マンシュタイン・プラン
D・プラン(ディール計画)
マンシュタイン・プラン
黄号作戦発動
B軍集団/A軍集団
セダン突破/ダンケルク
赤号作戦
西部戦線では、ヒトラーの何度かの和平への呼びかけも実を結ばず、ヒトラーはポーランド戦が終わった後も戦争は依然として続いているという厳然たる事実に直面していた。
開戦当初からのドイツ軍の対フランス攻撃計画は、第一次大戦で失敗におわったシュリーフェン計画をそのまま焼き直したものでドイツ軍の主力は戦線右翼を右袖で海峡をかすめるよう進むこととなっていた。この計画では強力なマジノ線への正面攻撃を避け、フランス軍の強力な阻止線の敷かれた中央部を迂回し最も弱い低地諸国を突破できるのが大きな利点であるが、一方でベルギー北部のミューズ河とアルベルト運河の二大障壁を越えるのに手間取ると、連合軍にベルギー領内で地歩を固められてしまう恐れがあり、そこで連合軍と正面衝突する事になればたちまち第一次大戦時の塹壕戦のような悪夢の消耗戦に突入するかもしれなかった。しかし1914年の対フランス作戦で採られたドイツ軍の作戦計画自体、もともとのシュリーフェン計画からかなりかけ離れた失敗策であった。ここでその詳細に触れる必要があるだろう。
1871年に時のプロイセン王ヴィルヘルム一世がデンマーク、オーストリア、フランスというヨーロッパの並居る軍事強国を完全に制覇してドイツ統一を成し遂げドイツ帝国皇帝の地位に就いた時、彼の側には鉄血宰相と呼ばれたビスマルク、そしてプロイセンの生んだ偉大な名参謀総長モルトケが肩を並べていた。
オットー・フォン・ビスマルクはその非凡な外交手腕を発揮してドイツの軍人が最も避けたいと考えている多正面戦争を常に回避し続けると共に、外交政策上の問題を考える上でモルトケの軍事的見解を重要視していた。
ヘルムート・カール・フォン・モルトケもそのビスマルクの力を信頼して政治には一切口を挟まず、自らが育てたプロイセン参謀本部を率いて軍事に専念した。モルトケは国内の鉄道網を徹底的に整備する事で、当時の主流を成していた要塞軍よりも、野戦軍による包囲集中攻撃の方が遥かに安上がりで有利に戦える事を証明してみせ、普奥戦争、普仏戦争で徹底的な包囲殲滅戦を展開してプロイセンを完全な勝利に導いた。
しかしこの戦争でモルトケは当初の自分の予測に重大な誤算があった事を認めざるを得なかった。それは野戦が終わっても戦い続ける要塞軍と、国王がいなくなっても戦い続ける非正規国民軍の出現であった。
ナポレオン三世の政権を倒せばフランスは和を請うと信じて計画を立てていたモルトケにとってこれは完全な見込み違いであり、このためフランスを降伏させる為にモルトケは当初の予定になかったパリへの本格砲撃とその入城という挙に出ざるを得ず、この事によって引き起こされた対独憎悪感情はその後に繰替えされるヨーロッパの悲劇のもととなるのである。
ただ、ビスマルク、モルトケという政治と軍事の両面で天才的な指導者を持ち、その活躍によりドイツ帝国が誕生したこの時代こそがドイツ=プロイセンとって最も輝かしい時代であった事に間違いない。
しかし1888年の皇帝ヴィルヘルム一世亡き後、その後を継いだフリートリッヒ三世、モルトケ、ビスマルクと帝国建国に貢献した英雄も次々にこの世を去り、後に残されたのは驕慢・軽薄な29歳の若き皇帝、ヴィルヘルム二世であった。
1890年にビスマルクが現役を退いてから後、ドイツを国際的孤立から防ぐ有能な政治指導者が現れる事はなかったが、一方、軍事指導者にはシュリーフェンという強力な参謀総長が登場した。
アルフレッド・フォン・シュリーフェン伯爵が参謀総長に就任したのは、くしくもモルトケ同じく58歳の時であった。シュリーフェンは将来の見通しについて、ドイツ参謀本部の伝統的見解と同様の考えを持ち、ドイツは常に自己より強大な敵国に囲まれており、自らを守るべき天然の要害もなく、ドイツはいずれ多正面、或るいは少なくともニ正面戦争を強いられるという認識に立っていた。
