量を相互作用させるもの)。物質を構成する素粒子以外はニュートリノやヒッグス粒子なども含め計算機能上に在るもの。仮に重力作用を伝達する物質があるとすれば、それも結果量(計算機能量)を物質として認識(観測)していること。

相対性理論と量子理論は同じ理論(結果=質量と、未結果=質量以前は同じ原理上にあり世界観の違い)

一般相対性理論(重力理論)は質量が前提であり量子で素粒子を記述する体積をゼロにしなければならず、しかし質量があり密度は無限大にり一般相対性理論では説明できないらしい(素人には意味はよく分からない)。物事の考え方(道理を通す)で考えてみると。原理世界は目的(概念量=未来=真の物量の総体)と、表裏一体にある、存在(演算量=虚空間=真の物量の総体)という未結果量の総体(原因=量子の形態)が内界に得た結果量が増幅し、相反して、未結果量が減少することで稼動(時空間)する。素粒子(結果=質量の総体=同時=世界観)には結果の総量の到達しようとする素粒子以前にある演算量の総体(真の物量=量子の形態)がある。原子にも原子に完結するための量子という形態があり、そして今の宇宙も結果の総量完結しようとする量子の形態(未来と虚空間)上にある。一般相対性理論(重力理論)の扱う質量は光の単位(同時)の外側にあるという今の宇宙(世界観)にある量子の形態を外界に有し更なる結果量(未来と虚空間)に到達するための時空間にある。相反して、素粒子は前の宇宙に完結(同時=光の単位=今の宇宙にあるすべての事象の前提)し完結(同時)の内界に量子という形態を有し、今の宇宙にある世界観からすれば、もう結果の総量に到達している世界。すべては3次元で完結し世界観(進化)の到達する連続の積み重ねであり今ある宇宙にある時空間(世界観)は前の宇宙に完結している素粒子(結果量の総体=同時)には入り込めない、そして原子の外界という分子(物体)のある世界観(結果の総量に到達しようとする=時空間)は原子(結果量の総体=同時)には入り込めない。しかし今(物体=生命=世界観)に在るものは前の世界観を内界に有しその姿を見ることが出来る。変化する素粒子及び原子核の外界にある量子(演算量=虚空間)を観測することができ、相反して、今ある世界観の核(物体の総体)は未来と虚空間という量子の形態の内界にあり見ることも触ることも出来ず、しかし存在を感じる。違う世界観(3次元の総体=完結)に在るもの自己が存在する世界観で観測結果を捉えられず、そして今(世界観)に在るものは常に過去と未来の間にあるという相対性にある。量子論とは同時(世界観)の内界で起きていることを外界(世界観)の意識で認識(原因=と結果が同時にある=量子の形態)することであり、重力理論とは同時(世界観)の内界で起きていることは、今いる意識で認識する(過去と未来がある=時空間=結果の連続の積み重ね=重力)。しかし今ある世界観(質量=重力による宇宙の活動)は、更なる世界観(外界)からすれば量子の形態を有するものとなる。                                               一般相対性理論は質量を扱う理論であるが、その質量は更なる未来と虚空間という量子の形態の内界にある。原子核の外界にある量子は演算量(虚空間)であり、その虚空間は概念量(未来)により量が決定し、そして未来(概念量)は今の宇宙が結果の総量に到達しようとする量子の形態に連続している。生命という世界観にある意識が結果(質量)を認識する。しかし意識が認識する以前という未結果量は認識出来ず体積が無いと観測する、それはすべての結果を認識(質量)するという原理世界にある生命(結果)は、自己を生み出す原因(未来と虚空間=相反する真の物量)を見ることも触ることも出来ないこと。                                    生まれ出た物質(結果)も表れた現象(結果)も、あらゆる事象は粒子であり波でもある。人間の有する思いを量子の形態とすれば、更なる世界観という人口の分の量子が生み出す文明社会に得た結果量(過去)と、得ていない未結果量(未来)の間(歪)に経済社会という結果(波=現象)をもたらす。答え(結果の総量)の到達するまでは相互作用を有する粒子の総体であり答え(結果の総量)に到達し認識に収束する。人類に未来があれば粒子という人間の総体は進化の総量に到達しようとする虚空間(演算量)と同時(表裏一体)にあり人類に未来がなければ、表裏一体にある、虚空間もなくなり結果に収束し次の世界観の一部となるということなのかもしれない。

宇宙を稼動する原理が上記したようなものであるとすれば私たちが現実と思える、物質(結果の総体=質量の総体=同時=今=無)には、目的(概念量=真の物量=未来)と、表裏一体にある、存在(演算量=真の物量=虚空間)という原因(量子という形態=生まれ出るであろう答え)が結果(質量)以前にもうあったということになる。在った世界(未来と虚空間=相反する真の物量)の内界に、無いもの(結果量=質量=認識)として生まれ出て、在った世界(未来と虚空間=真の物量=原因)は無くなる。すべてがあることは、何もないことであり(終焉)、何もないことは、すべてが生まれ出ること(始まり)となるのかもしれない。

まことに単純な考え方であります、これより探求の項目に入ります。                                                                言葉は宇宙の発生と同じ理論を背景に持っている、専門知識もないので日常の言葉で現実に起きている物事を考えてみることにします。 

[宇宙]

すべての宇宙(世界観)を包括する根源的な原理世界は、すべてを有し何も生まれ出ていない。相反して同時にあるという、生まれ出るであろう結果の総量とは、もう確定されているもの。今の宇宙の始まりも、相反する、今の宇宙の終わりも何も変らないことであり時空間とは変らないものに到達しようとして変り続けている途中にある。

[前の宇宙]

性質(計算世界にある模様=世界観ごとに完結するを内界に有する)

前の宇宙に完結し今の宇宙の前提として生まれ出た光の単位(世界観=同時=ひとつのもの)は、その内界には量子という形態(素粒子に到達する=今の宇宙の認識単位))という時空間がある。そして素粒子はこれ以上分解できないものとされている。しかし真にひとつのものとすれば、そこに性質はなく、そして他者という素粒子と相互作用を有することもなく宇宙の活動もない。素粒子に性質があるのならば、その内界には素粒子(世界観=ひとつのもの)以前にある世界観(結果の総体)を内包している。素粒子(世界観=光の単位=同時の内界に稼動する時空間)に到達するためには、素粒子より以前という世界観にある粒子の総体が結果の総量に到達しようとする時空間がある。いくつもの世界観が内界に内包される連続の積み重ね。そして相反して今の宇宙も更なる世界観(同時=ひとつのもの)に内包される連続のひとつとしてある。コンピューターでひとつの単位(ひとつのもの)が他の単位(ひとつのもの)に影響を及ぼし、また他の単位(ひとつのもの)に影響を受ける結果を単位時間ごとに計算し、これを反復すると今までには無かった模様が表れるらしい。仮に根源的な宇宙の始まりに生まれ出た物質があるとすれば、それは真のひとつ。しかし、すべてが10進法に完結される連続の積み重ねという原理世界であり、真のひとつ(世界観)とは、その内界に10という認識量がある。そして無数の真のひとつ(世界観)どうしが相互作用を有し、更なる世界観(同時=ひとつのもの)に生まれ出る連続の積み重ね。どこまで積み重ねても同じことの繰り返しと思えるが、コンピュータで2次元的な計算結果においても、無かった新たな模様が現れ、そして原理世界に稼動する宇宙は、すべてが相反するもので一対という無数の単一模様の相互作用有する総体であり万華鏡のように更なる模様を生み出す。新たな模様の完結とは、ひとつの世界観に到達したことであり、更なる世界観には無数の新たなひとつ(模様=結果量の形態)に到達した粒子が相互作用する時空間に更なる新たな模様(世界観)を得る。その積み重ねにより根源的な宇宙の始まりにあった真にひとつのものという粒子は、その内界に性質(世界観ごとにある模様が相互作用した更なる模様)を内包した粒子(素粒子)となる。そして今の宇宙も更なる模様に生まれ出ようとし時空間に稼動している。前の世界観に完結した光の単位に生まれ出る素粒子は、今の宇宙のすべての前提であり、素粒子の外界(世界観)にあるという物理的な力では分解できない。

[宇宙の始まる前]

静止する相反する真の物量という均等の世界(原因=結果以前=質量と体積以前)

根源的な原理世界。目的(概念量=未来=真の物量=均等=結果以前=質量と体積はない)と、表裏一体にある、存在(演算量=虚空間=真の物量=均等=結果以前=質量と体積はない)というすべての宇宙に生まれ出る事象以前にある原因(量子という形態)が同時(一対)にある。その内界に宇宙(世界観)の連続の積み重ねという時空間がある。今の宇宙もその中のひとつであり、今の宇宙が稼動する前は今の宇宙が到達すべき世界観(結果量)という目的(概念量)と、表裏一体にある、存在(演算量=虚空間)という相反する真の物量が静止(同時=均等)するにある。そして前の宇宙に完結した世界観(素粒子=光の単位)が今の宇宙が稼動するための前提(遺伝子)という根源的な物質として生まれ出る。均等にあった目的(概念量)と、表裏一体にある、存在(演算量=虚空間)=今の宇宙を稼動する量子という形態は、生まれ出た素粒子が今の宇宙が到達すべき結果の総量に向かうために得た結果量(質量)と、相反する、残りの失う未結果量(相反する真の物量=原因)という相反する結果の増減という(時空間=歪=意識=重力)を得ることで今の宇宙が始まる。

[宇宙の始まり]

物質宇宙になる前(素粒子の総体に到達する)

今の宇宙にある根源的な物質(素粒子=すべての事象の認識単位)の完結に到達しようとする。前の宇宙(世界観)に完結して、しかし今の宇宙に生まれ出ようとする素粒子は3次元(世界観=同時=光の単位)に到達する以前にある。初めに素粒子(3次元の総体)の内界にある1次元(認識単位)という結果量に到達する。得た結果量は1段階目の粒子(認識=質量)となり、同時に結果の量という空間の膨張(認識できない=虚質量)として表裏一体にある。次に2次元(物質という概念に到達する)という結果量に到達し、得た結果量は2段階目の素粒子(認識=質量)となり、同時に結果の量という空間の膨張(認識できない=虚質量)として表裏一体にある。それは今の宇宙にある最小単位という素粒子の数と同じ数の残りの虚空間(未結果量)の集積体が同時(一対)に位置している(2次元面=静止する立体)こと。そして無数の残りの未結果量(未来と虚空間)が相互作用を有し更なる結果量(質量)の連続の積み重ね(時空間)に到達し素粒子(世界観=3次元の総体=光の単位=同時)の完結となる。結果量を認識(質量)し、相反して同時にある、結果の量を認識できない(虚質量)という膨張宇宙空間も同時に完結する。しかし素粒子が完結する以前は原理世界が確定していない時間にあり、その確定していない時間を観測できるとしたら生命の感じる一番短い時間(原理世界の完結=同時=光の単位)以前にある時間となる。そして、すべての素粒子が生まれ出るまでの結果量の加算という空間の始まりの1点(結果量)から、素粒子のすべての数が完結するまでの結果の総量に到達するという爆発的な宇宙空間の膨張に光の速さは関係しない。均等に配置された静止する素粒子(質量)と、表裏一体にある、残りの未結果量(未来と虚空間=相反する真の物量=質量以前=量子の形態)の集積体(静止する立体)という今の宇宙が稼動するための原理世界の一ページ目の設定完了。

物質宇宙の始まり(光の単位=素粒子の外界に稼動する時空間)

無数の素粒子が、表裏一体にある、同じ数の未来と虚空間(原理世界)に均等に配置されに静止する。素粒子(光の単位=同時=すべての事象の前提)は、今の宇宙にある更なる世界観(原子核=認識単位に到達しようとする)という原理世界の1ページ目の始まりに位置し、そして素粒子と同じ原理上で稼動し、更なる未来と虚空間が相互作用を有し新たな結果量の連続の積み重ねが書き加えられる。その時、初めて光の単位(同時)の外側にある結果の連続の積み重ねという時空間となる。        今の宇宙(時空間)は連続の積み重ねであり、1次元=素粒子(1次元〜3次元の総体=認識単位)から、2次元=元素(4次元〜6次元の総体=物質という概念)、そして3次元=分子(7次元〜9次元)となり、連続する意識(重力=相反するものが相互作用を有し中間=均等という、ひとつの結果を得る)に稼動し物体の集約と拡散という結果の連続を積み重ね3次元の総体(世界観)に到達しようとする(時空間)。                                                           一本の巻物を1次元とし、その中に宇宙のすべてが記されているとしたら、それを開いた時2次元となり、そして見ているものとは何かを知り続けることが3次元+意識(重力)というイメージ。

[宇宙の連続の積み重ね=時空間]

宇宙に中心はない(均等の宇宙)

静止する原理世界(概念の総体=真の物量=未来=均等と、表裏一体にある、演算の総体=真の物量=虚空間=均等)の集積体(均等)が相互作用(意識=重力)を有し、得た結果量の総体(均等)が増幅し、あったはずの概念の総体(均等)と、表裏一体にある、演算の総体(均等)が減少(均等)する。すべては相反するもので一対という中間(均等)に到達し完結する。しかし生まれ出た結果量(質量)は均等にあった物質(粒子)を均等に集約(蜂の巣状)し、物体と膨張する空間に分かれた。しかし宇宙空間の一部に物質が集約したとしても原理世界の相互作用を有する集積体というシステム上の結果量の積み重ねに変わりはない。今の宇宙にある原理世界という設定量は宇宙の発生の時に決まっており、すべてが均等に始まり、すべてが均等に終わるという膨張宇宙空間(結果の量=虚質量の総体)及び虚空間(演算量=真の物量の総体)に中心はない。

素粒子(質量=認識)と、相反する同じものという、膨張宇宙空間(虚質量=認識できない)

物質は結果量の認識(質量=概念=世界観に収束=粒子)であり、相反する、認識できないという宇宙空間の膨張は結果の量(虚質量=概念を生み出すもの=反素粒子=量という均等)としてある。今の宇宙の始まりに素粒子が生まれ出る。しかし素粒子は光の単位(同時)という原子より外側にある世界観を作り出す前提であり、生命は同時(光の単位)の内界にある時間を感じることはできず、その時間の総体を一番短い時間(単位)として認識するもの。素粒子は光の単位(同時)の内界にある3次元の総体(世界観)に生まれ出ようとし、原理世界の完結する前は空間も距離も速さも時間も決定していない。そしてすべてがひとつ(結果=認識=世界観)に収束する以前には完結に到達しようとする素粒子と反素粒子も同時にある。そして原理世界が完結した時、素粒子(認識=質量)と、相反する、膨張空間(認識できない=認識の原因)という相反する認識となる。そして今の宇宙にあるすべての素粒子を生み出す結果の量(得た空間量)は光の単位(同時)の完結する以前であり、すべての素粒子が生まれ出るまでの宇宙空間の膨張の速さに光の速さは関係しない。

宇宙空間=結果の量は膨張しつづけ、相反する、虚空間=結果を生み出す原因は収縮しつづける(膨張の総量と、相反する、収縮の総量に生まれ出る)

原理世界が相互作用を有し得た結果(質量)を認識するという意識は得た結果の量(虚質量)の積み重ねを宇宙空間が膨張すると観測する。宇宙空間は膨張(結果量)すると同時に、相反して、宇宙空間になろうとする虚空間(宇宙の果ての先=虚空間=量こという形態)は収縮する。宇宙空間はひとつの真空で完結しているものではない。そして今の宇宙は物質(質量)の量により膨張し続けるか、または収縮に転ずるかではなく、目的(概念の総量)と、表裏一体にある、存在(演算の総量)が相互作用を有し、得た結果の総体となり次の宇宙(更なる世界観)という原理世界(未来と虚空間)の始まりに相反する粒子として認識(収束=収縮の総量)と、相反する、認識されない(均等=膨張の総量)をする。

膨張宇宙(加速する膨張距離と、相反して、減速する膨張体積)

それぞれの位置からどの方向を見ても銀河は遠ざかる、それも遠い銀河ほど速く遠ざかるらしい。虚空間(演算量)は概念量(未来)と相互作用を有する原理世界の集積体であり物質(質量)を維持するための結果量の連続の積み重ね。認識(質量=物質)を維持するために原理世界が新たに同じ結果量を必要とするのであれば、2回目の結果量に到達した時、得た結果の量(膨張空間)は2という空間量(虚質量)を有し、他者という膨張空間も2という空間量(虚質量)を有する。自身が新たに1距離を得たならば、ひとつ隣の他者は1という距離を押し出された上に新たな1という空間量を加える。そして二つ先の原理世界は2という空間量を押し出された上に新たな1という空間量を加える連続。それぞれが得た空間量は同じ量ではあるが遠い空間にある物質ほど移動する距離=速さは大きくなる。しかし加算の量は単に1辺という距離とだけ考えるのではなく体積(3次元)。始めに生れ出た結果量の総体を1(体積)とすれば、2回目に生まれ出た結果量の総体との合計(体積)は、1回目の2倍の膨張率になるが3回目に生まれ出た結果量の総体との合計(体積)は、2回目の合計体積の1.5倍の膨張率となる。新たな結果の量を得るほど宇宙空間の距離は加速度的に大きくなるが、空間の総体という体積の膨張する速度は緩やかなものとなる。

膨張宇宙は静止する(膨張宇宙に在る速さを有する物質は、静止する虚空間に在る)

原理世界(光の単位)は物質の始まりから終わりまでという結果の総量の世界。その総量の内界で得た結果量(質量)と、相反する、失う未結果量(残りの未来と虚空間)で一対(表裏一体)という原理世界の完結(原理世界の一ページ=同時=今)。未来と虚空間を有し、すべての結果を得ていない(均等=静止するもの=秩序)から、相反する同じ量という、すべての結果量を有し未来と虚空間を失う(均等=静止するもの=秩序)に到達する。そして相反する両極の間にあるという時空間(ひずみ=稼動するもの=無秩序)という得た結果量と、相反する、失う未結果量で一対という総量は変わらない。変化しないもの(設定量=未来と虚空間)が、相反する、変化しないもの(結果の総量)に到達しようとして、その間(内界)に変化する結果量の連続の積み重ね(時空間)。物質が静止していても、あらゆる速さを有していても設定(変化しない)された結果量という原理世界の内界で変化する得た結果量と、相反する、失う未結果量の増減で一対にあるもので物質を発生させる虚空間(尺度)は一定であり静止している。

同時がなければエネルギーは発生しない(静止し、質量を内界に収束(同時)し、相反して、速さを有し、質量の総体を外界に連続(同時)する)

未来と虚空間とはひとつの物質を発生させるための原理世界(相反する真の物量=原因=量子という形態)が相互作用を有する集積体であり今の宇宙に起きる、あらゆる事象は無数の原理世界が相互作用を有し得た結果の連続を積み重ねることがその根本。次の世界が無い世界、それは動かない世界であり、どんなに質量があり重力が働くと仮定しても動かない世界では何も引き付けることはできない、そして物理的な力の関係も働かない。エネルギーが無いことと同じであり次の世界に結果(質量)する連続の積み重ねの総体を同時に認識することがエネルギーとなって現れてくる。                                                      物質が静止することは質量の総量が収束し同時にありエネルギーは表れない、そして物資が速さを有するとは減少した質量が連続し同時にありエネルギーが表れる。質量があることはエネルギーが無く、質量が限りなく失うことにエネルギーが生まれ出る。すべて事象は原理世界(光の単位=同時)の内界に生まれ出た相反する結果量(完結)を同時に認識すること。                                                                                       原理世界には発生形態(相反する二重螺旋)と存在形態(到達することのない距離の総体=球体)と認識形態(正六面体)があるとしている。そして物質の移動する速さの総量とは認識形態という正六面体の一辺という距離(次元=光の単位=光速)。原理世界の生み出す結果量は3次元という総量。静止した物質は、1次元(質量の総体=光の単位=光速)X光の単位(2次元に到達する=物質という概念)という質量を内界に有し、相反して、光の単位(3次元=世界観に到達する)という虚空間(量子という形態)を外界に有している。そして物質が速さを有し光の速さ(光の単位)の到達することは、質量の総体の二乗X質量の総体というエネルギー(E=mc2)を発生する。質量の総体が収束(同時)にありエネルギーは無く、質量の総体が連続(同時)にありエネルギーが生まれ出る。そして質量とエネルギー量に変化は無く、同時の連続の積み重ねに変化する質量の連続があり、そして変化するエネルギーが生まれ出る。                                                          光という単位(世界観=素粒子)に到達し、すべての距離と速さと時間を有し同時(同じもの=ひとつ)にある。そして更なる世界観(原子核)という原理世界に生まれ出て、更なる未来量と虚空間量を得て速さを失う。そして原子(世界観)に到達(距離・速さ・時間=同時)し、更なる世界観(分子)という原理世界に生まれ出て、更なる未来量と虚空間量を得て速さを失う。そして原子の外側にある時空間に稼動する。大きな質量を有する静止する天体も更なる光の単位(速さ)に帰ろうとして、そして帰れず熱になる。物質とは今の原理世界の始めに静止し、光の単位(速さ)に到達し、今の原理世界に完結し、更なる原理世界(次の宇宙=世界観=進化)の初めに生れ出ようとするもの。

