紀伊大島 Oshima
かつて串本から巡航船で渡っていた大島も、平成11年9月8日、くしもと大橋が架けられ串本と陸続きになった。
大島の南側は断崖絶壁で、海には荒々しい巨岩が立ち並び、有名なトルコ船の遭難事故など悲しい話も伝えられている。


海金剛 Umi Kongo
朝鮮半島の景勝地金剛山にちなんで名付けられた海金剛からは、荒々しい大島の南側を一望する事が出来る。
穏やかな島の北斜面に比べ、南岸は断崖絶壁が続き、この付近の海での遭難の話も多い。
特に、明治23年に起きたトルコ船エルトゥールル号の遭難の話は有名である。
日本とトルコの修交の使命を果たし終え、イスタンブールへの帰途についた矢先、エルトゥールル号に悲劇は起きた。
船は熊野灘で暴風雨に遭遇し、大島の南、樫野崎灯台近傍の岩礁で難破、587名の将兵が殉職したという。
天気の良い日に眺める景色は素晴らしい絶景を楽しませてくれるが、一度天候が荒れると恐怖の海に変貌する南紀特有の表情を
思わせる。
トルコ記念館 Turkey Museum
真新しいくしもと大橋を渡り大島に入ると、そのまま島の中央を東西に幹線道路が通じている。
一番東の端まで走りきると広い無料駐車場があり、そこから島の東端・樫野崎灯台まで遊歩道が続いている。
その遊歩道の入口にあるのがトルコ記念館だ。
先に触れたエルトゥールル号の遭難の悲劇を通じて、串本町とトルコ国との交流が始まり、国際的な友愛の精神を広く伝えるための
記念館だと言う。
エルトゥールル号の遭難について、伝えられている話を要約してみよう。
明治23年9月16日、熊野灘の暴風雨は帰途についたエルトゥールル号を、樫野崎灯台沖、船甲羅の岩礁へと押し流していった。
昔から船乗りにとって海魔と恐れられていたこの岩礁に乗り上げた艦は、中央より両断し、特派大使海軍少将オスマン・パシャー
以下587名の尊い命を瞬時に奪い去ったのである。
一命を取りとめた士官ハイダール以下69名は、荒れ狂う怒涛の中、大波に翻弄されながらも必死で島に這い上がり、
樫野の灯台に助けを求めてきた。「仲間が海に…!」 だが、時はもう遅かった。
嵐の深夜、ましてや通信機関も救助機関もない離島での大事件である。
島の人々は、手持ちの着物やふとんを持ち寄り、応急処置と看護にあたり、また、各戸に蓄えていた芋や、
飼っている鶏などの食糧を提供した。たちまち食糧は底をついてしまったが、村民は食糧の一切を惜しげもなく喜んで
提供したと言われている。

船甲羅
発見された遺体は、船甲羅の見下ろせる樫野の丘に埋葬され、翌年、樫野崎に墓碑が建てられた。
以来、今でも、樫野小学校の児童たちによって、墓地の清掃が続けられていると言う。

トルコ軍艦遭難記念碑
樫野崎灯台 Kashinozaki Lighthouse
遊歩道の先端に建つ白亜の灯台が樫野崎灯台で、明治3年に開設された日本最古の石造りの灯台である。
決してスマートとは言えない太目の灯台であるが、いろいろな大島の伝説を知ると、また違った思いで見ることが出来る。
そして、灯台の周囲を一周する小径を歩いて行くと、遠く古座の海岸まで見渡せ、紀伊大島の大きさを改めて実感させられるのだ。
巡航船の行き交う時代から、この大島には多くの人々が暮らし、串本と一体となって文化を育んできたのである。
今では、くしもと大橋も架かり、本土と陸続きになって、離島ゆえの悲劇も解消され、ますますこの島も発達していくに違いない。
この灯台の周辺に咲き誇る無数の水仙に惹かれ遠くから訪れる観光客も増えており、大島の新たな歴史が始まろうとしている。