シュリーフェンが多正面戦争をドイツの必然の運命と考えていた事は彼がドイツの政治家の力を信じていなかった事を意味した。ビスマルクは一度でもモルトケに多正面戦争をさせた事はなく、モルトケが常勝であったのは常に一正面作戦で済んだからとも言える。しかしこの時、シュリーフェンを外交面から支えてくれる様なビスマルクに代わる有能な政治家に恵まれない以上、モルトケとは違いシュリーフェンは外交政策を一切当てにする事ができなかった。
この結果、彼の戦略思想が外交という要素を一切排除し、多正面戦争に勝利する為の前提として、完全各個撃破、完全な包囲殲滅戦による短期決戦を至上目的とする方向に向かったのも当然の帰結と言えた。
モルトケやビスマルクは将来の戦争は長期戦になるだろうと予測していた。しかし、シュリーフェンは大軍を動員する近代戦が途方もなく金を喰うものである事から、今後はいかなる国家も長期戦には経済的に絶える事ができぬとして、短期決戦を目標にドイツの全戦略を決定した。
ただ第一次大戦において英独仏とも実に長期にわたる消耗戦を戦い抜いた事を考えると、シュリーフェンはそもそも間違った前提をもとに出発点に立っていたと指摘される向きもある。しかし、資源を持たないドイツが長期戦になればなるほど不利になっていく事を考えれば、短期決戦を是とするシュリーフェンの戦略は根本において間違ってはいない。
ただ一つの誤算は、将来の戦争では地球の裏側にある新興国アメリカがその無尽蔵の経済力を背景にヨーロッパの戦争に介入してくる事である。この国が連合国として両大戦に加わる事で連合軍はドイツ軍より遥かに長く長期戦に耐える事ができ、こればかり誰にも予測できる事ではなかった。
シュリーフェンは、多正面戦争をドイツの必然と考える以上敵を一つずつ各個撃破しなければならぬ為、個々の戦闘は決定的な包囲殲滅戦としなければならないとした。そのためにはまず最も強大で最も危険な敵を全力を挙げて撃滅する必要があるとした。
具体的に例を挙げれば、もし同盟したロシアとフランスと戦う事になった場合、ロシアの貧弱な鉄道網とロシア軍の緩慢な動員速度の隙を突いて、まず全力を挙げて六週間以内にフランス軍を撃滅し、その後東部戦線に転じてロシア軍を攻撃すると言う事であった。
シュリーフェンは後年、将来の避けられぬフランスとの戦争を予期して、対フランス作戦を立案した際、多正面作戦に関してはフリートリッヒ大王の「七年戦争」を、そして包囲殲滅戦についてはハンニバルの「カンネーの戦」を参考に研究した。
「カンネーの戦」とは紀元前 216年8月2日にカルタゴのハンニバルが、約4万の兵力でローマ軍8万6千の兵力を完全に包囲殲滅した戦である。
ローマ軍はポエニ戦争で建国以来の大軍を送り込みながら約半数のカルタゴ軍に徹底的に殲滅され、その死者は7万以上を数えたが、カルタゴ軍の損失はわずか5千700名に過ぎなかったと言う。兵力の少ない方が多い方を完全に殲滅した点でこれほど完璧な例は世界史にも希であり、シュリーフェンはこれを将来のドイツ軍の作戦の理想とした。
ただシュリーフェンはここでもひとつ重大な事を見落としていた。それはカルタゴにはカンネーの戦の大勝利をポエニ戦争全体の勝利に結びつける事のできる有能な政治家がおらず、戦争はその後14年も続いた挙げ句、ハンニバルはザマの戦に破れカルタゴも消滅してしまうのである。

1898年に完成したシュリーフェン・プランの内容はドイツ軍の全兵力の8分の1で東部のロシア軍に備え、残る8分の7(約40個軍団)の兵力で西部のフランスを強襲して6週間でこれを撃破し、次いで全兵力をもって東部で攻勢に出るというものであった。
西方への攻勢はミューズ川以北のベルギー領を大規模に迂回する攻撃を主攻撃軸とし、このため西部の兵力の8分の7(約35軍団)をメッツ以北に配置し、残りの兵力でフランス国境前面で持久戦に当たらせるものとされた。そして最も強大な主力の右翼軍はベルギー領を突破してそのままアミアンからパリ西方まで進出し、さらに旋回してスイス国境まで到達させ、全フランス軍を一挙に包囲殲滅するという大胆にして壮大かつ徹底的なものだった。この間、ロシア軍が東プロイセンに進出したり、またイギリス軍がデンマークに上陸したとしても、東部はそのままにして対仏戦に集中する事とされた。