速さと時間(原理世界の設定量)

私たちの世界で一番短い時間の世界へ行けたと仮定して物事の考え方(道理)としても時間が一定のものでないのかを単純比較で考えてみる。私が質量の粒、一粒の大きさになったとする、そして原理世界で一番小さな質量の総体という器の中に、前後・左右・上下のすべての方向に均等な間隔に並んだ状態で詰め込まれているというイメージ。どこかの質量の一粒に私がいて他の質量の粒の一粒を伝わったとする。上下、左右、前後どちらでもかまわないが質量の粒と隣の質量の粒の距離を1とする。隣の質量の粒に移動するために、結果量(1という距離と1という速さと1という時間)を有することになる。仮に原理世界が質量の粒、五粒の距離と速さと時間を有していたとする。そして自身という質量が静止して物理的な力では一粒も移動をしないとすると、原理世界には自身という結果の一粒(質量)という距離の総体(速さと)と残りの未結果量という四粒(虚質量の総体)という虚距離(虚速さと虚時間)があり同時(表裏一体)に認識(物質)と認識できない(虚空間)される。(原理世界5- 自身という距離1=残りの時間の総体1)- 物質の得た距離0粒÷残りの原理世界の速さ4粒=1。速さを有さない物質が外界に感じる虚時間(残りの原理世界の未結果量)は減少しないことになる【図A】。                                                                                                    では質量の粒の二粒分の速さで移動したとする。五粒という原理世界の距離に自身という一粒(質量)を有し、残りの四粒分の虚距離の世界で物理的な力で二粒分の距離を移動をする。(原理世界5- 自身という距離1=残りの時間の総体1)- 物質の得た距離2粒÷残りの原理世界の速さ4粒=0.5。速さを有する物質が外界に感じる虚時間(残りの原理世界の未結果量は減少する)【図B】。                                                                        そして物質が残りの四粒の速さ(距離)を有したとすれば自身という距離(速さ)を含め原理世界と同じ五粒という速さを有することになり、(原理世界5- 自身という距離1=残りの時間の総量1)- 物質の得た距離4粒÷残りの原理世界の速さ4粒=0(速さを有する物質が外界に感じる虚時間(残りの原理世界の未結果量)は無くなり。前方には虚距離も、虚速さも、虚時間も無くなる【図C】。                                                                            上記は単純な比較であり、目的(概念量=未来)と、表裏一体にある、存在(演算量=虚空間)は、体積(3次元)にある相反する虚質量の総量が相互作用を有するという加速度的な結果量に増幅する。ひとつの原理世界を体積(3次元=正六面体)として、その一辺を光の単位(虚質量の総体)とすると仮に光の速さの半分に到達したとしても時間は半分にはならない。速さ(結果の総体=質量の総体=距離の総体=同時)を得れば、概念量(未来)と、表裏一体にある、演算量(虚空間)という、相反する真の物量の総体(未結果量の総体=虚質量の総体=同時=得ていない虚時間)は加速度的に小さくなる。目的と、表裏一体にある、存在で一対の世界として考えたとしても時間は一定のものではないと言えそう。 

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角度(原理世界は斜めはない)

あらゆるものが、あらゆる方向に進むことができる。では斜めに移動するとはどういうことなのか。仮に原理世界が質量の粒、二粒分の距離と速さという結果量(質量)を生み出せると仮定する。そして一粒分先の結果量の粒の、横一粒分の結果量の粒に移動したとする。すると、どの方向に向かっても45°という方向にしか進めない。それは原理世界の生み出す結果量の粒を、二粒分の大きさと仮定しているから。物質のすべては移動し距離(速さ)を有している、地球も移動し人間も移動している。すべてが高速で次のページ(原理世界)に結果している。仮に結果量の粒、三粒分の距離(速さ)を原理世界が生み出せると仮定すれば、二粒分先の結果量の粒の、横二粒分の結果量の粒の位置と、二粒分先の結果量の粒の横一粒分の結果量の粒に結果できるようになる。原理世界に角度が増えた。そして原理世界の目的(概念量=真の物量=未来)と、表裏一体にある、存在(演算量=真の物量=虚空間)の数が多ければ多いほど生まれ出る結果位置という角度は無限に小さなものになっていく【図A】【図B】【図C】。                                                                                                     私たちの世界では無数の生物や物体があらゆる方向に進んでいる。そして、その最短の距離は直線。原理世界が結果の総量に到達するために稼動するとすれば、やはり直線の組み合わせとなるだろう。仮に、一人の人間が前方に進み、もう一人の人間が45度の角度に進んだとしたら。当人同士で見れば、どちらも人間も前方に進み、また他者は45度の方向に進んだことになる。そして両者は同じ速さを有して違う方向に進み、同じ速さ(質量=距離)の分だけ虚空間(真の物量=虚距離=虚時間)も小さくなる。違う方向に進んでも共に前方に直進するということは、どちらも斜めには向かっていない。とすると原理世界には角度はあっても斜めという考えはないということになる。では、なぜあらゆる物質が、あらゆる角度(斜め)に進めるのか。ひとつの理論の総体の内界で無数の原理世界が到達すべき結果量に向かい稼動する。到達すべきある点とは直線と角度の組み合わせにより結果する。

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光に速さはない(光の単位=距離・速さ・時間が同時にある、そして同時の連続の積み重ね)

光速度不変とは光の速さが不変にあることではなく、相反する不変の距離に同時に到達しているという今の宇宙を作り出しす前提(単位)。その単位(未結果の総量=同時)の内界に得た結果量の総量に到達しようとする時空間がある。光は速さを有して宇宙空間を進むのではなく、ひとつの物質の発生という光の単位(原理世界)が得た結果の総量に到達していない未結果量の総体(静止する未来と虚空間)という虚距離の総体(虚速さの総体=虚時間の総体=同時)が原理世界の完結ごとの連続の積み重ねに速さを有していると思えるもの。光速度不変とは光の速さが不変にあることではなく、相反する不変の距離という光の単位(物質の始まりから終わりまで=量子という形態=時空間)に同時にあることが前提。光は原理世界が今は得ていない未結果量(正六面体)の一辺(虚距離の総体=虚速さの総体=虚時間の総体=同時)を有している。そして目的(概念量=真の物量)と、表裏一体にある、存在(演算量=真の物量=原因=量子という形態)を相互作用させ結果の総量に到達させるためのものさしのようなもの。                                                                                                今の宇宙のすべての在るものは素粒子(光の単位)が前提にあり、そしてあらゆる事象は同時の連続の積み重ねにより稼動していると思えるもの。

光の速さが変わらない理由1(未結果量の中に結果が入り込む)

光の単位(虚距離の総体=虚速さの総体=虚時間の総体=すべてが同時にある同じもの=原理世界という正六面体の一辺)。原理世界は得た結果量と、相反する、得ていない未結果量を原理世界の一ページ(同時=表裏一体)に記録する。すべてのものに速さは無く距離の総体という同時の連続の積み重ねにより速さを有すると思えるものであり、光も速さを有さず距離の総体(同時)の連続の積み重ねに速さがある。                                                      単純比較で仮に原理世界が質量の粒、10粒分の距離の総体=速さ=時間を有しているとする。そして宇宙ロケットが物理的な力で質量の粒、4.5粒分の速さ(距離の総体)を有したとする。10粒という虚質量の総体(原理世界の距離の総体=同時=速さ)の内界に生まれ出た静止する物質(質量の1粒=距離=同時=速さ)を有し、さらに4.5粒の速さ(質量の総体=距離の総体=同時=速さ)を有している。相反して原理世界に4.5粒分の虚質量(虚距離の総体=同時=虚速さ)が残り、得た5.5粒分の速さ(距離の総体)と合計して原理世界の10粒という結果の総体(得た結果と、相反する、得なかった結果)を渡ることになる。それは1粒の速さを得た存在も、4.5粒の速さを得た存在も、10粒の速さを得た存在も同時に原理世界の一ページという得た結果量(認識)と得なかった未結果量(認識できない=感じる)で一対という総量に到達して完結となるから。                                                                                                静止する物質と、あらゆる速さを有する物質から発せられた光も、すべては相反する結果の総体で一対という不変の距離に同時に到達する。(原理世界10- 質量1=残りの原理世界の総体1)-物質の得た距離(速さ)0.45粒÷残りの原理世界の距離(速さ)0.9粒=0.5(速さを有する物質が感じる残りの原理世界の虚距離の総体=同時=時間)。速さを有した質量(物質)は半分の大きさになり残りの原理世界も半分の虚距離の総体(虚速さ)の大きさになりすべてが半分になった世界では時間も光の速さも半分に小さくなっている。しかし結果を認識(物質)する意識は小さくなった時間と同時に小さくなった光の速さ(未来と虚空間)を見ている、そして光の速さは変わらないと感じる。そして物体が静止(物理的な力の移動をしない=得た質量1)して残りの原理世界の虚距離(速さ)9粒にいる意識からみると、4.5粒の速さを有した宇宙ロケットから発せられた光は、9粒の速さで残りの4.5粒の距離を伝わることになる。共に原理世界という一ページで得た結果量と、相反する、得ていない未結果量で一対という総量を渡る。光の単位という原理世界の一ページ(同時)という距離の総体の中で物理的な力の速さ(結果量=質量の総体=同時=速さ=時間)を得たものと、表裏一体にある、残りの原理世界の距離(未結果量=真の物量の総体=同時=速さ=時間))が変化(増減)するだけ【図A】【図B】。                               上記の計算は単純な距離の増減。私たちの感じる距離は、概念量と、表裏一体にある、演算量という虚質量の総体が相互作用を有した結果の総量という体積(3次元)。仮に原理世界の一辺を10粒の質量の総体(距離)とすると、10粒という質量が相互作用を有する総体。認識単位(1次元=円)となり、次に10粒の質量の総体が10列に増幅する、物質に到達した百粒の質量の総体(2次元面=中空の球体)となり、そして100粒の物量がさらに10列に増幅する。そして1000粒の質量の総体(3次元=内界に連続する中空の球体)となり、内界にある質量のすべてが相互作用を有した結果量に生まれ出ようとする。1000粒という質量の相互作用を有するものに向かう結果量は加速度的に増幅する、光の速さの半分という距離に到達しても時間(空間)は半分にはならず光の速さに到達する寸前に加速度的に時間(空間)は小さくなっていく。速さを有する物質と虚空間と光の速さの関係が足し算・引き算・掛け算・割り算で計算できるのか。難しい公式のようなものがいっぱいある、しかしその公式とは加算と減算と、その向かう角度が根源の姿。加算の総体(世界観)の内界に掛け算と割り算がある、そして角度が加わり公式となる。今の宇宙を作り出す根源の世界にまで入り込んだとすれば、そこには積み重ねと、積み重ねが向かう角度しかない。 

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光の速さが変らない理由2(相反する不変という距離に同時に到達する)

目的(概念量=未来=真の物量)と、表裏一体にある、存在(演算量=虚空間=真の物量)という原理世界(設定量の世界=量子量という形態)。その内界に得た結果(質量の総体=物質)と、相反して、得なかった未結果量(未来と虚空間)が同時(一対)にある。そして向かう方向と、相反する、向かわなかった方向という相反する距離も同時(相反するもので一対=すべての事象に共通する原理世界)にある。それが原理世界の一ページという私たちが感じる一番短い時間(同時)。静止する物体から相反する方向に発せられる光も、速さを有した物体から相反する方向に発せられた光も、原理世界の完結時に到達する距離は同じ。原理世界の生み出す結果の総量の内界にある限りは原理世界の一ページという同時(今)にあり、あらゆる速さを有してあらゆる方向に移動するものも、そして静止するものも互いに認識(同時)できる。       単独で速さを有するものは他者との速さの比較はできないが原理世界の生み出す結果の総量の内界で得た結果量という質量の総体(距離の総体=同時=速さ)と、相反してある、得ていない未結果量という虚質量の総体(虚距離の総体=同時=虚速さ)の間(歪)という位置にある。他者との比較ができなくても静止しているのではなく速さを有している。今の宇宙にある最小単位という物質(粒子)の数と同じ数の原理世界物質の始まりから物質の終わり)の相互作用を有する集積体(虚空間)が相反する結果の完結に同時に到達しようとすることが時空間であり、それぞれの物質(粒子)の置かれた位置(結果量=質量=物質と、相反する、未結果量=相反する真の物量=未来と虚空間)を表裏一体に完結するという相対性が根源にあり、速さを有して等速運動をすることも、加速・減速することも・あらゆる方向(角度)に進むことも、未結果量の総体(未来と虚空間)という原理世界に得た結果(質量=物質)の置かれた位置という原理世界の数の分の相対性がある。                             光は速さを有さず距離の総体として同時にあり原理世界の完結の連続の積み重ねにより速さを有していると思えるもの。物質は虚空間を移動するのではなく原理世界の生み出す結果(物質)と、相反する、未結果(未来と虚空間)が同時(一対)にあるという静止した世界が連続する積み重ねにより移動すると思えるもの。時間は流れず、得た結果量(時間=質量)と、相反する、得ていない未結果量(虚空間=虚時間)で一対という静止する相反する結果の総体。光の速さはあらゆる質量及び物理的な力の速さを有するものと同時にある得ていない未来と虚空間量に変化し原理世界の結果の総量という不変の距離に到達するもの。                            速さを有する物体から進行方向に発せられた虚空間にある光の速さは原理世界(在るもの=相反する真の物量の総体=設定量)から物理的な力の速さ(得たもの=質量)を進行方向に減算し、速さを有する物体から進行方向の反対側に発せられた空間にある光の速さは原理世界(在るもの=真の物量の総体=設定量)に物理的な力の速さ(得たもの=質量)を進行方向の反対側に加算する。                                                                        静止する宇宙ステーションから観測して光の速さの半分で等速運動するロケットの進行方向に発せられた光は小さな虚空間を光が小さな速さで到達し小さな時間(ゆっくり進む)にあり、進行方向の反対側に発せられた光は大きな虚空間を大きな速さで到達し大きな時間(早く進む)にある。そして光の速さの半分で等速運動するロケットから観測して静止する宇宙ステーションから宇宙ロケットの進行方向に発せられた光は宇宙ロケットのある虚空間と比較すると大きな虚空間を大きな速さで到達し大きな時間(早く進む)にあり、進行方向の反対側に発せられた光は宇宙ロケットのある虚空間と比較すると小さな虚空間を光が小さな速さで到達し小さな時間(ゆっくり進む)にある。静止する宇宙ステーション自体の距離(長さ)と光速の半分の速さで等速運動をする宇宙ロケット自体の距離(長さ)と移動する距離を考慮することなく光の速さは不変と思え、そして未結果量の総体という虚空間と虚時間の(大きさ=速さ)は変化する。                                                        進行方向側(目的)に速さを有し小さな空間に縮小した物質として認識される。そして進行方向の反対側(目的を有さない)という大きな虚空間に膨張した物質は生れ出ない、それは自身(意識)が選ばなかったという原理世界であり目的(未来)を有さないものには存在(虚空間)も無く結果(質量)も生まれ出ない。しかし何も無い方向に向かおうと思えば、そこに物質は生れ出る。自身がどちらかの原理世界を選ぶ前には相反するもので一対という両方の原理世界に生れ出ようとする結果(質量=物質)はもう在る。

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光の速さが変らない理由3(相反して同時にある世界=ドップラー効果)

選ぶ(思う)という目的(概念量=真の物量の総体=未来)が、表裏一体にある、存在(演算量=真の物量の総体=虚空間)と相互作用(意識=重力)を有し、得た結果量(質量の総体)に、相反して、得ていない未結果量という未来と虚空間は減少する。速さを有する物質(得た結果量)は相反するもので一対という反対側にある選ばなかったという未来と虚空間(原理世界=原因)を同時に有していること。移動しようとする始めの位置を決めれば、相反する方向に移動しようとする距離(原理世界=真の物量の総体)がある。そしてどちらの方向に移動したとしても相反する距離(得た結果と、相反する、得なかった未結果)の総量は変らない。立ち止まる人の前を右方向から向かってくる救急車のサイレンが聞こえる、立ち止まる人間と走らない救急車が発するサイレンの音(音程)を基本とすれば、ひとつの原理世界の未結果の総量に救急車の走るという目的(結果量)が入り込み残りの小さくなった原理世界(未結果の総体)と同時にある。だから発せられたサイレンの音(音程)は圧縮した状態となり高音に聞こえる。そして立ち止まる人の前を通り過ぎ立ち去ろうとすることは、立ち止まっている人間と同じ原理世界の結果の総体に救急車の走るという目的(結果量)を加えた距離となる。走り去ろうとする救急車が発するサイレンの音(音程)は膨張した状態となり低音となり聞こえる。救急車が向かってくることは救急車が向かおうとする方向の原理世界に立ち、救急車が立ち去ろうとすることは救急車が選ばなかった方向の原理世界に立っていること。進む方向(距離)と、相反する、進まなかった方向(距離)が同時になければドップラー効果は現れない。

移動(変わらないという増減の総体)

原理世界は目的(概念量=未来)と、表裏一体にある、存在(演算量=虚空間)で一対という量子の形態が前提。物質という概念(2次元面=静止する立体)に生まれ出て物理的な力の移動(得た質量の総体=同時=距離)を有さず、質量(静止する物質)と、相反する、残りの未来と虚空間(相反する真の物量の総体)に変化はない。それが静止する物質(2次元=静止する質量の総体)に到達し、表裏一体にある、未来と虚空間は静止している(時空間の始まる以前)であり、そして2次元面が連続の積み重ねをするという時空間となり得た結果量(質量)の数が多いほど速さ(距離の総体=同時)が増し、相反する残りの未来と虚空間(相反する真の物量の総体)は小さくなる。私たちは、概念量(虚質量の総体=未来)と、表裏一体にある、演算量(虚質量の総体=虚空間)という均等(未稼働の原理世界)に入り込もうとする、得た結果量(質量の総体=距離の総体=速さの総体)として歩いている。すべては相反するもので一対が前提であり、ある点に速さをもって向かえば未結果量の総体(相反する真の物量の総体=未来と虚空間)に結果量(質量の連続する総体という体積)が入り込み、残りの未結果量の総体という未来と虚空間が小さくなる。反対にある点より遠ざかれば未結果量の総体(相反する真の物量の総体=未来と虚空間)に得た結果量(質量の連続する総体という距離=認識し感じない)が加えられ自身という意識が感じない空間が大きくなる。それが物質が移動したということ。

距離と速さと時間の根源(今ある世界観=時空間は、それ以前の世界観=同時の内界にある時空間には入れない)

私たちが感じる一番短い時間(同時)とは概念量(未来)の総体と、相反する、演算量(虚空間)の総体という原理世界(量子という形態)が生み出す得た結果量(質量の総体=同時=認識)と、相反して一対にある、失う未結果量の総体(未来と虚空間=同時=認識できない)が表裏一体(同時)にあるという一ページ。そして原理世界の完結を同時に認識と認識できないをする私たちは原理世界の生み出す結果のひとつづつという時間には入り込めない。しかし速さ(質量の総体)を得て、相反する、虚時間(未来と虚空間)が小さくなることとは原理世界の一ページという虚時間の中に入り込んだのではないだろうか。しかし光の単位(同時=前の宇宙に完結し今の宇宙にあるすべての前提)という素粒子(光の単位の内界にあるもの)の外の世界で稼動する生物は相反する結果(時間)の総体として入り込むことであり時間(結果)のひとつづつを認識するところまでは入れない。                                                                                       なぜ原理世界の完結を一ページに記録(認識)するのか、認識の連続の積み重ねにより私たちが現実と思っている物質世界になる。どこまで小さな世界としても、また、どこまで大きな世界としても、すべては同じ原理上に稼動する。ひとつの原理世界の完結(相反する結果の総体)という記録がなかったとしたら到達すべき根源的な原理世界の完結(結果の総体)はひとつとなり、どこまでが距離なのか、わからなくなる、そして速さと時間という概念も生まれ出てこない。簡単に言えば映画のフィルムのひとコマは撮影された部分(結果の総体=距離の総体=有)と、その間の撮影されていない部分(結果の総体を同時に認識する=無)でつながっている。仮にフィルムが撮影された部分だけのもであり撮影されていない部分がないとすればフィルム全体でひとつの距離となり映像は流れて見え今の映画のような映像の連続とはならない。または数枚の紙に何かの絵を少しずらして書き、ぱらぱらめくると、その絵が動いて見える。絵(結果の総体=距離の総体=有)と、今のページと次のページの間(結果の総体を同時に認識する=無)があって絵が動いて見える。ページと次のページの間がなければ、すべてが一枚となり、透明なセロファンに描かれていればすべての絵が重複して見え、透明でない紙に書かれていれば、いま見ているページの絵しか見ることはできない。すべては原理世界の完結ごとに得た結果(認識=質量の総体)と、相反する、得なかった結果(感じる=未来と虚空間=虚時間の総体)で一対という同時(表裏一体)の連続の積み重ねの総体。ずいぶんと簡単な言い方だが原理はひとつ。

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重力(すべてに共通する根源的なエネルギー=結果の総量に向かう=意識)

未結果の総体(未来と虚空間=量子という形態)に生まれ出た結果量は質量(体積=今)となり、失う未結果量(虚距離)は減少し距離に到達する。自身と、相反する、他者という相反する量子という形態が相互作用(意識=重力)を有し今という距離に到達する。質量が多くあっても重力がなければ地球上で、りんごは落ちない。連続の積み重ね(時空間=連続する意識に結果を積み重ねる=重力)をしていなければ、それは動かない結果であり、ものをひきつけることはできない。                  物質は内界(結果の総体=質量の総体=得た体積=今)と相反する、未来と虚空間という外界(未結果の総体=量子という形態=得ていない虚体積)と表裏一体(同時)にある。空間の中に物質を設定するのではなく、未来と虚空間と、表裏一体にある、物質で一対であり、それで相反する結果の総体。静止する物質(得た結果の総体=認識に収束)は、相反する、未来と虚空間(到達すべき結果量の総体=均等)に還ろうとしながらも物理的な力(他者との相互作用)の移動を有しない限り還れない。物質どうしが出会う時、互いに還るべき虚空間という他者のプラスの真の物量(演算量の総体)に、表裏一体にある、向うべき目的という自身のマイナスの真の物量(概念量の総体)とが相互作用(意識)を有し速さの総量に到達しようとする。重力とは未来と、表裏一体にある、虚空間で一対が生み出す結果の総量(光の単位=同時)に到達しようとする原理世界の生まれたことと同時にあるという意識。                                                                       落下する箱の中に居る人間は重力を感じない。物質は光の単位(光の速さ)に到達しようとする時空間に稼動している間は重力を感じない。そして今という時空間(宇宙の活動)の総量(世界観)に到達し同時(ひとつのもの)となり重力(意識)の終焉(無)となる。素粒子(世界観=同時)・原子(世界観=同時)・分子(世界観=同時)も自身に重力は感じず、物質宇宙に活動する物質自身も重力は感じない。生物は進化という時空間の途中という今(完結)にあり、今の姿(ひとつのもの)を有し、ひとつのものであるための重力は感じない。物体(質量)の有るものを移動すると重さを感じるとは、物質(世界観=意識)が光の速さに到達しようとして得た結果量の外界にあるという生命(世界観)にある意識が、内界にある物質(世界観)にある重力に得た結果に、相反する結果を生み出そうとする量にある。生物(生命)という世界観(同時)の内界にある時空間に在る意識は進化という重力を感じない、そして更なる世界観に在る意識からすれば内界にある同時(ひとつのもの)という質量(物質)として重さを感じる。

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[宇宙の終わり]

加算(膨張)の総量に到達し、相反する、減少(収束)の総量に到達する

得た結果量の認識(質量)が増幅(稼動)と認識できない(虚質量=空間量)が増幅(膨張)し、相反して、あったはずの概念量(未来)と演算量(虚空間)は減少(収束)する。今の宇宙は膨張空間(増幅する結果量)と収束(減少する未結果量)という相反する結果を得て静止することで終わる(更なる結果が生れ出ない=膨張も収束もしない)。そして更なる宇宙(世界観=次元)内界に認識(生まれ出る)され、粒子(相反する認識=粒子と反粒子)となり、そして更なる原理世界という未来と虚空間と表裏一体にある。

私たちの世界

上記の事柄から考えると私たちの世界は、未来(真の物量)と、表裏一体にある、虚空間(真の物量)という原因(結果以前の世界=到達すべき答え=量子という形態)が前提にあり、重力(結果の総量に到達する=連続する意識)により認識の連続の積み重ねが稼動するという3つの要素からなり、そして物量ではない結果量を意識が認識し物質とする。すべては相反するもので一対であり、何も無いから、すべてが在り、すべてが在るから何も無くなる。私たちは、その相反する結果量に到達(意識)するために真の物量を稼動し得た結果という架空の世界を認識し更なる相反する結果量に到達するために真の物量を稼動する連続の積み重ね。すべての始まりと、すべての終わりが同じことであり、すべてが違うことの連続の積み重ねの総体となり何も変らないことに到達する、そこに矛盾はなく法則となる。そして原理世界には距離(積み重ね)と角度が同時に存在し、それが数式という基本的な概念の始まりになる。                                                            そして相反する二つのもの(未来と虚空間)が、相反する結果(未結果の総体と結果の総体)に到達しようとすることが四つの力といわれる電磁相互作用(マイナス粒子=目的粒子とプラス粒子=存在粒子)・弱い力(更なる世界観に生まれ出る=変化するもの)・強い力(世界観に完結する(変化しないもの)・重力(意識=結果の総量に到達する)という事象になるのだと思う。                                                                                    結果(認識=物質)に生まれ出て過去のページに消えていく。私たちが現実と思っている物質は発生と消失の連続で、そこにあるように思えるだけで、そこに存在していないように思える連続する意識(認識の連続の積み重ね=重力)こそが継続してあるものという実体。そして目的(物質=概念量=真の物量の総体)と、表裏一体にある、存在(虚空間=演算量=真の物量の総体)という量子の形態がが相互作用をしなければ結果(認識=質量)は生まれ出ず、始まりと終わりが一対(同時)に無ければ意識(重力)は稼動しない。やはり私たちの世界は相反するもので一対(表裏一体)として成立している。

何の根拠もなく私の考えた想像の世界。しかし、なにも無かったから、相反して、すべてが在ったという世界だと仮定しても、どうにか稼動しそうです。

[原理世界を前提に考えられること]

原因と、相反する、結果が同時にある。その内界に稼動する時空間。得た結果(質量)を認識して在った未来を失い今(物質)となり、表裏一体にある、未結果量(虚空間)を失い距離に到達する。未来(結果)に到達し、相反する、過去(原因)に還る。根源的な同時の内界にある時空間という同時の連続の積み重ねのひとつという今の宇宙も時空間の総体という同時になろうとしている。

違う速さを有するものが同じ世界にいて互いを認識する(同時の中の未来と虚空間=すべての事象は同時に起きている)

人間が道端に立っている、その前に線路があり右方向から来た電車が立ち止まっている人の前を横切って左方向に通りすぎる。立ち止まっている人からも電車に乗っている人からも両者を認識できる。互いに違う速さを有しているのに同じ世界に同時にいることになる。速さを有するものは自身の得た結果量(質量=物質)と、相反する、得なかった未結果量(真の物量=未来と虚空間)の合計で今という原理世界に完結する。仮に原理世界が10という結果量(質量)を生み出すとして、その中に1(質量)という距離(同時=速さ)という結果量(物質という概念)を得たとしたら、相反して、残りの9(真の物量)という虚距離(同時=速さ)という未結果量を有し、その合計で10という今の原理世界に完結する。そして静止する物質が物理的な力の移動1(質量)を得た時、原理世界の10という未結果量(真の物量)の中に、自身という距離1(質量)+ 加算された距離1(質量)=2(質量)という距離(同時=速さ)という結果量を有し、相反して、残りの8(真の物量)という虚距離(同時=速さ)がある。そして得た結果量(質量の認識=物質)と、得なかった未結果量(真の物量を認識できない=未来と虚空間)で一対(表裏一体)にあり原理世界の一ページという私たちの認識できる一番短い時間(同時)として認識と認識できないをする。それが空間の中に移動する物質が在ると思えること。物理的な力の移動という多くの結果量(質量の連続する総体)を得た物質は残りの原理世界(未結果量の総量)の内界にある得た結果量(質量の総体=距離の総体=速さの総体=今=同時)として在る、そして原理世界の生み出す結果の総体(3次元=正六面体)の一辺という光の速さ(距離の総体=同時)の内界にいる限りあらゆる物質は同時に原理世界の相反する結果の総量に完結し互いを認識できる。

重力(重力の伝達に速さと時間はない)

得た結果量の認識(質量の総体=物質)と、相反する、得なかった未結果の総体を認識できない(相反する真の物量の総体=未来と虚空間)が表裏一体(同時)にある。素粒子の外側にある意識が感じる一番短い時間(原理世界の一ページ=同時)であり、相反する結果で一対という総体。物質という体積(得た空間)と、相反する、得ていない虚空間(虚体積)がある。しかし距離は自身という距離を移動しない。距離はそのすべてでひとつの結果の総体(同時)であり、そこに速さと時間はない。自身(自己=質量の総体=同時)と、相反する、他者(外界=虚質量の総体=同時)が引き合う引力も原理世界の完結(同時)の連続の積み重ねにより引力という事象があり、しかし同時には速さと時間はない。

                                                                     自己と外界1(世界観に生まれ出た、相互作用を有する宇宙の集積体)

自己(得た結果量=内界)は、相反する、外界(他者の有する結果量)を意識(重力=相互作用)しなければ新たな結果(答え=世界観)を得られない。素粒子(答え=世界観)も内界に有する結果量(質量)の相互作用を有する集積体。そして生命(生物)の内界に得た結果(体験=答え)は有機体(細胞の集まり=必要とされた機能という形)となり、その答えの相互作用を有する結果の総体を同時に認識(世界観=観念)するもの。自己が在ることを認識するという生命の形態は今の宇宙に生命(生物)といわれるものが誕生する以前からあるもので、今という物質(世界観)の外界にある更なる物質(更なる世界観)という結果量に到達しようとする。自己とは得た答え(認識の総体=魂=宇宙)であり無数の外界という答え(認識の総体=魂=宇宙)たちと同時にある。無数の宇宙の相互作用を有する集積体のひとつとして自己があり、外界という宇宙と相互作用を有し得た結果(答え)を自己という宇宙に積み重ねる(在るもの)。そして相互作用を有さなかった他者という宇宙は自己という宇宙に答えとして積み重ねられなかったという、知らない(無いもの)ものとなる。

自己と外界2(この世の見え方=相互作用を有する認識の総体)

得た結果量(質量=認識=物質)と、相反する、得なかった未結果量(真の物量=認識できない=未来と虚空間)で一対にあり、その間に自身の置かれた位置(結果)がある。物質は生まれ出た結果であり継続して存在せず、意識の連続に積み重ねられた認識(質量)の積み重ねで、そこに存在しているように思えるもの。認識を積み重ねようとする意識の連続を結果(質量=物質)と同じものとすれば発生と消失を繰り返し記録の積み重ねはできない。常にある物質(結果)を前提とすれば意識(認識)が移り変わり、意識(認識)を前提とすれば物質(結果)は常に移り変わるもの。しかし結果の総量に到達するという重力(連続する意識)がなければ結果(物質)は生まれ出ず、やはり意識が真に在るもの。そして相互作用を有する答えの集積量が多いほど認識の総体という魂は多くの外界を意識し更なる相互作用を有した結果の量(答え=知る=認識)が増幅する。自身に得た答えが少なければ他者という答えの多くを意識できず新たなる答えも多くは得られない。人間は多くの答えを積み重ねた認識の総体、だから多くの外界と同時にある月を見る(意識する)ことができる。多くの答えを有さない原始の生命の有する魂も、その認識の積み重ねの中で同じ世界を意識する、しかしウィルスのような微生物は少ない答えの集積体(魂)であり月を意識できず得なかった結果という月(答え)を知ることはできない。

自己と外界3(月を見なければ月は存在しないのか)

私が月を見ていなくても、月は私と同じ相互作用を有する原理世界の集積体(今の宇宙)に存在している。満月を見た人にとって月は紛れもなく存在し認識(体験=答え)に積み重ねた。しかし私がその満月を見ていなければ私自身という認識の総体(体験=答え=魂)の積み重ねにならず確実に同じ世界に存在する月も私の魂には残らない。あるのは以前に見た月の記憶であり今日も月は私と同時に存在しているだろうという想像の産物。私の魂の積み重ねに加えなかった、その時の月は私という魂(認識の総体)にとっては存在しないものと同じ。根源的な目的(概念の総体=未来)と、表裏一体にある、根源的な存在(演算の総体=虚空間)の中間として生まれ出た有機体(到達すべき未来と虚空間を有する物質)という脳が記憶するということは、それ以前に結果の総量に到達するという原因(到達すべき答え)がある。記憶にないことは自己(認識の総体)に新たなる結果(認識)が積み重ねられていないことであり、しかし自己(内界)と他者(外界)は常に同時にある。生命は今の世界に生まれ出てくる時も、たったひとりであり、その生を終え死に到達する時も、たったひとり。地球上に人があふれ人間以外にも多くの生物がいる。多くの生命と多くの物に囲まれて、そこに一緒にいるように思えるが、それは進化という過程で生き延びることと、子孫を残すために積み重ねられてきた機能(形)を使い外部の情報を集め自身の魂(認識の総体)に新たな答え(認識)を積み重ねているから、そこに他の人間が居たり多くの物があるとわかる。しかし自身という認識の総体(魂)は天蓋孤独であり、それぞれが別の宇宙としてある。

疑問と答え(疑問の総体と、相反する、答えという1点=相反する同じもの)

到達すべき答え(結果の総体)という一点(頂点)に向かうために、相反して、今は底辺という疑問(未結果量の総体)に位置する。そして得た結果の連続の積み重ねを得て過去にあった未結果量(底辺)は減少し、答え(頂点=収束)に向かう距離を得る。そして答えという一点(認識=無=今)に到達し過去にあった疑問という底辺は消滅する。しかし得た頂点(答え)とは、失った底辺(疑問)と、相反する、同じもの。到達すべき世界観(進化)の途中に在るという今の宇宙にも生まれ出るであろう結果の連続の総量がある。そうでなければ意識の連続に結果(認識=質量)を積み重ねるという時空間は動かない。                                          ジェット機がエンジンの出力を全開し静止した状態から最高の速さに達する。それはジェット機という総体にエンジンの出力という設定量があり同時に最高スピードという得るであろう結果量がもうあること。答え(結果の総量)に、相反する、生まれ出るであろう速さに到達するための疑問(未結果量)がある。そして答えという頂点と、相反する、疑問という底辺は相反する同じもの。一番小さな目的量と、表裏一体にある、一番小さな存在量が相互作用を有し一番小さな答えとなる。そして得た答えが更なる相互作用を有するという加速度的に増幅する答えの連続の積み重ね。疑問の総体という底辺(平行=面)に集約が生まれ答えに向かうという距離(垂直=体積)を積み重ねる。そして更なる速さが生まれ到達すべき答えに近づくための時間が小さくなる。その連続の積み重ねにより頂点という最高スピードに到達し、相反する、底辺という疑問の総体は消滅する。そしてジェット機のエンジンが停止し結果の積み重ねはなくなる。しかし答えは今もある、そしてエンジンがその機能をなくす時その答えもなくなることになる。                                                                                                         しかし原理世界はどうしてあらゆる結果を瞬時(同時)に出せるのか。現在のコンピューターでデジタル(記号)世界を作り出しても計算結果を生み出す時間は必ず必要となる。私たちの宇宙(世界観)は到達すべき結果の総体の内界にあり、得た結果量(時間=今=質量=物質=認識)の積み重ねに、相反して、減少する未結果量(虚時間=今=虚質量=未来と虚空間=認識できず感じる)という時空間がある。しかし生まれ出た宇宙と、その宇宙の終焉は同時というひとつであり、そこに速さと時間はない。そして更なる疑問が生まれ出た時、同時に答えがあるとも考えられる。相反する両者が相互作用を有し生まれ出た結果(中間)という小さなピラミッド形の連続の積み重ねが到達すべき答えという大きなピラミッドの頂点(中間)に到達する。それは物理的な力の移動、そして進化という更なる次元の総体(世界観)に生まれ出ることも、また同じ原理上にある。                                                                                                太陽の熱と地球の地形や海の位置関係により大気は高気圧と低気圧という答えを得る、そして均等に戻ろうとしながら稼動する。海も大気の影響を受け答えという波を得る。得た波という相反する答えは疑問という底辺であり均等の戻ろうとして結果を積み重ねる、そして到達した答えという1点とは均等という波の無い海。すべては得た答えが先にあり、在った答えに到達しようとして稼動(結果)する。                                                                    今の宇宙にある無数の素粒子(世界観)が均等にあり、原子(世界観)に集約したという数になり、分子(世界観)に集約したという数になり、有機体(世界観)に集約したという数になり更なる一点という生命の総量(答え)に到達しようとする。現在社会もピラミッド状の組織にあり、あらゆる事象は底辺と、相反する、頂点を同時に有するもの。知識(学問)にしても、すべての知ろうとすることは、たったひとつという真理に向かうことであり。物質を利用し何かを作り出そうとすれば、真理が、相反する、疑問に生まれ出て科学・技術という知識(答え)を積み重ね、また相反する真理に帰ろうとする。宗教・哲学も、存在するとは、または、生きるとは等、難しいことは分からないが真理より、相反する、疑問に生まれ出て知識(答え)を積み重ね、また相反する、真理に帰ろうとするもの。すべての学問は相互作用を有し真理に到達しようとする。多くの分野に分かれている学問は同じものであり、しかし今は疑問に位置する。多くの学問が更なる相互作用(融合)をすれば得られるだろう多くの答え(結果量)は、もう存在している。

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言葉1(一番小さな行動)