参謀本部の中からはこれに対して異を唱え、国境要塞強化論を述べる者や、また予め6週間で勝つための様な計画を立てるべきではなく、モルトケの様に計画にもっと柔軟性を持たせるべきだとする者もいた。しかし二正面作戦をやればドイツ軍は通常の手段では必敗するし、唯一の活路はベルギー大迂回によるパリ攻撃のみ、という彼の結論の明確さと強力さには誰もが納得せざるを得ず、参謀本部の大勢はシュリーフェンのプランを支持した。
しかしここでモルトケの下でドイツ帝国建国の立役者となったドイツ参謀本部の能力が各国で高く評価され始め、その注目を浴びるようになったおかげで、シュリーフェンの名とそのシュリーフェン・プランなるものがヨーロッパの至る所で囁かれるようになるという事態が起きた。
秘匿性を必要とされる参謀組織とその計画が、今までの全く無名の存在から一転して世界的に有名になったのは皮肉な事であり、ドイツにとって悲劇でさえあった。そしてベルギーもその噂に怯えてリージェやナミュールを要塞化し始めた。
そしてシュリーフェンは第一次大戦の始まる一年前の1913年1月に死の床につく事になるのであるが、この時も最後まで念を押して、「右翼(ベルギー突入軍)を徹底的に強大ならしめておけ」と遺言していた。
シュリーフェン亡き後、彼の大プランを受け継ぐ者として、カイザー(皇帝)ヴィルヘルム二世が次期参謀総長に任命したのは、モルトケの甥であるヘルムート・フォン・モルトケ(叔父を大モルトケと呼び、こちらは小モルトケと呼ばれた)であった。しかし小モルトケは参謀総長の器ではなく、彼自身も自分にそんな才能がない事を知っていた。彼は次の戦争はシュリーフェンの言うような一大包囲戦などで終わるまいと考えており、カイザーが陸軍大演習の包囲戦に勝って嬉々としているのを懐疑的な目で眺めていた。小モルトケは自身の才能も、さりとてシュリーフェン・プランをも信じないままに、仕方なく参謀総長という重責を担う事になったのである。
またヴィルヘルム二世が小モルトケを参謀総長にしたのにもなにがしの軍事的根拠があった訳ではなく、彼がただモルトケという名前が好きだったからに他ならなかった。母方の祖母ヴィクトリア女王の国イギリスが大海軍を持っているのを羨んで、国際的摩擦も恐れずに自分の海軍を欲しがったのと同様に、偉大なる祖父ヴィルヘルム一世が持っていた偉大なる名参謀総長と同じ名の参謀総長を自分も持ってみたかっただけなのである。若くして帝位に就いたカイザーのその子供じみた目からみれば、小モルトケは若い時から宮廷に出入りしてマナーも洗練されており、体躯も堂々として押出しも良く、非常にカイザー好みで参謀総長として申し分なかった訳である。
1914年8月、第一次大戦が勃発してフランスと戦端を開かざるを得なくなった時、小モルトケはシュリーフェン・プランを信じていなかったが、かといってそれに替わる代案があった訳でもなく、結局彼がした事はシュリーフェン・プランを水で薄めたようなものだった。
シュリーフェン・プランはフランス国境正面のロレーヌ地方などでは攻勢に出ないで持久戦に専念し、東部戦線その他の方面の状況にも一切関わらずその強大な右翼で以ってパリ西方に進出して、そこから更にスイス国境方面まで到達するという断固としたものであった。しかし、小モルトケはフランス軍のアルザス・ロレーヌ地区からの大規模攻勢を懸念するあまり、メッツ以北とそれ以南の兵力比を当初の7対1(右翼軍は西部戦線の前兵力の8分の7を持つものとされていた)から3対1へと改め、また東部戦線にロシア軍が進出すると右翼軍からそうそうに2個軍団を引き抜き、「ただただ右翼を強めよ」と言ったシュリーフエン・プランを台無しにしてしまった。

こうしてシュリーフェン・プランはその本来の計画の徹底性を失ったまま遂行される事となり、ドイツ軍はベルギー領を通過して国境会戦で英仏軍を撃破した後、フランス領に進出する所までは計画通り進んだものの、9月6日から9日にかけて戦われたマルムの会戦で案の定戦力不足を招いて前進を阻止され、攻勢は頓挫する事となった。
もし本来のシュリーフェン・プランに忠実にその右翼軍を強大なままにして攻勢を行っていたなら、この作戦は成功していたであろう。骨抜きにされたシュリーフェン・プランでも連合軍の左翼は破れ、パリから50キロの所までドイツ軍は到達したのであるから、小モルトケが大モルトケのプランを信じて断固とした決意で臨んでさえいれば、パリは没落し、英仏軍もカンネの戦の如くほぼ殲滅されていに違いない。
しかし小モルトケは、叔父の様にどんな状況にあっても冷静に戦況を見守り静かに好機を待つという豪胆な神経は持ちあわせてはおらず、フランス軍の主攻勢に押された左翼軍が援軍を求めるままに、いたずらに右翼軍の突進力を削ぐ愚を犯した。
そしてリデル・ハートの言葉を借りれば、小モルトケの「勇気の不足」がその後の長期に渡る大消耗戦を導く事となったのである。

ドイツ陸軍参謀本部がヒトラーに急き立てられるまま作成した作戦計画"ケース・イェロー(黄号作戦)"は、大胆さに欠けていただけでなく、それはシュリーフェン・プランの二番煎じに過ぎず、ただ部分的勝利だけを求めて作成されたプランに過ぎなかった。
この計画でフランスを短期間に征服できるなどと考える者は参謀本部の中に誰一人としておらず、このプランの主要な目標は、長期戦に備え、フランス北部海岸一帯を押さえてその飛行場や港湾を将来の作戦基地として確保する事にあった。
A軍集団参謀長エーリヒ・フォン・マンシュタイン中将が"
黄作戦 "の内容を知ったのは10月21日、コブレンツに同軍集団本部を設立する為、ベルリンに立ち寄った時の事だった。参謀本部の作成したその作戦計画はマンシュタインの目から見ても決して誉められたものではなく、それは過去の遺物をなぞったほとんど勝つ見込みのない物と言えた。
戦線北部を主戦場とするこの計画を実行すれば、ドイツ軍は前大戦の二の舞を踏む事になるのは間違いなく、マンシュタインは今回の塹壕線がソンム川沿いになるとまで予想していた。しかもドイツ軍が主力の装甲兵力の大半を注ぎ込もうとしているベルギー北部の低地地帯は、運河と川からなる水の障害物が無数にあった。更にこの地方は近年人家の過密化が進んでおり、先のポーランド戦において市街戦における戦車の脆弱性をさらけ出していたドイツ装甲部隊にとって、とても理想的な攻撃ルートと呼べる物ではなかった。

マンシュタインが描いた装甲部隊の新しいルートは斬新かつ劇的なものであった。装甲兵力の大半をA軍集団に配備させ、これまで大部隊の通過が不可能と考えられていたアルデンヌの森林地帯を縫って進み、ムーズ川を渡る事が出来たとしたら、そこから先は装甲部隊にとっては理想的とも呼べる見通しのいい広々とした平坦地が続くばかりであり、しかもそれがそのままパリ、或いは海峡地帯までずっと続いているのだ。
フランス軍は既に動員を完了させていたので、装甲部隊が動員拠点を蹂躪する事で動員そのものを妨害する事はできない。しかしこのルートを採れば、ドイツ軍の装甲部隊はフランス軍が反撃のために移動しなければならない地域を分断して突き進む事ができた。
A軍集団司令官のゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将はこのマンシュタイン・プランの意義を直ちに理解し、この案を軍集団司令部案としてOKH(陸軍総司令部)のブラウヒッチュに提案し、ボックのB軍集団の装甲兵力主力をA軍集団に転属させるよう働きかけた。しかしOKHでは自らの計画案の全く逆を行くマンシュタイン案を理解しようとしないばかりか、これはルントシュテットのA軍集団の功名争いであるとばかりに決め付ける有り様であった。陸軍参謀総長のフランツ・ハルダー上級大将はその日記の中で、マンシュタインのメモはヒトラーの目に留まらぬようにしなければならないと漏らしており、マンシュタイン・プランは単に却下されただけでなく、明らかに闇に葬り去られようとしていた。