右に行こうと思い、そして右に行く、私たちは思ったことを行動に移す、そして思うことは言葉でも理解している。では右に行こうと思った時、右に行こうという言葉が発生しなければ私たちは右には行けないのか。私が歩いていて、そこに障害物があれば瞬時に回避するか、立ち止まり対策を考える。瞬時にして起こるその行動は言葉を発しなくてもその行動を起こしている。どこかでその行動を思ったはず。では、その行動の始まりは何処からだったのか。現実(認識)は原理世界の生み出す結果の総体、それを私たちの世界で一番小さな時間として認識(同時)する。そして、その積み重ねが行動となる。私が行動を起こす、それは原理世界(光の単位)の内界にある結果の総量の中のひとつから始まる。しかし、そのひとつの結果では言葉は生まれ出ない。結果の総量が、ひとつの原理世界の完結(同時)となり、その連続の積み重ねにより言葉となる。では行動(思う)とは言葉以前のものということになる。私たちは言葉であらゆることを理解する、そして言葉がなければ物事を考えることは出来ないと考えているのかもしれない。言葉は人間が得た知識を理解するために必要なものであり本質の世界では存在しているだけですべて(真理)を理解(得ている)しているはず。右に行こうという言葉で右に行こうということを理解するのであれば最初の右の(み)という発音した時点では右に行こうとは思っていないことになる。文字を書くにも思いは言葉に優先して生まれ出る、それを他者に説明する時に言葉を使う。しかし何かを思う(概念量=未来)ことは、表裏一体にある、存在(演算量=虚空間)と同時にあり、生まれ出る結果(答え)はもうあるもの。そして原理世界(未来と虚空間)が生み出す結果量の認識(質量の総体)という一ページとなり、その連続の積み重ねが、右に行こうという言葉になる。つまり、右に行こう、という言葉の始めの(み)の単語を発し終わる遥か以前から右に行こう、と思っている。答え(認識=結果の総体でひとつのもの=同時)に速さも時間もない。私たちは疑問と同時にある答えに到達しようとする意識の総体(同時)で思っている。

宇宙は螺旋状にある多重世界

生命は、この世(今の原理世界)に生まれ出て、そして、その生のすべてを終え死に到達し更なる世界観(次の原理世界)に生まれ出る。私たちが必要とされ、その答えとしてあるのならば必要とする存在の一部となるために体験という答えを積み重ねて更なる世界観(次の原理世界)に生まれ出る連続の積み重ね。根源的な結果の総体があるのならば私たちの宇宙は、その姿の一部なのかもしれない。透明のフィルムに人間の各部分を書いて重ね合わせた絵が人間の姿となるならば私たちの宇宙は、その手の一部なのか、または足の一部なのか、またはもっと小さな細胞という一部とも考えられる。音楽で言えば渦巻き状につながるレコードの溝であり、発せられるであろう、それぞれの音たちはレコードが回転していなければ単独であり自身以外の音とは関連を有しないが音楽を必要とした更なる世界観という人間(意識)がレコードを回転させれば連続された音の総体(曲)として認識される。私たちの宇宙も他の宇宙と同時にあり隣の宇宙及び隣の溝にある宇宙を認識できないだけなのかもしれない。音階(認識単位)の連続というメロディと歌詞が同時にある。その思い(目的=概念)が人間の得た知識を応用して物質を使いレコード(2次元=静止した概念の総体=均等=生まれ出る前の思い)となる。そしてレコードが回転(存在=演算量の稼動)し螺旋状の小さな宇宙(結果)の連続の積み重ねが生まれ出る。それは生まれ出た結果の総体(同時)という、ひとつの楽曲(世界観)。結果(質量)を未来と虚空間(相反する真の物量の総体)の内界に生み出そうとする原理世界と同じ。

                                                                                         宇宙の果ての先 (思わない)

未来と虚空間が稼動(相互作用)して得た結果(質量)を意識が認識(物質)し、そして認識できない結果の量は膨張宇宙空間となる。得た結果の量(今=過去の総体=膨張宇宙空間)に物質は行動でき、得ていない未結果量(未来と虚空間)に物質は行動できない、その境目(外郭)が宇宙の果てであり。宇宙の果てから先とは今は到達していない未来と虚空間(量子の形態=未結果量の総体=思わない)となる。結果の総量に向かい、相反する、未来(目的量)と虚空間(存在量)に還る。今の宇宙は結果の量(認識)に増幅し、相反する、未結果の量(未来と虚空間=認識できず感じる)を減少する連続の積み重ね。今の宇宙空間を内界に有する更なる未来と虚空間という宇宙の果ての外側は近づいている。

物質に意識はあるのか(すべての在るものに意識がなければ物質宇宙は存在しない)

いろいろな物質が存在している、それは物質世界に共通してある一番小さいものの組み合わせの結果と言える。では、その組み合わせとは。互いに引き寄せあう、または反発しあう。もう少し大きな単位になれば結合できる形を互いに持っているか、持っていないか、という関係で組み合せが繰り返されるということなのだろうが一般的には、その物質の持つ性質だということになっている。互いに引き寄せあう、または結合できる形を有している、そして結合した、または結合しなかった。しかし結合、または結合しなくても、その物質自身は、結合したか、結合しなかったかを認識したのだろうか。自己(内界)が、相反する、他者(外界)の置かれた状態を認識しないで、どうやって結合する、または、しない、という相手を見つけ出すのか。また自身の存在自体も認識(意識)していないとすれば、他者に結合、または結合しないという行動が起きるのか。                ある形の結合体に成長した物質(分子等)は、その形をどうして維持しようとするのか、そこには目的があるはず。形状が合うから結合できる、形状が合わないから結合できない。単純に形状とか、引き合う、反発し合うだけの組み合わせの結果のように思えるが、そこには結合できるか、できないかの判断が下されている。そして、その結果という自身のおかれた状態も認識されているはず。もし、それらがないとして結合するという性質だけをとらえたとしたら無限に結合を繰り返していくことになる。物質の持つ性質とは何か、何もないところに性質もない、そして行動も起こらない。結果の連続を生み出すには目的と判断と結果の認識が必要なはず。そこには意識(答えに到達する)がある。私たちの世界で一番小さいものの結合、または結合しなかったという行動があったとすれば、それは、今の宇宙で一番小さな意識(認識と判断)。私たち生命は結果(答えの総体)を同時に認識する。だから自身という身体も、他者という周りの環境も到達した世界観(観念)として認識できる。そして単なる答えの集積体ではなく相互作用(意識)を有する結果の総体として生命という判断と結果の認識をする。生命という私たちの立場からすれば今の宇宙にある最小の物質は極小の意識(原始であり希薄な存在)と言えるが、その世界の存在にとって必要なのは最も簡素な判断と認識。つまり十分な判断と結果の認識ができる意識と言える。                                             量子力学では粒子は様々な状態が重なりあった状態で存在し観測機器により粒子を観測することでいずれかに収束するらしい。人間が観測(認識した時=結果の総体=答え)しなければ到達しようとする答えはないということでもある。しかし素粒子も観察されたという結果を認識している。仮に宇宙の最小単位という素粒子に意識がないとすれば素粒子(自己)と、相反する、素粒子(他者)どうしが相互作用を有したという認識はされず認識に到達しようとする途中にあり結果(質量)とはなれず物質宇宙は誕生しない。しかし宇宙に生命が誕生する以前から物質世界は存在する、それは素粒子にも意識(量こという形態=原因と結果あ同時にある=結果に到達しようとする=連続する意識=重力)があり粒子→原子→分子=物体という生命(連続する更なる世界観)にたどり着く。

[量]

相反する量で一対の生み出す相反する結果で一対という原理世界は、すべての事象に共通する思い(意識)の根源であり、始まりと終わりで一対という宇宙の連続の積み重ねに生まれ出たすべての結果に矛盾はない。

人間はウィルスに勝てない(得たものと、失ったもので一対)

人間の知識を超え更なる変化(体験=知る)を積み重ねるウィルス、人間はウィルスを手中に収めることはできない。地球に生まれ出る、あらゆる結果には、その背景に理論(知=すべての可能性に結果する)がある。今ある結果の、すべてで地球上の生命の総体であり、その結果のすべてが相互作用(意識)を有するという更なる結果の総体(世界観)に向かう。すべての生命(結果)には表裏一体にある、意味(原因)が前提にある。ここに、どんぶり一杯のうどんがあるとする、ある人は細麺のうどんが良いと言う、私は太麺のうどんが良いと言う、どっちのうどんにしても、うどん粉の量(仮に100g)は同じとする。人間も太く短く生きるか細く長く生きるかなどと人生観として言い表わすこともある。私たちの世界が、ひとつの原理によりすべてが稼動いているとすれば、すべの生まれ出るであろう結果を100という種の存在容量内で結果する。人間は知識を得て文明を築き、化学・技術等を高めてきた、それは人類という生物(種)の存在容量100を短期間のうちに大量に使ってこそ可能なこと。人間以外の野生の生き物たちは文明も起こさず化学や技術等も極めず、そして知識も得ず生物として持っている100という存在容量を進化という答え(知恵)として少しずつ使っている。人間は太く短い生命の道を選び、それ以外の動物達は細く長い生命の道を選んだと言える。その極みがウィルスのような微生物であり極細・極長の生命存続の道を歩く。そして、すべての生れ出た結果(認識=物質)は、その背景に共通する知(理論)を有している。人間が生物として退化に向かうという知識で、あらゆる科学物質を駆使して新たな薬を作り出したとしても細菌類たちは人類の得た知識をはるかに超える理論(知)を背景に更なる生命(機能という形=進化)を積み重ね続ける。

なぜ、恐竜は絶滅したのか

すべての宇宙がひとつの理論(システム)で稼動し、過去と未来が同時になければ今の連続の積み重ねは無いとすれば、理論には管理体制は必然的に存在し宇宙に在るものの行動結果は、すべてが記録されているということでもある。では生命については。色々な生き物がいる、同じ生命ではあるが生物の形態は様々。生き延びることと、子孫を残すという基本的な目的を果たすために、いろいろな形態を作り出した。では私たちの世界を作り出している根源的な答え(必要とする)は、それをどのように処理しているのか。生物について考えれば、それぞれの種ごとに使えるだけの結果量というものを与えているとも仮定できる。恐竜という生物には、この世に存在できるための一定の存在容量(結果量)がある、前記した、うどん粉(100g)と同じ。恐竜はその容量の中で、この世の生命を存続する。それは一匹の恐竜が二匹に増えることも、何かを思考する、また行動することも、そのすべての結果を、その容量の中で行う。そして、それらの容量がなくなった時その種の存在期間は終わることになる。恐竜の絶滅(この世の存続期間が終わる=行動結果の総量という記録が残る=恐竜という種の答え=認識=存在した)。かなり無理のある発想かもしれない、しかし今ここに在るということは結果(認識)の連続であり結果を得るためには、目的(未来)と、表裏一体にある、存在(虚空間)が相互作用(意識)を有する連続の積み重ねというメカニズムがある。当然、管理された設定世界となる。それぞれの生命(種)には地球上に存続できる生命の総量の中で他の生命と相対する生命の量(領分)を有する。では恐竜は、それでこの世から完全に姿を消すということになるのか。そうではなく恐竜は生き残りをかけて新しい生物に変わっていった。それは生き延びることと、子孫を残すという100%の欲求(根源的な意識)により新しい種を探し出す。恐竜は鳥になったという説がある、恐竜は生命の存続をかけて思う(目的)を使い回りの環境という情報をもとに生き延びるという欲求(想像は存在するもの)をする。すべての宇宙を包括する根源的な原理世界(真に在るもの=意識)が、その内界に鳥という新しい種(疑問)認識した時、到達すべき鳥という姿(答え)も同時に存在する。その時、一部の恐竜は鳥という新たな存在容量(未来と虚空間=生まれ出るであろう答え)を得る。その時から恐竜は鳥という結果量に変化(進化)を積み重ねて行った。なぜ、これほど多くの形態の生物がいるのか。それは生き残りをかけた新しい存在容量獲得という原動力が働いているとも言える。また恐竜は自身の存在容量が少なくなった時、鳥という新しい存在容量を得たとすると仮定すると、それは個々でそれぞれの意識(世界観)を持ち行動をするが種全体でひとつの意識(世界観)に到達しようとするとも言える。人間も含め他の生物達は、それぞれの種という量でつながっている。そして地球上の生命の総量でひとつの答えに到達しようとしている。                                                                                        隕石の衝突により恐竜が絶滅したという説が有力。多くの証拠が残されており、その可能性は大きい。しかし隕石が衝突していなくても恐竜は絶滅し鳥になったのかもしれない。

思いの始まり(答え=ひずみを得て、相反する、均等に還ろうとする=宇宙とは思いそのもの)

すべては、変らない(始まり)から、相反する、変らない(終わり)に到達しようとする。宇宙が稼動していることは、その間にある変わり続ける総体の内界にあること。ある設定距離の中間位置に対しての右側及び左側の距離。ある設定体積の中間という体積からの量の増減。平行にあるシーソーから右側または左側への傾き。すべての答え(結果の総体)とは相反する結果(質量)の総体でひとつであり、そこに速さと時間は無く、すべてが同時(静止する)にあることを認識(無)すること。その相反するものの増減で一対という結果(認識)が根源的な思いの原点であり無数の結果(認識)の相互作用を有する総体(自己=内界)もまた速さも時間も有さないという同時(無)。自己という答えの総体(同時=内界)が、外界という答えの総体(同時=外界)と相互作用(意識)を有する時、新たなる疑問量となり、相反する、結果量(同時)を得て、そのどちらかを選ぶ(同時)。すべてが同時にあるという原理世界の一ページ(生命の入り込めない結果量=時間量の総量=同時)が言葉以前にあるという自己の有する思い。思いの原点とはプラスとマイナスで表現される物理的な作用と同じもの、そして物理的な作用を生み出す質量には結果の総量に到達しようとする意識(重力)があり、生まれ出た結果には相反するもので一対という思いがある。物質は意識(重力=相反するものが相互作用を有しひとつの結果を得る)が無ければ稼動しない、それは意識(重力)が無ければ物質は発生しないことでもある。物質の発生と物質の活動も、そして生と死の連続の積み重ねという進化も同じ原理上にあり、そして更なる外宇宙(更なる世界観)につながる未来と虚空間もまた、思いの原点という相反する結果(認識)で一対として生まれ出る連続の積み重ねであり、すべての在るものに共通する、たったひとつという相反するもので一対という原理上に稼動するもの。

鳥インフルエンザ(種の存在容量=答えに向かおうとする進化の総量)

鳥は空を飛ぶことにより生き延びることと子孫を残すという生物の100パーセントの欲求(原因)に生まれ出た答え(結果)。すべての生命は個々に思い(目的)を有し、種の総量でひとつの答え(思いの総体)に向かう。生命とは必要とされる答え(原因=意味)を有するものであり今とは、その答えの総量に到達する途中の姿。鳥には自身が得た答え(意味)という進化に到達しなければならない宿命にある。人間の得た知識をもとに鳥を繁殖する技術を得る、物欲を追求する人間にとっては、とても役に立つもののように思える。しかし鳥には到達すべき生命の姿(量)がある。人間も同じであり、そして地球という生命の形態の総量と、相反する、生物の総量もそれで一対という量にある。鳥は地球という生命の総量の一員として自身の存在すべき量を知っている。忘れてしまったのは人間だけ。人間により鳥という種の総体が有する結果の量を操る。人間の手により鳥は増えていく、そして進化に使うための存在容量を勝手に使われてしまう。鳥には答えに到達する姿になるための存在容量が必要。鳥という種の総量が、その存在容量を確保するために鳥は自身という種の総量を秩序の中に収めることが必要、しかし鳥は自身の生命を終わろうとする知識は有していない。しかし種として存在するか、存在しないか、という相反もので一対という根源的な思い(判断)があり、そして到達すべき答えに向かうのならば存在するには何をするべきかという答えを知っている。そして鳥がその総量を調節するために得た答えとは病気。病気を受け入れ、その数を調節する。鳥という種に人間が得た完全ではない知識を使い鳥の世界に入り込まなければ鳥は病気になる必要はなかったのかもしれない。そして人間は自身の物欲のために地球上に生まれ出た生命の総量という秩序を壊し、その答えとして自身の存続に危機をもたらす。人類という生命の存在容量を自ら途中で断ち切る行為とも言える。何かを得れば何かを失う。すべての存るものは、すべての事柄において相反するもので一対という均等(中間)の世界に生まれ出る(認識される)もの。

 [実と虚 ]

物質(結果=認識=質量)は無いものであり、残りの見ることも触ることもできない未来と虚空間(未結果=認識できない=相反する真の物量)は更なる物質という無いものを生み出そうとし更なる世界観に連続して在るもの。得た結果量(質量の総体=距離の総体=同時=速さ)とは、あったはずの未来量と虚空間量(虚距離の総体=虚速さ)を失うこと。生まれ出た(在ると思える=物質=無)ことは、相反する、死(無いと思える=結果量=有)と表裏一体。原理世界(相反する真の物量)の生み出す相反する結果(質量=虚物質)を意識は虚空の世界(現実)に在る(認識=無)と思う。

何が実で何が虚なのか(生命が思いに行動することは得ていた答えに到達しようとすること)

見て触れることのできるものと、相反する、見ることも触ることもできないもので一対が同時にある。それはすべて事象に共通しているもの。仮に今の宇宙の中で私たちと同じ世界を作ろうとしたら私たちとまったく同じ物質世界を作り出すことはできない、それは今の宇宙の中で新たな物質を無から作り出すことはできないから。では、どうやって同じ世界を作り出すのか。いま考えられるのは理論上に私たちと同じ世界を作り出すしか方法はない。現実の世界から同じ現実の世界は作り出せない、だから現実の存在が虚(架空)の世界で、実(現実)を再現する。そして生まれ出た虚の世界の存在は、それを現実としてとらえる。虚の世界を作り出した現実という存在は生まれ出た虚の存在からすれば見ることも触ることもできない虚の存在。すべては相反するもので一対であり、そして相反する結果に生まれ出る連続の積み重ねであるならば私たちには到達すべき虚空という現実の世界があるのかもしれない。生物が思いに行動すること(現実と思える)は、表裏一体にある、真の物量(結果を生み出す原因=到達すべき答え)という量子という形態(連続する意識=時空間)に稼動するからであり、あらゆる生物(生命)は思い(実の世界=真の物量)の結果を物質(虚空の世界=質量)で体験し更なる真の物量を稼動し、更なる結果を虚空の世界で積み重ねる連続。物質世界(虚空の質量)は原理世界の完結ごとに過去に消え、意識の連続に積み重ねられた認識が現実の存在(真の物量)。過去の積み重ねがなければ今(思い)は叶わず、未来がなければ思い(今)は稼動しない。そして思い(今)がなければ過去も未来もない。                                                                                                      今の宇宙を前の宇宙が作り出したわけでもなく、今の宇宙が次の宇宙を作り出せるものでもない。今の宇宙は前の宇宙に完結した世界観(光の単位=量子の形態=素粒子に到達する)を内界に認識(物質)し、今の宇宙は量子の形態(世界観=同時)の内界(時空間)にあり自身という完結(姿)を見ることも触ることもできず、しかし更なる宇宙(意識)に物質として認識されている。仮に人間が作り出した宇宙(生命)があるとすれば人間の思い(未来)の内界に連続するものであり、しかし今の宇宙(生命)を生み出したものがあるとすれば根源的な思い(過去)という外界に還ろうとするもの。

思いはどこまで届くのか(すべては同時=ひとつになる)

現在では100億光年彼方の空間には、それまでの距離があるということになっている。しかし結果(認識=無)は、そのすべてでひとつの距離総体(同時)であり、そこに速さと時間はない。今の宇宙も相互作用を有する原理世界の集積体というすべてで、ひとつという結果(同時)に在り、その連続の積み重ねで同時(ひとつのもの)に到達しようとしている。私のいる場所も100億光年彼方の場所も同じ所(距離の総体)という速さも時間も無いという同時にある。そして私の思いに場所などなく同時に100億光年彼方にも場所はない。すべては同時(ひとつという同じもの)にある。                                                               なぜ100億後年先の場所に到達するためには100億光年という時間がかかり、そこに行かなければ、そこにいると思えないのか。目的(未来)と、表裏一体にある、存在量(虚空間)という今の宇宙(原理世界)を稼動する重力(意識)。その内界には内訳という意識(重力)の連続する総量がある。人間の有する思い(意識)も、その内訳のひとつであり自身の有する思いの量という未来と虚空間(原因=到達すべき答え)は有しているが100億光年までの未来と虚空間=思いの量は有さず自身という原理世界の果ての先という未来と虚空間に何も無いものとして在る。100億光年先に在るものはと考えても結果は生み出さず、思わなければ結果は生れ出ない。100億光年先に在るものは自身と同時に同じものとしてあり、しかし自身の外界という分からないもの。

何で過去と未来が見えないのか(過去と未来の間=今を認識する)