11月3日、マンシュタインはコブレンツのA軍集団司令部を訪れていたブラウヒッチュに直接自身の案を説明してみせた。しかしブラウヒッチュの考えでは、計画が実行段階に差し掛かろうとしている今、既にOKH案に修正を加える段階は過ぎ去っているとして、わずかばかりの予備軍(装甲1個師団と2個自動車化歩兵連隊)をA軍集団に回す事を約束したに留まった。この程度の増強ではA軍集団の構想に何ら資する所もないのは明白であったが、マンシュタインはこれにめげずにOKHに対して彼の計画案のメモを浴びせ続けた。
ドイツ国防軍にとって幸いな事に、黄作戦はブラウヒッチュが考えていたほど早々に開始される事はなかった。10月19日にOKHが指揮下の軍集団に発令した最初の黄作戦訓令によると、作戦開始は11月12日に定められていた。しかしそれに目を通したヒトラーはその計画にほとんど熱意を示さず、おそらく参謀本部が作成した計画案に不満を持っていた為であろうが、ヒトラーは10月29日にオランダを中立状態に留めておくよう計画を修正させた。
それをかわぎりに、11月には部隊の準備不足とOKHとの連絡態勢の不備などを理由に6回に渡って計画を延期し、12月には天候の不良を理由に更に4回の計画延期を行い、実際に攻撃が開始されるまでに計画が延期される事、実に29回に及んだ。
そのヒトラーもマンシュタインと同様にアルデンヌを抜けてセダンを突破するという構想を抱き始めており、10月30日にOKW(国防軍総司令部)の作戦局長アルフレッド・ヨードル大将にその突然ひらめいたアイディアを打ち明けていた。しかし果たしてアルデンヌの森の曲がりくねった狭い林道を辿って装甲部隊の集団を進ませる事が本当にできるのかどうか、はっきり確信を持つ事ができたのは全軍中でただひとり、ハインツ・グデーリアンしかいなかった。
11月11日、悪天候を理由にやはり計画決行を延期したヒトラーは、グデーリアンの第19装甲軍団(装甲2個師団、自動車化歩兵1個師団)に対しA軍集団に合流して目標をセダンにとるよう命令した。グデーリアンがコブレンツに着くとマンシュタインがすぐに彼を捕まえ、アルデンヌを装甲部隊で突破する問題について話し始めた。戦車の専門家ではなかったマンシュタインは、その時までに単純にそれは可能であろうと考えていたに過ぎなかったが、ヒトラーが見抜いていた通りにグデーリアンはそれは可能であると確信していた。彼は前大戦当時の当地の地形を思い出しながら、この程度の丘陵地帯なら装甲部隊の移動させたり補給を施す事は可能であると請け負い、マンシュタインの計画に明確な裏付けを与えたのである。
しかし、こうしてグデーリアンの装甲軍団を加えても、A軍集団に必要とされる突破戦力にはなお不十分である事には変りなかった。ヒトラーは、必要とあらばA軍集団をいつでも増強できるよう準備して、この方面が最善の戦果を達成しそうと考えられた場合は、全戦力をA軍集団の背後に注ぎ込むよう注意を促した。しかしこの時のヒトラーには、本能的にセダンに惹かれていたものの、アルデンヌを突破した後、更に長躯フランスの海岸地帯まで進出して連合軍を真っ二つに分断しようと企図するマンシュタイン・プランの真の重要性を認識するまでには至らなかった(実際この時までにマンシュタインのメモはヒトラーに届いていなかった)
マンシュタインに言わせれば、この様な攻撃の成否は一にかかってスピードと勢いにあったのだが、ヒトラーは、作戦発動後に予備軍を送り込んだり、軍集団の間で師団を移動させたりして時間を費やす事が、致命的な命取りになり兼ねない事までは理解していなかった。