物質(結果=質量)を意識は認識(今=内界)し過去に消滅する。物質は継続して存在するものではなく、しかし過去と同時になければ物質が移動したという行動結果は得られない。しかし同時にある過去の総体という結果の総量を意識は認識できない。そして未来と虚空間(相反する真の物量=量子という形態)が稼動せず得ていない未結果量を意識は認識(今=外界)できず感じる。そして過去と未来は相反するもの(二つの結果)として今と同時(ひとつ)に在る。                           今の魂(認識の総体)と同時にある過去の魂の総量(前世)と、相反する、未来の魂の総量(来世)。今の生物の姿と同時にある過去という進化の総量と、相反する、更なる進化の総量。そして今の宇宙と同時にある過去の宇宙の総量と、相反する、未来の宇宙の総量。すべては同じ原理上にあり到達すべき結果の総量に連続する意識(重力)に今を認識する原理世界は過去と未来は同時にあり、しかし見ることも触ることもできない。なぜ過去と未来は見えないのか、今という結果の認識が無いとすれば過去と未来と同じものという今となり、距離・速さ・時間という概念はなくなり自己のある位置は確定できなくなる。それは更なる結果を生み出さないものであり自身をも認識できない。物質は空間にただあるだけではなく、そして思いもただあるだけではなく今という結果(位置)確定しているもの。                                            

[生命]                                                      

すべての宇宙を内包する根源的な原理世界が最初に生み出した根源的な中間とは有機体(未来と虚空間を有する物質)。更なる世界観に生まれ出る思い(無限の角度に相反する距離に生まれ出ることができる=自由)を有する。すべての在るものが有する生命という形態とは到達すべき相反する結果の総量に到達しようとすることそのもの。宇宙には物質と同時に思いに生まれ出る生命が在る。宇宙のしくみは生命を除外しては探せない。

生命の始まり(すべては3次元世の総体という世界観に生まれ出る=今ある生物だけが生命ではない)

今の宇宙にある素粒子たちは前の宇宙(世界観)に到達し更なる世界観(今の宇宙)という時空間の始まりに光の単位(素粒子に到達しようとする)として生まれ出た。素粒子は更なる世界観という原子の内界に生まれ出て原子という外界を知らず、原子は内界に素粒子を認識する。そして原子(元素たち)は更なる世界観物質という分子の内界に生れ出て分子という外界を知らず、分子は内界に原子を認識する。そして分子は物質の集約と拡散という到達すべき世界観に生れ出ようとする生命の形態(未来と虚空間)の内界(時空間)にあり、自身を存在させる外界を知らず、そして、その外界に到達しようとして更なる結果を得る連続の積み重ね。生物を生命とし鉱物や金属等を物としているが生物という世界観に生まれ出た意識がそう感じるだけであり根源的には同じ生命の形態を有している。生物の中にも生命を維持するための鉱物や金属が作用している、生物と鉱物や金属が根源的には同じ生命という形態を有しているから相互作用を有し生物という生命を維持している。生物(生命)たちは量子の形態(原因と結果が同時にある)という結果に到達しようとする(連続する意識=思い)に生まれ出た結果であり、思い(世界観=同時)の内界に在るものは結果を重力・引力・物理的な力として表現されつが、それこそが思い(生命という形態)であり今も結果量を積み重ねている途中。目的(未来)と、表裏一体にある、存在(虚空間)という量子の形態が相互作用(意識=重力)を有し体験という結果を生み出し、連続する意識に結果の認識を積み重ねること自体が生命という形態であり生命がいつ誕生したかとは、今の宇宙に素粒子が生まれ出ようとする以前からあるもの。

肉体は、ななぜ滅びるのか(答え=秩序を失い、相反する、均等=秩序に向かう途中という無秩序

海洋生物が陸に上がろうとする目的(未来)と存在(虚空間)を得て結果量に到達するための内訳として、物をつかもうとする物理的な力の行動となり、得た結果(答え=有機体)の積み重ねが必要とする機能(形)を生み出す。魚のひれが行動結果し、骨となり、骨が行動結果し関節となる、そして人間の体が有する手となった。生物は行動するのではなく生まれ出た結果の連続の積み重ねが行動と思えること。私の心臓も、その肉体を維持するために、もっとも効率の良い対策として行動結果を積み重ねた答えの総体。私の手も、心臓も、その他あらゆる私の肉体を作り出すものは私の祖先が進化という到達すべき結果の総量に向かい生み出し続けた結果の積み重ねの総体。私の体のすべてのものは生命の得た未来と虚空間により今に生まれ出た答え(過去の総体=世界観=今あるものの前提)であり、必要という機能(形)を維持する。私の肉体が健康であり生きていくために何の支障もなく、そして突然に死を迎えたとしたら。私の手と心臓その他あらゆる私の体を作り上げている答えたちは、魂(答えの総体を同時に認識する)を失い、次の世界に生れ出ようとする未来と虚空間も失う。生まれ出た答えたちは必要とされていた機能と形を維持する必要がなくなり、私の手も心臓も、その他のすべての答えもまた、機能(形)を失う。すべての在るものとは均等を失い、結果(認識=求めた機能という形=収束)に生まれ出る。そして形あるものは、その答えを失い均等(未来と虚空間を有さない)に帰る。それが私たちの世界では肉体が腐り土に帰るということ。

何が残ったのか

命(物質)が生命(未来と虚空間を有する物質=有機体)となり生命の総体という魂(認識の総体))を失い、また基の命(物質)となる。人間が絶滅したら何が残るのか。生まれ出た命(生命)を終え基の命に帰り物質と同じになるのならば人間が生まれ出ようと生まれまいと何も変わらなかったことになる。では生命の目的は何だったのか。そこに残るのは根源的な生命の総量(答えの総体)の内界に生まれ出た、内訳という生命(答え)たちが根源的な生命の総体を形つくる。それが人間を始め生命という形態を有するものが存在する意味なのだろう。そう考えると建築物とか機械などは人間の必要という目的に生まれ出た生命の形態を有するもの、生命(必要とされるもの)の作り出したものは同じ生命の形態を有するものなのかもしれない。必要とされる機能(形)が生まれ出る、人間と同じように行動結果を生み出し、そして消えていく。私たちの社会も別々の人間がただ集まっただけではなく相互作用(意識)を有し、その行動の結果の総体で答えを生み出すという、ひとつの生命体とも言える、そして生まれ出て消えていく一生。

命(原理世界ごとに完結する=物質)が永遠に存在するものなら生命(未来と虚空間を有する物質)は、その生の終わりという死がやって来る。生物は、この世で一番小さな生命(一生)の相互作用を有する集積体とも言える。一番小さな生と死が連続し積み重ねられ生物が成り立っている。だから他の生をいただき(食べ)、新たな生を補給し続ける。別の言い方をすれば、均等(物質とその虚空間で一対)の世界に重力(結果の総量に到達する=意識)が作用し物質の集約と虚空間に分かれた。そして物質(質量)は物理的な力の移動(質量の総体=距離の総体=速さ)を有して均等(原理世界の一辺=光の速さ)に帰ろうとする。生命も含めその根源は皆同じものとすれば生命も常に流失し薄らいでいき均等に帰ろうとしているのかもしれない、それを食い止めるのが生命の維持という新たな未来と虚空間を得ること 。               では不幸にして突然の死を迎えるということはどうなるのか。相互作用を有する認識(答え)の集積体=魂。生(未来と虚空間)が突然奪われれば意識の連続はなく、この世に存在していることが認識できなくなる。生まれ出た結果の総量を残し、到達しなかった目的量(未来)に、稼動しなかった存在量(虚空間)と共に生を終わらせる。しかし意識(答えに到達する)の総量に到達せず残りの意識量が残っているのならば、残りの目的量(未来)と、表裏一体にある、存在量(虚空間)という新たな原理世界(世界観)に生まれ出る。若くして死を迎える、また寿命を全うして死を迎えたとしても、魂(到達すべき答えの総量)は遥かなる未来と虚空間という根源的な思いにある。そして結果(答え)の総量に到達するまでは何回でもこの世に生まれ変る。                                                                  卵をかき混ぜる。ひよこ(世界観)として生まれ出るための未結果の総体(未来と虚空間)を有し、しかしかき混ぜられた卵は未来と虚空間を失い更なる結果を生み出せない。得ていた生命という形態(秩序)を失い、相反する、均等(無為秩序)に向かう。生命の流失であり、しかし人間に食べられた均等に向かおうとした生命たちは新たな答え(存在する理由)を得て新たなる世界観(生命の総体)の一部になろうとする。それが栄養という根源の姿。

なぜ死ぬのか(死ななければ更なる世界で生きられない)

結果の総体(認識=質量=今=無=物質=世界観)は、今を失い更なる結果の総体(認識=質量=今=無=物質=世界観)に生まれ出る連続の積み重ね。今(認識=存在)とは生の総体という死であり、更なる死(認識=存在)に到達するために命の連続(時空間)という生命に生まれ出る。未来と虚空間の内界に連続する意識に認識される結果(死)という今に在るものは今のままではいられず破壊が前提であり破壊がなけば更なる今はない。                                      人間も生(結果量)を得て、死(結果の総量)に到達し更なる原理世界(世界観)に生まれ出る。では私たちを必要とする根源的な思い(答え=必要とするもの)とは。人間の体は新しい細胞に入れ替わりながら今の肉体(必要とされる機能と形=答え)を維持する。今の形を維持するために古い細胞は、その役割を終え死に到達する。自身という細胞が死を選ばす、そこに存在し続けようとすれば物質(無限の結果量)に生まれ続けようとする。結果(物質=細胞)が増幅し、他者という細胞の位置付けを犯し進化の過程で得た必要な機能という形(答え)を維持できずに死に至る。私たちを必要とする根源的な生命(世界観)がひとつの原理上にあるならば自身という生命(答え=世界観)を維持するために内界に生まれ出る生命(答え)たちを必要とし、同時に更なる自身という(答え=更なる世界観)に生まれ出るために死を求めている。

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なぜ人間になったのか(生物という進化の次にある、相反する、知識という進化=知らなくなった分の疑問を得る)

生命(生物)は根源的な目的の総体(すべての概念量を有し静止する)と、表裏一体にある、根源的な存在の総体(すべての演算量を有し静止する)という相反する矛盾の無い世界が相互作用を有し到達すべき結果の総体に向かおうとする矛盾(物質と思いの間)の中に生まれ出た。更なる宇宙(世界観)に到達しようとする未来量と虚空間量を得た物質(有機体)。生命(生物)として生まれ出て体験を積み重ね矛盾のない知の総体に向かい、知恵(結果=認識=知る=有機体=進化)を積み重ねる。それが人間以外の野生の生物たちであり、矛盾の無い世界の一部を失い、矛盾の一部として生命(生物)となる、そして人間は更なる矛盾の世界に入り込み、更なる矛盾の無い世界を忘れる。分かっていたものを忘れるから、そこに疑問が生まれ出て得た答えという知識(物欲=疑問と同時に得た答え)の進化に向かう。生物の進化とは生き延びることと、子孫を残すという生物の根源的な目的(更なる機能と形を得る)であり、相反する、知識の進化とは得ていた生物という体験(答え=知恵)を失うこと(生物としての退化)。人間以外の生命は知識を有さず自身の得た知恵(答え)の総体で外界を認識し、人間は、その外界とは何かを知ろうとして、相反する知識の積み重ねという新たなるステージに生命の進化(退化)を重ねる。なぜそのステージを得たのか。すべては相反するもので一対という原理が相反する結果を積み重ねるという二重螺旋の世界。人間は、知恵(答え=進化)という種の形態としての総量に到達した、それと同時に、相反する知識という進化に向かうためのアイテム(疑問)を手に入れた。それは向かわなくてはならない答え(生まれ出るであろう結果量)をもう得ていること。すべての結果の発生がピラミッド(円錐)という形態であれば地球上の生物の進化の頂点に立ち、同時にすべての生物の存続という責任を得る。そして知識を使い物質文明を作り上げ、相反する矛盾(人間が作り出したことにより、新たなるものを作らなければならない)を知る連続の積み重ね。便利そうなものを造り続け、相反する不便(矛盾)なものを同時に手に入れ、得た矛盾に新たな答え(知識)を得て、すべての生命の存続に役立てながら知識の総量に向かうのか。または得た知識を使わず便利そうなものを造り続け矛盾の総量に到達し地球上のすべての生物を巻き込んで生命の存続に終止符を打つのかは人間がどう思うかという、相反するもので一対という結果の総量(存在に概念を認識する)に生まれ出た時に知るのかもしれない。               人間以外の生物は限りなく均等の世界という小さな波(歪)にあり、あらゆる生物は共に同じ強さと弱さを有し、それで一対。一個の生物の強さと弱さで見るのではなく、その生物の総体という量(種)で見るもの。だから強さというライオンも、弱さというシマウマも共に繁栄を維持している。人間の知識を超える能力を野生の動物たちは有している。知識を得ていないから多くの知恵を忘れない。人間は得た知識を言葉と文字を使い自身が情報を得たり他者に伝える。しかし野生の動物は人間のような言葉や文字は持たない、しかし人間から見れば言葉とは思えない原始的な意思の疎通のように思えても、それは人間の言葉をはるかに超えたコミニュケーション手段であるのかもしれない。あらゆる生物(生命)は同じ理論を背景に有している。人間も人間以外の生物もその能力の見え方は違うが、すべては同等の能力を有している。

[進化]

生命とは得た結果(体験)に生まれ出た知恵(答え)の総体。そして更なる生命(世界観)に生まれ出たものは知の総体の内界に、相反する、知識の総量に到達しようとする。人間が得ようとし続ける知識の前には知の総体があり知識がそれを超えることはできない。

生物はなぜ進化できたのか(更なる世界観に連続する=宿命)

生き延びること、そして子孫を残すこと 、生命(生物)が生まれ出たと同時に到達すべき生命(生物)の総量(進化)に生まれ出るという欲求(思い)がある。今の宇宙が生まれ出たという意味(必要)があるのならば、その内界にある生命が更なる世界観に生まれ出る連続の積み重ねは宿命(必要とするものの総体の一部となる)であり、新たに得た結果量という生命(答え)を自身(内界)に積み重ねていくという生命存続と進化の原動力。私の指にある細胞のひとつは自身が人間という指の一部であることは知らない、しかし存在するという答え(必要)を得ている。自身(内界)という細胞と他者(外界)という細胞が相互作用を有する連続の積み重ねにより指という世界観に到達し、そして更なる手という世界観に到達する連続の積み重ね。人間のすべての細胞は相互作用を有し更なる世界観に生まれ出て到達すべき人間という世界観に向かう。そして人間(あらゆる生命)も更なる世界観に到達しようとして連続するもの。                                                            何も人間(生物)だけでなく、あらゆる人間が必要とした機能(形)という機械や建造物もすべては更なる世界観に生まれ出ることが進化であり、更なる世界観(結果量の総体)に到達するための内訳(内界)に物理的な力の移動(結果の連続の積み重ね)がある。

進化する(今に到達する)

海洋生物が陸上の生物となる。陸に近い浅瀬にある海草や岩などをかきわけ魚の鰭が手や足に進化する。周りの環境に適した形に変化する、それが進化だということなのだろうが。進化するとは海洋生物が海洋生物である今、陸上生物になろうとする目的(概念量=未来)を得て、同時に、存在(演算量=虚空間)があること。そして結果(有機体=機能という形)を積み重ね結果の総量に到達しようとする。生まれ出た自身が今あることは生れ出ようとする答えをもう得ていたこと。そして行動するとは得るであろう結果の総量(答え=世界観=3次元の総体)に到達しようとして内界にある結果の連続(時空間)を積み重ねている。未来にある(機能という形=世界観)を得るために、今ある過去の結果の総体(機能という形=世界観)を維持する。だからあらゆる生物は、今という形を維持し、そして過去にあった形も同時に有している。答えに到達するという生命という形態(未来と虚空間を有する物質)は人間をはじめとする生物だけではなく今の宇宙が到達しようとする世界観の内界にあるすべてであり人間の作り出したあらゆるものも同じ、そして根源的には道端に落ちている石ころも同じ生命という形態を有する。                                          すべての在るものには意識がある。意識の根源は理論(概念を存在に認識する)そのものであり、その理論は重力(結果の総量に到達する=意識)により稼動する。生物たちは人間でいう五感を使い廻りの環境などの情報を収集し意識を使いひとつのイメージとして認識(同時)する。その情報は私たちの世界を生み出している理論と同時にある。生物の欲求(必要)は、その理論を稼動し、そして生き延び、子孫を残すために一番効率の良いとされる答えを得る(最大の効率=必要最小限)。そして得た答えの内訳として生物の体が変化(結果=有機体)の連続の積み重ねをする。思い(概念量=マイナスの真の物量と、表裏一体にある、演算量=プラスの真の物量)を稼動するという意識(重力)は、見て、触れていると思える物質世界(結果=質量)という片側(虚空)の世界にはない。

鳥は鳥になるべくしてなったのか

鳥は進化の過程で鳥として今の形になっていったのか。鳥だけではなく人間も含め、あらゆる生物はどうして今の形を得ることができたのか。周りの環境の変化に対応する進化をしながら結果的に空を飛べるようになった?それは現在の形を目指さず、その時の環境の変化のみに対応する身体を変化させて行ったことになる。ならば羽はいつから羽だったのか。ある日突然、進化の過程で羽と言えるものになったのか、そうは考えにくい。羽ができるまでの経維があったはず。では、その経維とは。鳥を目指していないのに、その羽を形作る経維は必要だったのか、今の形が最終目的の形とは思わないが少なくとも空を飛ぶための最高のメカニズムを有しているはず。行き当たりで進化を繰り返して今の世界で生き延びることと、子孫を残すという最も合理的な身体が得られるのか。そこには当初から空を飛ぶという目的を有していたはず。地上を歩いていた生物が意識を使い集めた情報をイメージする。そのイメージ(想像=現実)は理論と同時にあり、その生物がこの世に存続するという欲求(結果の総量に到達する)を原動力に新たな生き残りのための生物を描き出す。それが空を飛ぶことで、この世に存続する確立を高めた生物だと理論が認識(必要最小限とは最大の効率=疑問と答えは同時にある)した時、鳥という新しい種(存在容量)が生まれ出る。                                                          あらゆる生物が、その生命を維持するための最高とも思われる性能を有している、それが偶然とか突然変異であればマイナス面はないのか。すべてが、その生物に有利なものであれば、それは偶然とか突然変異ではなく、起こるべくして起きたと言うほうが自然な考え方と思う。目的(未来)の総量と同時に、表裏一体にある、存在(虚空間)の総量がある、そして今とはその途中という結果の積み重ねの総体にある。キリンの首は高いところにある餌を得やすくするために進化の過程で首の長い生物になったということは、高いところにある餌と食べて生命の存続を図るという答えを得ていたこと、そして到達すべき結果の総量に向かい内訳という結果(機能という形=進化)を積み重ねる連続。そして鳥は鳥になるべくしてなった。

脳(意識が結果という物質脳を認識する=認識の前には未来と虚空間という思いがある)

人間は直立歩行をすることにより脳が発達し今の進化が得られたと聞いたことがある、そして人間を理解するには脳を理解すればよいと考えられているらしい。すべての生物(生命)は脳又は脳に順ずる機能がすべてを支配している、そして心(思う)までもが脳から作り出されていると現在の脳科学では考えられているらしい。すべては相反するもので一対(ひとつのもの=同時)であり、無数の同時が相互作用を有し更なる、ひとつになろうとするとしている。しかし現代科学では宇宙はひとつで完結することを前提に考えられているようだ。ではひとつのものが稼動(動く)するのか、また、ひとつの世界で、すべてが完結し、そして私たちの世界は物質が現実だとして捉えられているとすれば、すべてが物質として考えなければならない、では触れることも見ることができないものはどこにあるのか。何かを思う、それを脳が作り出したものであれば、その思う、はどこにあるのか。仮に脳が新たな要求に対して今までに記録された情報をもとに新たな結果を生み出すとしても新たな情報を取り入れるようとすることは単なる情報蓄積と計算機能にはできない。思うためには、そこに到達しようとする目的量(外界=自己という内界にはないもの=疑問)がある、そして重力(結果の総量に到達する=意識)により稼動し、到達しようとする結果(答え)の総体は、すでに同時ある。脳とは結果(認識)であり物質。結果の連続の積み重ねという脳(物質)の機能を観察すれば脳が結果を出しているように観察結果は出る、しかし生まれ出た今ある物質(結果)には目的(未来)と、表裏一体にある、存在(虚空間)という原因(量子という形態=未結果量の総体=結果の総量に到達しようとする=連続する意識=思い)が前提にある。そして結果に到達しようとする意識の連続がなければ脳が活動したという認識の連続もできない。脳は、脳のみで新たなる答えは生み出せず、まして想像はできない。過去がなくては物体は移動できず、現在は過去と同時にあり、未来が同時になければ新たな結果(答え=物質)は生まれ出ない。物質の根源は光の単位(今の宇宙にある前提=世界観=素粒子に到達する)であり、物質という世界観の内界にある時空間に完結する。生物(生命)は到達すべき世界観(未来の総体)に連続し、過去という今を認識する。物質は光の単位という世界観にあり自身という姿を認識できず、生命は到達すべき世界観にある意識で内界に生まれ出た結果を認識する。だから自身という姿を認識できる。物質は自身が稼動する姿を見れず、生命は自身の稼動する姿を見ることができる。だから脳が活動する姿を見ることができる。そして到達すべき世界観に連続する意識(重力=未来と虚空間=未結果量の総体=量子という形態=生まれ出るであろう結果=思い)に過去の総体という記憶があり、そして未来を想像(到達すべき答えの内訳)することができる。

[現実にあると思うこと]

考えても何も起こらない、何かを思う(目的=概念量=真の物量=在るもの=未来)とき、それは稼動(存在=演算量=真の物量=在るもの=虚空間)する。

多世界(真の物量の総量=量子という形態がひとつの質量という世界観=思いに集約される)

私が一歩前に歩き出した時、それは光の単位が生み出そうとする原理世界の結果の総量の初めのひとつという得た結果(今)から始まる。それは物質(素粒子)に完結(結果の総量)するまでの内界にある結果の連続(時空間)であり無限の角度と相反する距離に結果することができる。未来とは一般的には現れた結果(今)ではなく、これから結果が生まれることとされている。ここに原理世界の有する未結果量の総体があるとする、そして私はまだどこの結果量に向かうか決めていない。目的を有していない今とは未来が無い世界であり、そして何もない結果量に進もうとする虚空間もない。そして私が結果(質量)の粒、一粒分を進みたいと思う方向に進もうと思う(目的=概念量)時、表裏一体には存在(虚空間=演算量)があり、そして原因と同時に結果(質量)は存在する。しかし私が前に進むかどうかは進むまでわからない、あらゆる方向の未来(目的)があるから。私が思う時、私たちの一番近い未来(原理世界の完結)の内界には生まれ出るであろう結果の総量(多世界=同時)があり、その多世界中で私が選んだ、ひとつという未来に到達(結果位置)し原理世界が生み出した結果量(質量)は認識(今)に収束(物質)し、相反して、到達しなかった未来と虚空間(相反する真の物量=原因=量子の形態)は均等として同時(表裏一体)にある。                                                               得た結果量(質量の総体=同時=物質)と、相反する、未結果量(相反する真の物量=同時=未来と虚空間=原因=量子の形態)を原理世界の完結(同時)という一ページに記録したのが私たちの感じる一番短い時間。そして私たちの感じる一番短い未来よりもっと短い未来が原理世界(光の単位)の生み出す結果の総量の内界に生まれ出る一粒分づつという結果量。原理世界の完結以前に私たちの感じる時間はない、それは相反して、あらゆる可能性に生まれ出るであろう結果量が、もうあることと同じこと。

同時の内界に過去と未来がある(過去と未来は今と同時にある)

物質は結果(質量=原理世界の完結)の連続により、そこに存在しているように思えるものであり結果を認識する意識の連続が真にあるもの。物質がある点より別の、ある点に移動できることは結果の積み重ねの総体(同時に認識する)の上に成り立つこと。そして未来と虚空間が無ければ更なる結果(認識)という今を過去に積み重ねる連続はない。認識とは得た結果量の総体(均等=同時)と、相反する、得ていない未結果量の総体(均等=同時)の間(歪)にあり。過去の総体は自己の内界に積み重ねられた結果の総体(記憶=同時)となり、相反する、未結果量の総体は自己の外界に得るであろう結果量の総体(未来と虚空間=同時)として見ることも触ることもできず感じる。                                                                                                     今(結果=認識)には過去に使い果たした未来と虚空間(量子という形態=原因=思う)はもう無い。割れた卵を元に戻そうと考えても、基に戻そうと思えない者(未来と虚空間を有さない=原因が無ければ結果もない)には卵を元に戻すことはできない。宇宙はすべての未来と虚空間を有し、すべての結果を得ていないという秩序から、すべての結果を得て未来と虚空間を失うという秩序の到達しようとする。その間に無秩序があり卵という到達した目的(秩序)が割れて無秩序(目的を失う)に在るとは、秩序(すべての未来と虚空間を失う=均等)に向かおうとする途中にあるもの。                                                            人間の胎児は魚のような姿を経由して今の人間の姿になろうとするらしい。進化も積み重ねの総体であり今という姿は積み重ねられた進化という結果の総体を同時(今)に認識(知る)すること。今とは今だけにあるのではなく過去と、相反する、未来と同時にあるもの。                                             

同時(すべての在るもの=同時=世界観=ひとつのものは内界に時空間=ひとつのものではないを有している)

素粒子(物質=世界観=同時=ひとつのもの)には世界観(ひとつのもの)に到達するための時空間(結果の総量に到達する=重力=意識)がある。原子核(物質=世界観=同時=ひとつのもの)にも世界観(ひとつのもの)に到達するための時空間がある。そして分子(物質=世界観=同時=ひとつのもの)には世界観(ひとつのもの)に到達するための時空間がある。すべては同じ原理で稼動し更なる世界観(3次元=進化)に生まれ出る連続の積み重ね。素粒子(前の宇宙に完結し、今の宇宙の前提)という光の単位の内界で稼動する1次元(認識単位)は生命に置き換えればひとつの細胞(あらゆる機能に変化する)にあり、原子(物質という概念に到達する=2次元)はあらゆる機能という形のひとつづつとなる。そして生物という機能という形の総体が3次元(世界観=同時=ひとつのもの)に到達しようとし時空間(生命活動)に稼動する。すべては相反するもので一対(同時)にある。生物(ひとつのもの=同時)は細胞の総量(時空間)にあり、細胞の生まれ出る総量(時空間)に生物の寿命(同時=ひとつのもの)がある。

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過去と未来は同時にある(運命の総量に到達する=宿命)

すべての在るものは根源的な目的量(未来=均等)と、表裏一体にある、根源的な存在量(虚空間=均等)に到達しようとして、結果の初めから、相反する、結果の総量という終わりへ向おうとする不均等(結果の認識=歪)を連続する意識(重力)に積み重ねる。すべての未来と虚空間を有し静止し、すべての結果を得ていないものから、すべての結果を得て、すべての未来と虚空間を失い静止しするという相反する同じものになろうとしている。しかし結果の総量に到達しようとして今は結果の総体の一部とはならない、あらゆる外界と相互作用を有するという不確定の生み出す結果の総量として結果(ひとつ=同時)となる。今の宇宙が結果の総体(宿命)に到達するという、内界にある私たちの結果の連続の積み重ねとは、いまだ疑問(運命)の中にある不確定な結果の積み重ねの連続。過去と未来は同時にある、しかし、すでに在るとする未来と虚空間に結果は確定しているのではなく、生まれ出るであろう運命の総体が宿命という結果として確定しようとしている。宿命とは決まっている世界に到達するのではなく、到達する世界に決定する。どのような結果に生まれ出るかは、分からないが必ず到達する世界はもうある。                                     人間が必要とする思い(目的)の内界に生まれ出た浄水場の水は、到達すべき蛇口から出るのが宿命。しかし、どこの水道管を通り、どこの蛇口に出るのかは分からない。しかし水道システムという概念に生れ出るという水の宿命に変わりはない。また、1円玉が100個あるとする。1円づつ数えて到達する宿命とは100円。しかしどこの1円だまを順番に数えるかは決まっていない(運命)、しかし運命の総体は100円という宿命に到達するというようなこと。                                    今は過去と未来と同時にある。始まりと終わりが同時にあるとは光の単位(虚距離の総体・虚速さの総体・虚時間の総体が同時にある)と同じもので、その内界には得た結果量と失う未結果量が表裏一体(同時)にあるという時空間がある。生物という身体の始まりが細胞のひとつずつとすれば細胞の相互作用を有する総体という生物の身体は同時にある。未来に生まれ出るとは過去の積み重ねの総体として今(同時)にあり、そして、今とは更なる世界観に、すでに到達(同時)していることなのかもしれない。

あの世(物体が動くという根源的な原理)

得た結果量(認識=質量の総体)という物質と、相反する、得ていない未結果量(認識できない=稼動しなかった未来と虚空間=相反する真の物量の総体=量子という形態=原因)が表裏一体(同時)にある。そして生まれ出るであろう結果の総量に向かい更なる未来と虚空間に還ろうとして物理的な力の行動となる。私たちがどこかへ行こうとした時、自身で歩くか、自転車・自動車に乗るか、何を利用してもよいが目的地に向かい移動する。仮に自動車に乗り目的地に着く。人間が必要とし生まれ出た自動車という答えの内界にある、あらゆる部品のひとつずつが必要とされた自動車という答えの総体(世界観)に向おうとするもの。自動車を使い目的地に着くとは、必要とされ生まれ出た自動車が自身を存在させる答え(自動車を必要とする思い=外界=更なる世界観=あの世)に帰ったこと。それは私が自動車に乗り自動車の有する速さと共に私の移動する姿が生まれ出て、そして私という認識の総体に自動車と共にした行動結果(体験=答え)が新たに積み重ねられたから。私が自動車を降り自動車は新たな結果量に生れ出ず、そこに止まっている。しかし私が自動車に乗って移動したという結果と記憶は残り続ける。私が、この世で新たな目的を得なかったら新たな結果に生まれ出る必要はない。人間が作り出した機械でも、それに目的量が生まれ出れば新たな結果量に生れ出ようとする、それは、すべてに共通する生命という形態(未来と虚空間を有する物質)を有しているから。すべての物質が新たな行動結果に生れ出ることは自身を必要とした答え(あの世=更なる世界観=外界)に還ることであり、すべての宇宙を稼動するエネルギー(意識=重力=結果の総量に到達する)により稼動する。この世に生まれ出て、生の総量という死に到達し結果の総体としてあの世に帰る。0(無)より、1〜9を経て、今の世界のすべてという、1(ひとつという総体)に到達し更なる0(無=認識)に帰る。それが10であり更なる10進法(世界観)に無(結果=認識=存在)を積み重ねる。死とは生命の死のみをいうのではなく、原理世界(目的=未来と、表裏一体にある、存在=虚空間)の生み出した結果の総体(今=世界観)の完結であり、生命(生物)以前にある命(物=物質)も生と死の連続にある。すべての存在は結果の連続の積み重ねの総体であり過去(前世)が今(現世)と同時に無ければ物資は移動することはできず、すべてがひとつの原理上に稼動するものであれば人間が生をの総量を経て死に到達したならばあの世に帰りそして来世に生まれ出ることになる。仮に人間が死んだら何も残らず、あの世も何も無いとすれば今の宇宙にある、すべての物質は動かない。

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光速度不変とは相反する不変の距離の同時に到達すること。光とは未結果量の総体(量子という形態=生まれ出るであろう結果の総体=同時)であり、その同時の内界で得た結果量(認識=質量の総体=同時=体積=物質)と失う未結果量(認識できない=虚距離の総体=虚空間)があり、しかしその合計という総量は変わらない(時空間)。光に速さは無く、虚距離・虚速さ・虚時間の総体が同時にあるもの。不変という相反する距離の中で変化する相反する距離(相反する結果量)の増減があるだけ。物体の進行方向にある縮んだ虚空間にある光はゆっくり(小さくなった未結果量)進み不変の距離に到達する(時間が遅れると観測される)。そしてすべてが小さくなった原理世界の虚空間の光の速さは変化していないと感じる。物体の進行方向の反対側にある膨張した空間にある光は速く(失った虚空間と同じ量に膨張する虚空間という虚空間)進み不変の距離に到達する(時間が早く進むと観測される)。そしてすべてが大きくなった原理世界にあるの光の速さは変化していないと感じる。ニュートリノは光より速く進むと観測され、しかし光の速さを超えていないということになる。

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[日常について考えてみれば]

生命とは知る(答え)ことの積み重ねそのもの。そして生命の得た答えが知の総量(真理)のすべてを知恵に変換した時その魂をも終焉を迎える。

     動く(結果の総量に到達していない)

あらゆる陸地とつながる海、そして海でなくとも湖の対岸も、机の端から端までという距離も同時にある。それは物体の見た目の大きさとかだけに係わらず、思う(想像)という、見ることも、触ることもできないものも含め、すべての結果に共通するもの。日本から外国に行こうと思い、到達する距離の総体(同時)の中に入り込み距離の総量に向かおうとするから、そこに速さと時間という概念が生まれ出る。机は必要とする人間の目的により必要とされる機能という形に到達する。机を作成している途中は結果量(質量の総体=距離の総体=形)に到達していない、だから新たな形(距離=製作中)を積み重ねる、そして完成した机は到達した結果量という距離の総体を有する。そこに速さと時間はなく机のあらゆる端から端までの距離は同時ある、そして机に新たなる機能という形に生まれ出る、距離=速さ=時間は無い。では机に新たなる結果(形)が生まれ出るとは。机を移動する、引き出しを開けるなど机を使おうとする新たな目的量を得て、未来と虚空間に稼動し更なる結果量(必要とされる機能と形)に生まれ出ること。新たなる目的量と虚空間量を得て更なる機能と形という答えに到達しようとする机に、今という距離の総体は決定していない、だから新たなる形に生まれ出ることができる。それが私たちの世界では動く(移動=変化=結合=反応)ということになる。素粒子(世界観)は自身という原理世界が完結するまでにある結果量(質量)の連続する総量は有するが、しかし自身という世界観(物質に到達する=光の単位)ごとに完結するもの。人間を含めたあらゆる生物及び人間の生み出した、あらゆるものは、この世に生まれ出て更なる世界観(次の宇宙=原理世界)に生れ出ようとし、今という生を終えるまでの結果量(答え)を積み重ねている途中。今はまだ結果の総量に到達せず距離の総体ではない、だから私たちは端と端とを有さず到達した形(決定した距離)を有さないから更なる距離(結果=質量=同時=速さ=移動=行動する)に生れ出ようとして私たちは動くことができる。                                                                                 のこぎりには、のこぎりの先端から、相反する、根元という端がある。そして端から端を往復して切るという結果を生み出す。円形の刃を持つ電動のこぎり(丸のこ)は無限という円の世界を有し刃の寿命がある限り無限に切るという結果を生み出す。往復運動をするのこぎりに往復の総体(世界観)があるとすれば物質(認識形態=距離)という往復運動のすべては存在形態(結果の総体=円の総体)という球体の姿をしている。

死を直前に迎え走馬灯のように自身の人生を振り返る(結果という距離の総体に速さと時間はない)

死を迎える。人生という結果の総量となり次の世界の始まり(未来と虚空間)に結果(物質=自身)を認識する。この世に生まれ出て死を迎えるまでの、目的(概念)と、表裏一体にある、存在(虚空間)の相互作用(意識)を有した結果の総体であり、すべてが同時にあり、そこに速さと時間はない。人間が死を迎えようとする時、限りなく結果の総体に近づき過去の記憶(結果の積み重ね)が、ひとつの認識の総体(同時)になろうとする。だから過去の記憶がひとつとなりよみがえってくる。そして死に至れば、すべての行動結果の総体となり更なる世界観の内界にある時空間に生まれ出る。また死に至らず到達すべき未来と虚空間に更なる結果を得続けようとすれば自身という結果の総体(確定=同時)を失い、また結果の連続となり記憶は遠いざかり再び人生に生まれ出る結果の積み重ねをする。                              意識は今(結果)を認識し、そして過去のすべての結果も同時にある。仮に人間が光の速さに限りなく近い速さで移動したとしても自身の認識する姿に変りは無い。それは過去の結果の積み重ねの総体の一番最後の結果(今)を認識する連続だから。しかし他者から観測された場合は、ひとつの原理世界が完了するという結果の総体(連続)を同時に見ることになる。移動した距離という結果の数だけ人間の姿が連続するという距離(結果)の総体となる。日常の生活の移動をしても自身の姿は変わりなく見えるが原理世界の生み出す結果量までも観測できるとしたら私たちの姿は少しずつ連続していて、そして同時にあるのかもしれない。

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年齢を重ねると若い時に比べて月日の流れが速くなる(得た結果量と、相反する、得ていない未結果量)

得た結果量(認識=質量の総体=物質)は未来と虚空間を失い、意識は自身(静止する質量の総体=同時=無)という内界を感じない。そして相反する、得なかった結果量(未来と虚空間)を意識は外界(認識できない=真の物量=同時=有)として感じる。そして、その相反する両者は同時(表裏一体)にある。得た結果量(質量)が大きければ、相反する、概念量(未来)と、表裏一体にある、演算量(虚空間)は小さくなる、しかし相反する両者の総量は変らない。それが、すべての宇宙が稼動するために共通する原理。速さを有して虚空間が小さくなる、しかし光の速さの半分を得ても時間は半分にはならない。それは認識される速さ(結果量=質量の総量=距離の総体)は原理世界の結果の総体(六面体)の一辺を認識するからであり、生まれ出た速さの背景には3次元という体積(相互作用を有する結果の総体)があるから。仮に原理世界が1000という結果の総量に完結すると仮定して、いま得た結果を500とすれば、その500という結果のすべてが相互作用を有した結果の総体を自身が得て、そして相反する、500という得なかった結果のすべても相互作用を有するだろう未結果の総体=未来と虚空間)として同時にある。到達すべき1000という結果が相互作用を有する膨大な結果量があるならば、自身が結果の総量に到達する直前に加速度的に相互作用を有する結果量(時間)が増大する。光の速さに到達する直前でなければ、相反する、自身が得なかった未結果量(虚時間)は目に見えて小さくはならない。しかし極小ながら速さを有せば、やはり虚時間(虚空間)は小さくなり続けていることも確か。速さ(結果=質量=距離)を有すれば有するほど、生まれ出る結果量(時間)は増大していく。若者はまだ少ない結果量(時間)を有し、相反して、未来と虚空間に得るだろう未結果量(虚時間)を感じ。そして年齢を重ねたということは、そこに存在しているだけで多くの結果量(時間)を得ている。そして相反して、未来と虚空間に得るだろう未結果量(虚時間)は小さくなる。年齢を重ねると若い時より月日が速く流れると感じるとは自身が得た結果の総体(時間=内界=認識=質量=同時=無=意識は感じない)が、相反する、今はまだ得ていない未結果量の総体(虚時間=外界=認識できない=真の物量=同時=有=意識が感じる)が同時(表裏一体)にあるという、内界と、相反する、外界の対比量。

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人間は他の動物と話すことがでるのか

犬や猫は人間社会の中にいて何を考えているのか、人間の言うことはある程度理解しているとか気持ちは通じるとかもよく聞く、では本当の意味で意思の疎通は可能なのか。私たちの世界がひとつの原理により稼動しているものであれば宇宙のすべてはひとつの共通言語により組み立てられているはず。地球を含め宇宙の隅々まで共通したルールのもとに統制されていることでもある。物質であれ、言葉であれ、思考のような考え事に至るまで、すべては、ひとつの原理から発生する。だからこそ言葉と行動は一致し理論が正しければ現実とも一致する。私たちはその原理上に存るものであり人間も犬も猫も同じ存在。人間どうしでも日本語と英語では話しは通じない、しかし通訳が入れば内容は通じる。言っている内容は共通してあるからであり、物を手から離したら下に落ちるということを日本語でも英語でも話したとすれば言葉は通じなくても意味は同じであり物を手から離せば下に落ちることも現実として同じ。人間と猫との違いは日本語と英語の違いどころの話ではないが、どの生物であれ前に進もうと思えば前に進めるという現実がある、そして人間も他の生物も同じ原理上の世界に共存している。つまり前に進めるという共通言語を共有していることになる。もし宇宙の共通言語を理解することが可能であれば人間は他の動物と会話ができることになる。会話というよりは、もっと根源的な意識の疎通というようなものかもしれない。でも人間が存続している間にその共通言語を知識として解明することは難しいだろう。しかし、それはすでに存在自体で理解しているはず、現実に私たちは宇宙の共通言語を使い今の世界に共に存在し毎日を生きているのだから。それにしても人間は他の生き物たちと話せないほうがいいのかもしれない、それが可能になったとしたら他の動物を殺しながら生きていくことができなくなるのかもしれない。                                                                         生物はそれぞれの種の目的に到達するために新たな答えを積み重ねるという進化を続ける。それは更なる結果量(次元の総体=世界観)に生まれ出ようとするものであり、個々の生命の到達すべき次の次元の総体(世界観)とは地球上の生命の総体が得る結果の総体の内界にある。地球上の生命の総体が、その行動結果の総量(絶滅)となる時。すべての生命(生物)に速さと時間という物理的な新たな行動結果は生れ出ず、すべての生命(生物)の得た結果量の総体(同時)となる。その時、人間と犬や猫との意識の疎通を超えて、最も原子的な生物ともいえる細菌類たちとも、ひとつの結果に到達しようとした、それぞれの思いを理解し合える(同じものとなる)のかもしれない。 

生き物は皆平等

地球上だけでもいろんな種類の生物がいる、その中でも人間は他の生き物より脳が発達したようだ。宇宙の持つ理論(知)を知識として置き換えることができるようになった。そうすると物事を判断するための、いろいろな基準とかを作り出したりする。生物に当てはめると人間は高等動物であり細菌のような微生物は下等な生物ということになっているようだ。生物の進化は生き延びようとするもののイメージ(目的)により理論上から生まれ出た最高の効率(究極の単純)に到達しようとし結果を積み重ね身体が変化(進化)する。とすれば現在のあらゆる生き物たちは自分から今の姿を目指したもの。人間より下等だと言われている生物たちは、人間のもっていない多くの能力を有している。生物とは生命の総体で見るもの、そこに高等とか下等とかの区別は生じない。生命のすべての素はひとつであり、それぞれが微妙なイメージ(外界という環境から得た疑問=更なる答え)の違いから多くの生き物たちが誕生した。犬も猫も、その存在価値を問うとすれば人間とまったく同等の存在であるはず。私たちの世界で生命というものに意味(必要)があるのだとすれば、それは人類の滅亡でも、または猫か犬や、その他のすべての生物のひとつの滅亡でも今の宇宙を必要とするものからすれば、その損失に差はない。                                                                                           すべての生物は自身が生き行くために他の生物を殺して食べる、そして人間以外は自身が生きていくために必要な分だけしか食べない。人間だけが生きていく以外の欲のために他の生物を殺す。相反する未結果の総体で一対が、相反する結果の総体で一対に到達する、それは相反する均等に到達すること。海の波という不均等(稼動するもの)があれば、相反して、べた凪という均等(静止するもの)に到達しようとする。経済社会も一部にお金が集中するのではなく均等に近づくという小さな波の中で正常に稼動する。すべてはひとつの原理上にあり多くを得たものは均等に到達するために、それを還元しなければならない。人間は疑問を得て、答えという知識も得た。自身が生きていくために他の生命を殺さなければならない矛盾の世界に生まれ出て、生命とは何かを考える力を得たならば自身が生きていくために殺さなくてもよい生命があるのならば得た知識を使い守ることが相反するもので一対という原理世界でしなければならないことなのかもしれない。

壊れる(秩序=世界観=ひとつのものに到達し、相反する、秩序(均等=答えを有さないもの)に到達するために無秩序に生まれ出なければならない)

人間が作り出したものは時が経つと壊れて行く。科学と技術を前提とする文明社会の考え方では、その工作物の材料の劣化とか構造上の問題、環境などの影響により作り出したものには耐久年月があると考えられている。では、その耐久年月とは。すべての在るものは更なる世界観に生まれ出る連続の積み重ねであり、しかし時空間は到達すべき世界観の内界にある。今の宇宙の到達すべき結果の総体(世界観)の内界(内訳)に生まれ出た地球は生命という形態の総量に向かい多くの生物(結果量)を生み出し、そして結果の総量に到達し、相反する、生命という形態を失い続け、生まれ出た生物は絶滅する。生物のひとつである人間も自身という生の総量となり、相反する、死に到達する。人間の有する目的(思い)の内界に生まれ出た、すべての作り出されたものは結果の総体(完成)となり、しかし更なるさらなる未来と、表裏一体にある、虚空間という原理世界の生み出す結果上に存在し、結果として生まれ出なければならず、そして得た結果とは完結(完成)と、相反する、消滅(破壊)に向かう。それが人間が作りつづけるものと、相反する、壊れ続けるものが同時にあるという物質文明。                                                        素粒子は前の宇宙に完結し今の宇宙の前提(光の単位=世界観)として生まれ出る。そして原子核となり元素の総量(世界観)となる。素粒子も原子核も世界観に完結し、しかし更なる原理世界(未来と虚空間=原因と同時にある結果=量子という形態)に分子の総量に到達しようとして物体の集約と拡散という宇宙の活動に生まれ出ている。更なる結果に生まれ出るとは、今という完結(秩序)から、相反する、無秩序という今ある形を壊すに稼動(結果)する。しかし無秩序という壊れることの総量とは次の完結(世界観)という秩序に到達すること。すべては秩序(世界観)と、相反する、秩序(世界観)の間にある無秩序(時空間)に稼動するものであり、そのすべては同時にある。                                                                                                         では時空間にある生物(生命)の壊れるとは。生物は、この世に生まれ出て、そして死んでいく。生と死の間に結果の総量の到達しようとする時空間がある。人間を作り出す細胞(世界観)のひとつづつも同じことであり、その総体が人間(世界観=同時=ひとつのもの)となる。正常な細胞は生と死という必要とされる答え(存在理由)にあり他の細胞と共存し人間という機能と形を維持する。そして死を忘れた細胞(癌細胞)は自身という世界観(時空間)に到達し、しかし死を受け入れない。更なる結果を積み重ねなければならない癌細胞は同じ世界観を積み重ね増殖する。必要とされた答えを失い、しかし更なる結果を積み重ねるとは秩序から、相反する、無秩序に向かうことであり他の細胞とは共存できず自身を存在させている人間本体を死に至らしめることになる。                                                   しかし人間という世界観に到達するまでには細胞分裂という今ある世界観の外界という世界観に生まれ出る連続の積み重ねもある。すべては世界観に到達することであり人間という世界観に到達するまでには結果の総量という時空間がある。

物を粗末にするなという言葉

物質(命)は今の宇宙にある前提(光の単位=世界観)ごとに完結し更なる世界観に連続を有さない。そして更なる世界観に連続する(未来と虚空間を有する物質=量子という形態=思う=有機体)という更なる物質(生命)に生まれ出る。そして今の宇宙も結果の総量に到達し更なる次元の総体とい世界観に生まれ出て、認識(物質=相反する粒子=命)となる。今の宇宙にある物質の最小単位(素粒子)たちは前の宇宙という次元での生命の形態を有していたのかもしれない。人間が必要とし物質を利用し便利なものを作り出す、そして相互作用を有し、人間(生命)の行動結果という答え(体験)の一部になる。生命とは思えない道端に落ちている石ころも人間の作り出したあらゆるものも、必要とする思いに生まれ出て、そして必要とされる思い(結果)に帰ろうとする、すべての宇宙に共通する生命の形態を有している。すべてが生命という形態を有する同じものだから私たちは物を移動したり加工したり、そしてそれを利用したりすることができる。そして人間も含めあらゆる生命の形態を有するものは今の宇宙の行動結果の総体の一部となる。人間が物を粗末にすることは自身と同じ生命という形態を粗末にすることであり、それは自分自身を粗末にしていることと同じということなのかもしれない。

                                               [現代社会と原理世界]

無限なまでに思いを実現し無情なまでに結果を実行する。それが相反するもので一対という原理世界。生物とは知恵(進化)の積み重ねそのものであり、相反する、知識(退化)を積み重ねる人間は得ていた知恵を失い知らなくなる。物質に到達し思いを失う、思いに到達し何も生れ出ない。物質に到達せず、そして思いに生まれ出るという中間に物質文明の頂点がある。

知と知識(生命欲と物欲の間にある魂の位置)

目的(未来)と、表裏一体にある、存在(虚空間)の相互作用(意識の連続)が生み出す結果(認識=質量=物質)は自身が有していた未来と虚空間に入り込むという物理的な力(行動する)として表現される。それは物質が生み出す結果だけのように思えるが物理的な力とは意識(重力)という、すべての生命の活動の根源にあるエネルギーであり生物(生命)の到達すべき世界観(宿命)に連続している。生き延び、そして子孫を残すとは生命の総量に到達しようとすることであり新たな機能と形という知恵=有機体を積み重ねる=進化(思いの結果認識する)。そして知恵に、相反する、知識とは人間が得た疑問に生まれ出た答え。人間は得た知識を使い今までには無かった道具(必要とする機能と形=答え)を生み出し、その道具に更なる疑問を得て生まれ出た答え(知識)を使い更なる道具を作り出す。知識とは物質文明の生み出す疑問(矛盾)により更なる知識を積み重ねるという物欲の生み出すもの。生まれたばかりの赤ん坊は生き延びる方法(知恵)を有して生まれてくる。それは理論(知)の内界に自身が得た知恵(生物の進化)という量として入り込んだ状態と言える。人間社会での知識は有していないが知(矛盾の小さい世界)を多く有している。その反対に大人は自分たちが作り出した社会で生きていくための知識を得て、相反する、更なる大きな疑問の世界に入り込み、そして得た疑問とは何かを知るために更なる知識を得ようとする物欲の積み重ねている。今の若い人たちは秩序を守らない、常識を知らない、自分勝手に生きていけると大きな勘違いをしている、というのが大多数の大人の考え方のようだ。人間も生まれた頃は何も社会のルールは知らない、しかし生命としては大人が失った思い(存在している=必要とされる答え)を多く有しているとも言える。物欲を満たすために本来の生きものとしての本質(生命の進化=更なる多くの外界を見る)を置き去りにする。そして現在の子供も年を重ねるごとに人間社会のルールを身につけ人間が作り出した社会のしくみの中で生き抜いていく知識を積み重ね、そして相反して、思い(必要とされる=存在理由)を失って行くのかもしれない。生まれたばかりの赤ん坊も大人も魂の総体は同じ、しかし自身という魂(得た結果量=認識の総体)の置かれた位置が違う。魂としては大人より優れた子供に対し大人は人間の作りだした社会のルール(片側のみの結果の世界=物質世界=見て、触れると思えるもの)を教えようとしている。子供は現代社会で自身を存続させるための生活手段も異論に対抗するための論法もまだ身につけていない。人間社会で生きていくために物欲に追われ、それを維持するために人間(思い)を失いつつある大人が物質文明のみの論理でそのルールを子供に押し付けても子供は自身の魂(到達すべき世界観)を守るために、それに反発する。魂が押しつぶされそうになった時、暴力となり表れるか、または閉じこもりとなり表れるかは、それぞれの生まれ持った性格にもよるのだろうが現代社会は人間としてそれを受け入れがたいほど魂を失いつつあるのだとも思える。人間性を失いながら物欲の世界を拡大し、なおも人間性を失い続ける。人間として存続できる限界を超えた現在を子供たちは魂(生命)で理解している。間違った社会常識の中でいくら子供たちを良い方向に向かわせようという議論を重ねても間違った社会を認めず、その上に正しいと思える答えを上乗せしても、その合計の答えは間違った答えとなる。今の大人がこの世に生まれ出た意味を問い直し、物欲の世界の進む速さを緩めれば、相反して、人間として生きる力を取り戻せる。子供たちは大人の忘れてしまったものを、その身をもって教えている。大人は生命(魂)として優れた子供に教えてもらうことが必要。

半分(得るもの半分+得ないもの半分=文明社会の目指す頂点)

文明の発達によりいろいろとなことが便利になってきた。そして便利を求めるあまりに、その反動という、つけのまわってきた社会とも言える。便利なものを作り上げ更なる効率を求めて進化する。では効率とは。エンジンの最大の効率を生み出すためにシリンダー内のピストンは多くの面積を有する。しかし最大を求めてシリンダーと同じ面積を有すれば、それは一体でありピストンは稼動せずエンジンは無いものと同じになる。エネルギーを生み出す最大の面積とはピストンが稼動するための最小の隙間(エネルギーを生み出さないもの)と相反して一対という同じ量にある。人間が物質文明(見て触れるもの)の頂点を極めたいならば人間として精神(見ることも触ることもできないもの)の向上も同じ量だけ伴わなければならない。知識があっても体験がなければ、その知識は生かされない、また体験だけでも知識がなければ、その体験を多くの想像に生かすことができない、つまり半分ずつ。文明社会もその例外ではなく物欲のみにとらわれれば、その反対に精神的な豊かさは減少する。現実に私たちの社会は見た目には便利な社会のように思えるが、その実は自分たちの作り上げた物欲に追い立てまくられている。自動車が生まれ出て便利なものと同時に得た、同量のマイナス面を解消するために便利そうな信号機が生まれ出た。それは新たな物欲(知識)を生み出し続ける連続(負担の積み重ね)となる。疑問を得た人間が知識を求めつづけ文明を生み出したことは自然の流れとも思える。そして、せっかく作り上げた文明社会を失いたくなければ半分は生命(魂)としての生き方に比重を置くことが必要。どんなに文明が発達し便利なものを手にいれても、それを使う人間が便利と思える範囲を超えてしまえば手に入れたものは不便と同じことになる。

便利と不便(便利を超えれば不便となる)

いつから人間になったのか、簡単に考えれば疑問を持った時。仮にひとつの事柄にたとえると人間以外の動物は生命を奪うものとして火を恐れ、それ以上を知らず、火を恐れ火とは何かという疑問を持った時に人間となった。疑問と同時に答え(知識)はあり、そして得た知識は生命存続のために必要な知恵(進化)と、相反する、生物としての退化を積み重ねる。その途中の小さな答えが焚き火となり、火薬となり、自動車となり、現在では原子力にまで至った。将来到達すべき火(熱)の答えがどこまで続くのかはわからない。疑問と同時に知識(答え)を得て、その知識をもとに物質を応用し道具を作る。道具を作り目的に到達するための時間を短縮し成功の確立を高める。人間は道具を持ち自分より強く大きな動物と戦えるようになり、そして道具が無くても生き抜いていく強さを失っていく。すべてに共通する得たものと同じ量を失うという相反するもので一対という原理。自動車を作る。便利な乗り物であり多くの自動車が生まれ出て、相反するものとして交通事故、公害などの負の結果(矛盾=疑問)も得てしまう。それをを解消するための新たな答え(知識)の、ひとつに便利なように思える信号機が生まれ出る、そして、さらに多くの規制という速く走る自動車を速く走らせないという不便(答え)が生まれ出る連続の積み重ね。次々と出てくる新たな便利そうなもの、一見便利なようで同時に多くの不便がある。仮に地球上に人間が一人であれば法律は要らない、自分が法律、そもそも法律という考え方もない、自身の自由と、相反する、自由を有する他の人間がいることを知らないから。すべての答えの総体(矛盾のない世界)を失い続けることで物質文明という便利(不完全な知識=矛盾)が生まれ出る。思いを失い続け、相反する、物に向かう、物質文明が生み出した答えとは、すべてが物に向かう世界のように思える。次々と出てくる便利そうなもの。物欲という便利はいろいろと役に立つ、しかし物欲を無くせば、その便利とはもともといらなかったものとなる。

知れば知るほど知らくなる(知識と知恵)

疑問と同時に得た答え、そして更なる疑問に得た答え(知識)を積み重ねる連続。それにより人間は色々なものを作り出してきた。では理論(概念を存在に認識する)の持つ知がすべてであるとすれば、それを最大限利用しているものは誰だろう。物質は原理世界(光の単位)の生み出す結果の連続の積み重ねにより永遠に、この世に存在する。そして決められた法則以外の結果は生み出さない。科学反応とか物体どうしの衝突のような力の伝達ということの繰り返し、だから生まれ出た結果のすべてに矛盾はない。それは何も生み出さない命という段階。生命(未来と虚空間を有する物質=量子の形態=思う=有機体)とは到達すべき更なる原理世界(外界=世界観)に向かうとしている。人間の得た知識(欲)は、その得た知識と、相反する、失った知の合計で今という原理世界に位置する。人間は色々な知識を得て多くのものを生み出し文明を築き上げてきた、そして多くの悩みも抱えている。戦争をなくすにはどうすればいいのか、死に対する考え方はどう考えればいいのかなど。そして人間に対し文明を持たない野生の動物たち。彼らは人間とは反対(物欲ではなく生命欲)の道を進む。多くの知識を得た人間に対し多くの知識を得なかった野生の動物たち、その極みはウィルスのような最も単純な構造を有し生命として存続していくもの。しかし人間が知識を得たことで色々な問題や悩みが生まれたことと比較して考える時、ウィルスと比較してはあまりよくわからない。ではアフリカのライオンではどうだろう。彼らはウィルスよりは遥かに進歩した生物、しかし文明は築き上げていない。それは生き伸びることと、子孫を残すことという知恵の範疇にあると言える。彼らは生きるために縄張りを持ち、そして外部より縄張りを侵すものが現れれば戦い、その縄張りを守ろうとする。しかし、その方法は威嚇というものが主であり互いに生命を危険にさらすことはめったにないらしい。互いにルールを知りそれ以上の行動は起こさない。また縄張りを広げ、もっと多くの餌を確保しようとも思わないのだろう。縄張りが大きくなれば獲物も多くいる、しかし多くの獲物を大量に獲得する手段を知らない。そして、そんなに多くの獲物を獲得しても、それを何に利用するのかを知りらない。ライオンは獲得した餌を使い商売する知識はもっていないのだと思う。自分が生きていく以上の餌を必要とする文明(物欲)を持たない。また死に対しても人間のように色々なものを作り上げ楽しみを多く持ち、この世にとどまりたいという欲求などゼロとは思わないが人間の持つ多くの煩悩のようなものは持ち合わせていないのだとも思う。人間は知識を得て、相反する、更なる多くの疑問を得て死んだ後はどうなるのだろうという恐れのようなものも生まれてくる。しかしライオンは自分の生きていくための獲物をとれなくなれば自分の慈妙と悟り自ら死を受け入れ飢えて死んでいく。その時、死に対する恐れなどが無いとは思わないが人間よりはるかに小さなものなのかもしれない。多くの知識を得ない代わりに、その苦しみも少ないのだと思う。すべての結果(事象)の背景にある完璧な知(真理)の内界に人間の得た知識(欲)の積み重ねがある。その結果量に相反して理論の完璧な知(矛盾の無い)の形態は減少し、今は知識の総量に到達していない未完成という知識の総体がある。そこには到達していないという、知らないがあり、そこに不安や迷いという矛盾が生じてくるのかもしれない。知識のみが、知ることではなく、知らないことは、知っていたとも言える。

現実を知る(体験があって始めて知識に答えが存在する)

人間は生まれてから少年時代あたりまでに生きていくための多くの体験という答えを自身という魂(認識の総体)に積み重ねる。自身(内界)が、相反する、他者(外界)という人間や動物そして自然環境の中で体験するもの。しかし、その時期に現実を体験できないとしたら。現在では知識のみの教育という体験を有さない仮想世界を積み重ねながら育つと言っても過言ではない。言葉とは体験があり意味(答え)を理解でき、体験なくして、その本当の意味(答え)は理解できないのだと思う。そして現実の世界を体験する時期に仮想世界を積み重ねたら。自身(内界)は新たな疑問(外界=現実)を理解しようとする想像ができなくなる。その人間にとっては仮想(記号のみ)の認識と現実(得た結果=答え)世界が同時になり、どちらが現実なのかを認識できない。人を殺しても、その実感が無い、また自分が生きている実感を得ようとして自分の体を傷つける。一昔前では考えられなかった事件が多く発生している。それは、その人間(魂=認識の総体)に体験という多くの答え(結果=質量)の積み重ねが少なかったからなのだろう。多くの体験を与えられなかった人間は現実を知識で教えてもらっても簡単には理解できない。それは自身(内界)に積み重ねた答え(質量)の量が少なく新たな疑問(外界=世界観)を見る(意識=相互作用)ことができず新たな答え(想像)の積み重ね方が分からないから。現在社会は子供たちに本当の世界を体験させず仮想の世界を身につけさせた後で実体の無い言葉と文字という知識で現実を教えようとする。多くの体験(答え)を得ている大人(魂)たちの廻りには多くの答え(魂)たちがいたはず。大人が今の社会が思い(魂)と共にあることを前提に再構築すれば子供たちは放っておいても、人間(魂)として育つ。

TVゲーム(答えとは体験であり、知識だけでは答えを得られない)

コンピューターが出現して今やゲームにまで使われている。そして暴力的なゲームは子供たちに悪い影響を与える。暴力、殺人などを疑似体験し正しいことと悪いことの区別がつかなくなる、または、そのようなことになれてしまい現実にその行動に出ることがあるという話しも聞く。ゲームソフトを規制して子供たちが使えないようにしようとする傾向もあるようだ。生物たちは多くの体験を得て生命として存続するための知恵(生きる力=答え)を積み重ねる。まだ社会に出る知識を積み重ねる前に多くの生きるための体験(多くの世界を見ることができる)を積み重ねる。それが人間の基本的な生きるための知恵(力)となるのだと思う。多くの体験を自身という魂(認識の総体)に、さらに積み重ねるには自身という生命と同じものである自然が必要。いろいろな生き物に出会い、触れ、その生命たちの生と死を体験する。そして今は体験を有さない疑問を手に入れた時、今まで積み重ねてきた自身という答え(内界)の総量が外界という疑問と相互作用を有し新たな答えを積み重ねる。それが想像力(答え=質量がある)。現代社会は人間が少年期に多くの体験を積み重ねる時、コンクリートで覆われた環境の中で大人が作りだした決まりごとの道具で遊び、紙と言葉という体験を有しない知識を積み重ね、紙の上で知識のレベルを計るというテスト(架空)の積み重ね。体験を有しない知識を体験を有しないテストで高い成績を収めれば優秀とされる。そこに生命としての生き延びるための基本的な能力(内界に得た答え=知る)は積み重ねられたのだろうか。そして、さらにTVゲームで架空の世界を積み重ねる連続。今の大人たちが当たり前のように積み重ねてきた体験を積み重ねられない子供たちは多くの体験(答え)を有さず架空という知識を多く有する。多くのこと(外界)を感じる(意識する)ことができない。そして生き延びるための体験を当たり前のように積み重ねてきた大人が子供たちが生き延びるための基本的な知恵を積み重ねるための体験する場を更に破壊する。どんなに多くの規制を作り子供に悪い影響を与えるといわれるものから遠ざけようとしても大人のつくりあげてきた社会が変らないのであれば効果の無いことのように思える。どんなに暴力的なTVゲームも、どんなに教育的なコンピューターソフトであろうとも同じこと。その前に人間として生き延びるための体験という答えを積み重ねれば、どんなに悪影響を与えるといわれるようなTVゲームをしようと子供たちには良いことと悪いことを当たり前の判断の中で行い、そして架空の世界の遊びという区別がつく。

設定世界の総量(均等)に到達する(大きなひとつに到達し稼動しない、相反して、小さな複数にあり稼動する)

豆腐は大豆の加工品であり、それが豆腐だった。現代ではその栄養価が再認識されて色々な食品に応用されている。その中で豆腐アイスクリームもできたようだ。何も豆腐だけではなく、かぼちゃアイスクリームも抹茶アイスクリームもある。少し前の時代までは豆腐は豆腐だったように、あらゆるものが、そのままの時代が長く続いてきたように思う。あらゆるものは相互作用を有しながら融合していく。今までは豆腐は豆腐であった、それが豆腐とアイスクリームの間を埋める豆腐アイスクリームとなり新しい食品が生まれ出た。豆腐とアイスクリームに間があるとすれば、その間が少し埋まったと言える。企業についても異業種と組み合わせ新たなビジネスを生み出している、ここでも何かの間が埋まった。そして人間も一昔前までは、ほとんど出会うことがなかった外国の人たちとの出会いにより交流が生まれ、そして血が混じり、その間が埋まっていく。すべてのものはその始まりより加速度的に結果量に到達しようとする。それは悪いこととは思わないし文明が発達すれば当然の現れとも言えることであり、到達すべき結果量があるから私たちは稼動している。しかし、その結果の総量に到達することは、すべての隙間が埋まること。そこで、目的(概念=未来)と、表裏一体にある、存在(演算量=虚空間)を失い原理世界は完結し、ひとつのものとなり、それ以上は稼動しない。景気回復といっても、そこにまだ隙間があればまだ先はある。しかし、あらゆる事柄がその隙間を埋め続けている。また、そうしなければ今の経済が立ち行かないともいえる。隙間はどんどん埋まって行く。野生の動物たちは個々の強さで見るのではなく、その種の総体で見るものであり食べるライオンも食べられるシマウマも共に繁栄している。すべての生き物が対等の存在とすれば、半分の要求と半分の譲歩の世界。原理世界はすべての結果を半分(均等=相反する結果で一対)に到達するために稼動する。目的(物質という概念)と、表裏一体にある、存在(虚空間という演算量)という、相反する静止する真の物量が相互作用(意識)を有するという稼動をしなければ、そこには何も結果は生れ出ず、そして矛盾も生じない。しかし生物(生命)は自身(物質という肉体)を得て、相反する、他者(物質という肉体)を食べて自身の生を維持するという矛盾(稼動しなければならない)に生まれ出ている。野生の動物も矛盾を有している、しかし限りなく小さな矛盾(波)に位置し、それ以上の大きな矛盾に生れ出ず生命の存続という永遠ともいえる進化の道を進む。半分(均等)とは生き物だけではなく、すべての事柄に共通するもの。大きな企業があらゆる業種に手を出し大きな波となり、ひずみを拡大すのではなく、それぞれの役割という範疇の中で小さな波の総体となり経済社会の存続を図る必要があるように思う。今まで手に入れてきた文明社会を壊したくなければ、その隙間を保たなければならない。

取り返しのつかない永遠の負担(すべては生命という形態にある)

今の原理世界(時空間)に生まれ出た結果(答え)は次の原理世界(時空間)に生まれでなければならない宿命にあり、次の世界がないということは止まった世界であり自身の存在も認識できない。物質は光の単位(今の宇宙にある認識単位という時空間)ごとに完結する連続の積み重ね、そして生命は根源的な世界観に連続する時空間にある。生物が今、思うとは到達すべき未来(世界観)から過去という今を認識しているもの。そして物体は更なる世界観に連続せず、そして自身の思いにより新たな結果を生み出そうとする行動は起こせない。私が針金を曲げれば曲がったままという状態が続く、後は誰かが新たな力を加えるか、錆びたりするかなどの変化しかできない。では生命は。生命とは地球そのものにも言えることかもしれない、地球そのものとはいわなくても地球上の自然環境は生命そのものだと思う。そこにはとどまってはいられない生命という形態(未来と虚空間を有する物質=量子という形態=思う=有機体)、それはあらゆる可能性に生まれ出ようとする結果に向かおうとするもの。自然界でも、生の量より、相反する、死の量が勝れば、そこにとどまってはいられない生命という形態は死を拡大し続けることになる。そして自然界が死に向かうことに人間が気がつき修復に取りかかったとしても、そのひずみは原理世界の積み重ねの記録に残り無くなっていない。自然界を維持するために植林をしたり海を掃除したり人間以外の動物を保護したりしても、ひずみは残っていて常に進まなくてはならない宿命の世界で拡大し続けていく。人間は今まで何もしなくても自然界の保護を受けられたものを常に自然界を生の状態に引きもどそうとする途方もない負担を背負い込むことになる。

除菌(知を使い進化という知恵を積み重ね、相反して、知を使い退化という知識を積み重ねる)

すべての生命は私たちの世界を発生させた理論(知)を背景に有している。人間もウイルスや微生物も、すべては同じ量の生命存続のための知恵を得ることができる。人間は物質世界で多くの知識を得て、そして多くの矛盾を抱えている。そして知識を有さないウイルスは、多くを知らず限りなく矛盾の小さな世界に存在する。そして共に同じ知(理論)を背景に有した原理世界に生まれ出ている。人間が得た知識をもとにウイルスや細菌などを殺すための薬を作り出す。しかしウィルスや細菌類は人間の知識と常に対等な知恵に位置し、その薬に対抗する新たな姿に変化していく。しかしウィルスや細菌は人間や他の生物等を絶滅させようとは思っていないはず。すべての生物を殺してしまえばウィルスや細菌類自身も存続できないという、相反する量の世界を知っているから。人間は文明を発展させ少しでも人間に害を与えると思うものを排除しようとしている。しかし地球上に有害生物などはいない。人間にとって有害な生物ではなく人間が地球上の生命の総量の内訳のひとつだという範疇を超えたから、有害でないものが人間の欲の世界では有害となる。すべては人間が始めたこと。人間以外のすべての生命は自身の存続する範疇をわきまえている、それは得るものと得ないもので一対という均等のルール。人間がウィルスや細菌を殺そうとすれば彼らは生き延びようとして対抗手段に出る。そして人間は清潔な生活を求めて除菌にまい進する。ウィルスや細菌類が対抗力をつけなかったとしても人間が自ら弱くなれば、ウィルスや細菌類は人間の体の中に入り込んでくる。相反するもので一対という根源的な原理(判断)が稼動する。間単に言えば人間も心身共に身軽になり子供は泥んこになり外で遊んでいればいい。身軽になればなった分、人間は強くなれるのだと思う。

死なない細胞(失った目的=存在の意味)

すべての生まれ出た生命の形態は死に向かい、死んで初めて生が完了する。なぜ完了なのか、それは生の総量を認識(同時=ひとつのもの=世界観)し更なる次の世界観にある時空間に生まれ出るため。人間の体を作る細胞もすべては生まれ出て、死んでいく連続の積み重ねで生命の総体(同時=ひとつのもの)を存続させる。進化とは変化する細胞という生と死の連続の積み重ねであり、そして今在る形(答え=必要とされる機能という形)を失い、更なる形(必要とされる機能という形)に生まれ出ること。では死ぬことを忘れた細胞とは。今でいう癌細胞(自身が在るという目的量を超えた存在量を求める=物欲)。死なずに増殖する細胞は人間という生命(細胞)の総体の中で自身を存続するために、いろいろな臓器の形を変形させ、また他の細胞を破壊する。それは到達すべき答え(必要とされる機能という形)を有さず無秩序に増殖するから。そして人間は自身という生命の総体を守るために癌細胞を殺そうとする。地球上に多くの生命が生まれ出る、その生命たちが存続できるのは地球という生命の形態の総量の範疇にある量だけ。しかし人間は増殖を続ける。人間の数が増える、それは人間の数の維持だけにとどまらす、それ以上の欲を維持するために他の生命を殺し続ける。人間の体の中で変化した自身という細胞が秩序を忘れ気がつかないうちに自身を攻撃しているのと同じことであり生物のように姿という形で認識はできないが、今の文明社会も原理世界では到達すべき目的(存在する意味)を有さず物欲に増殖するという無秩序な形を呈している。                                                                                      

生命の本質(相反する結果に生まれ出る)

私たちは毎日のように他の生き物を殺して、それを食べて生きている。人間だけではなくあらゆる生物が同じことを繰り返し自身の命を存続する。強いものが弱いものを食べて生きていくとは部分的に見ればそのように見えること。しかしライオンに食べられる草食動物は今でも、その子孫を繁栄している。草食動物に食べられる草、樹も、また自然界にその繁栄を保っている。強いものはその攻撃力で生き延び、弱いものはその数で生き延びる。そう考えるとあらゆる生き物には強いとか弱いとかはないく各種の生物はその総体で見るものであり生き延びるために他の生き物を殺して自身が生き延びようとすることは、すべての生命に平等に与えられたことと言えそう。では日常的な殺し合いの中で生き延びる生物たちの生命とはそれほど大切なものではないのか。私たちの体を物質のみと考えると大切なものとは言えないのかもしれない。物質は生れ出る連続の積み重ねにより、そこにあると思えるものであり、その実体は無いものとしているから。生命とは自身が得た答えの総体を同時に認識するという魂(意識の連続)が本質(在るもの)としている。では何が大切なのか、それは魂(思い=必要される在るもの)が何をしてきたかなのだと思う。私は死んだ後、魂(答えの総体)のみとなり、この世で行なってきた行動結果の集積体という答えとなり更なる次元の総体(世界観)に生まれ出る。その時に生まれ出た世界が自身の選んだ結果となる、つまりは生き方。物質世界で生物が平等に与えられた宿命は生き延びることと子孫を残すこと。生命の進化という更なる世界観に到達するため人間以外の生命たちはそれを守り続けている、守らないのは今のところ地球上では人間だけ。では人間は悪い存在かといえばそうとも言えない。無かった何かを生み出すことが生命であれば人間はその頂点を目指すものであり、無かった何か(疑問と同時にある答え)を見つけた時、それは、そこにとどまってはいられないという生命という形態上にあるから。すべては相互作用を有した結果量に生まれ続ける原理世界に在るとすれば、知識への探求は加速度的に進まざるをえない。人間は知識を積み重ね続け、それを応用し物質文明の頂点を目指す。そして物質文明の頂点を極めることは相反するマイナス面も同時に獲得してしまう。知識(物欲)とは生物の進化という知恵(必要とされるもの)と相反するものだから。人間が物質文明の頂点を目指すならば魂(思い)と、表裏一体にある、物質(存在)の中間点が、その頂点といえる。簡単に言えば半分づつ。現在の人間は自身の生み出した欲を満たすために自然界を破壊し人間にとって都合のよい物に替えていく。そのために他の生き物の命をおびやかす。それは、すべての生き物に平等に与えられた、生き延びることと子孫を残すための生命の存続とは意味が違う。人間だけが、そのルールを無視し新たに生み出した欲(知識)のために互いに殺し合う。生命(未来と虚空間=思い)の使い方を忘れたとも言える。せめて、その欲を半分にできたら、もう少し良い世の中になるのではないだろうか。

殺し合い(本当の世界で起きたこと)

今でも世界のどこかで戦争が絶えない。そして戦争が起きていない日常の社会でも殺人は頻繁に起きている。戦争で人を殺しても人間の作り出したルールでは例外もあるだろうが一般的には罪にならない。一般社会で殺人をすれば殺した人の人数、または動機により刑務所にいる期間も変わり、そして刑期を終えれば、また社会に復帰して一般の生活に戻ることができる。もちろん更生し新たな人生を送ることに異論はない。しかし、それは人間が作り出したルール。人間がいなくなれば、そのルールもなくなる。しかし殺人をしたという事実は現実(結果)に残っている、そして自身の魂(結果=答え)に積み重ねられている。私たちは新聞やテレビで殺人のニュースを見ると人が殺された法律上の罪の重さはどれくらいなのかという感覚しかないような気がする。生命は永遠の世界に、たった1回のチャンスで今の姿で生まれ出てきて、もう二度と同じ姿ではこの世に生まれ出てくることはできない。人殺しとは永遠に1回の、この世に生まれ出て多くの答えを積み重ね多くの世界(外界)を見る(感じる)ことのできる魂になれるチャンスを奪うこと。それが人間社会のルールを超えた本当(量子の形態=思いの根源)の世界で起きたこと。物質は発生と消失の連続の積み重ねで、そこに存在しているように思え、魂は意識(答えに到達しようとする)の連続に行動結果という認識を積み重ねるという継続して存在するもの。私たち(孤独の宇宙)の集まりという実態は物質ではなく意識(世界観)。私たち(世界観)は、この世の生を終え次の世界に生まれ出るとすれば、次の世界に、次の物質がある=限りなく物質から反対に向かうもの=思いに近くなる。そして相反するもので一対という、すべての結果に共通するものが原理であれば次の世界に生まれ出る時、自身の魂が思い(必要とされるもの)に近い状態でありたいと思う。無限のごとく連続する宇宙(世界観)に生まれ出る宿命の存在であり、その一部という数十年がこの世の人生ならば野生の動物を見習った生き方をしたほうが、どうも無難のような気がする。                                                                            いまだになくならない戦争。私たちは戦争のない世界に住めるのか、残念ながら戦いのない世界は望めないと思う。この世が波の世界であるとすれば、戦争(戦い)は一番大きな負の波。それは平和を求めるだけではなく、人間の生み出した欲望を加えた波の反動とも言える。野生の動物たちのように、生き延びることと、子孫を残すためだけの欲であれば、それは一番小さな欲という波。それは生きていくための戦い。つまり戦いの無い世界はないのだけれど、その波を小さくすることは可能だと思う。世界の人がこれ以上の欲を少しだけでも抑えることで戦争という負の波を小さくする。それは外交努力(相互作用)の範囲で各国が共存できる波の範疇に収まるということ。

人類最悪の時(人間のつくり出した生命との共存)

ロボット技術は加速度的に進歩している。近い将来には人間と見分けが付かないほど精巧なロボットが現れるのだと思う。しかし今のロボットは、いかにもロボットとしてしか見えない。どんなにすばらしい能力を有していても人間はそれを機械として見ている。動物に見立てたロボットと生活を共にして気持ちが和らぐということはあるだろう。しかしロボットに敵意を抱くことは今のところはない。そして将来、人間に限りなく近く、そして、ある部分においては人間より高い能力を有するロボットが現れたとしたら。人間が人間という生命を超えるロボットを人間が作ることはできないと思う。しかし部分的な能力、計算とか局所的ではあるが専門的な知識や技術を必要とする能力など、そして見た目には人間と限りなく近くなる。将来にもロボットが人間を管理することはないとしても人間社会とロボットが共存した時、ロボットが人間に近くなればなるほど人間はロボットに偏見を抱くことになるのかもしれない。将来ロボットが思い(生命)を有するかどうかはわからない。ロボットが思いを有するとしても、それはだいぶ先のことだろう、しかし人間が作り出す新たな生命はもっと早くやってくる。それは人造人間。生命を無から作り出すのではなく生命を素に新たな生命の総体を作り出す、そして新たな生命の総体に番号をつけ商品として売り出す。人間はその時、その新たな生命たちと、どのように付き合うのか。商品として買い、道具として使う。たとえ殺してしまっても商品であれば殺人とはならないと思うかのもしれない。しかし人間の手で作り出された生物だとしても、それは人間が作りだすことのできない生命の素が基本、つまり生命(必要)そのもの。人間が人間の手により作り出したと思い込み、それを生命として扱わなかった時、人間の思いは物欲という物に変わる。そして物欲が増幅し、相反して、思いを失い続ける。必要とされ生まれ出た人間は必要とされる生命の総体(魂)として根源的な生命の総体に帰れるのか。ロボット技術の進歩を伝える報道は多いがロボットとどのように付き合っていくかという問いかけはほとんど無い。人間は今まで多くの便利そうなものを得て、相反する多くの不便(矛盾)という人間の存続に係わる大事なものを失い続けてきた。そして今なお過去の体験を生かさない。人間が魂(必要)の存在であるならば、そして次の世代も魂の存在(必要)であることを願うのであればロボットや生命科学の発展と同じ量という共存の模索をし、それを若い世代にあたりまえのこととして伝えなければならないのだろう。

宇宙のしくみという物事の考え方は今はまだ多くの間違いと勘違いだらけです、しかし今にとどまらず更なる答えを積み重ねていきます。

(自分なりに考えたパラドクスの答えは追加文に記しています)

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