11月27日、ルントシュテット、グデーリアンと話し合ったヒトラーは再び計画のあらゆる細目にわたって綿密な関心を示し始めた。そしてこの時、コブレンツに派遣していたヒトラーの補佐官がマンシュタイン・プランについてのニュースを持ち帰り、こうしてマンシュタイン・メモの最初の一つがようやくヒトラーの所に辿り着いたのだった。
年が変わった1940年の1月10日、ヒトラーが1月17日を期して攻撃を開始するよう命令を下したまさにその日に、その事件は起きた。
「メケレン事件」として知られるこの事件の発端は、ミュンスターの航空軍基地の将校食堂で、翌日ケルンの参謀会議に出席する予定の参謀少佐の一人が、ビールを口にしながら汽車の旅の快適でない事の愚痴を同僚にこぼした事から始まった。その同僚は気軽に連絡機メッサーシュミット
Bf108で送ろうと請け負った。
しかし飛び立ってみると、悪天候の空の下で連絡機はやがて完全に方向を見失ってしまった。参謀将校の書類カバンにはケルンの空挺師団用の作戦命令書が納められており、この時の彼は重要書類を航空機で運んではならないとする軍の内規にはっきりと違反していた。
ついに燃料が尽きた連絡機は畑に不時着したのだが、そこは国境を越えたベルギー領の都市メケレンの近郊であった。抑留される事に気付いた参謀将校は書類を焼却しようとしたが、二人とも煙草を吸わないため近くの農夫からライターを借りねばならなかった。そうこうしているうちに早くもベルギー軍の憲兵が現れ、二人は書類に火を付けた所で逮捕されてしまった。二人は納屋に拘束されたが、ここでも書類をストーブに押し込んで再び焼却しようとしたが失敗した。
しかし二人のそのような行動は、連合軍司令官達に二人の男達は巧妙に仕組まれた狂言を演じていたに違いないと確信させるに至り、その作戦命令書の内容も謀略の一環であるとして片づけられた。
この不祥事にヒトラーは激怒し、作戦はまたもや延期された。しかしこの不時着事件の責任を問われて何人かの首切りが行われたものの、1月25日の会議においも何らの戦略上の変更はなされず、ドイツ軍の作戦計画は相変わらず、北方のB軍集団が装甲兵力の大半を保持してその主力を成す物であった。
しかしこの不時着事件を契機に、ルントシュテットは再びブラウヒッチュを説得すべく上申し、マンシュタインの計画を粗大もらさずヒトラーに見せるべであると主張した。しかしOKHはこれを退けたのみならず、1月末にマンシュタインを西部戦線とは全く正反対に位置する歩兵軍団の司令官に左遷させるという虚に出たのであった。
2月に入ると参謀本部ではマンシュタインの構想を検討するためのクリークス・シュピエール(図上演習)が何度か行われた。OKHの参謀長フランツ・ハルダー将軍はその諸結果に強い印象を受け、A軍集団に今よりずっと多くの装甲部隊が配備されれば、この攻撃は成功するに違いなくマンシュタインの構想は大筋において間違ってはいないと信じ始めていた。
しかしこの計画にも弱点はあった。この作戦で最も危険な瞬間はムーズ川において敵砲火を真正面に受けながら戦車を渡河させる時であり、ハルダーはこの時に敵空軍の空襲を受ける事を懸念した。さらに先頭の装甲師団が後続する自動車化歩兵師団より進みすぎる事も気がかりであり、ハルダーは装甲部隊はムーズ川の線で停止して歩兵と砲兵の到着を待ち、ムーズ川渡河は作戦開始後9日から10日後に行う事を提案した。
これに対してグデーリアンと、その装甲軍団に後続する第14自動車化歩兵軍団の司令官グスタフ・フォン・ヴィータースハイムの両者は、この様な攻撃で進撃の勢いを喪失する事は致命的であるとしてこれに抵抗した。しかしハルダーの反論に対して、この時までにずっとマンシュタイン・プランを支持してきていたルントシュテットも言葉を濁すだけで結局結論はでないままこの会談は終わった。
一方、参謀本部によって第38歩兵軍団長の職へ飛ばされていたマンシュタインは、かえってそのおかげで自身の構想を直接ヒトラーに直訴する機会を得るという行幸に恵まれる事になった。
新しく司令官に任命された者と非公式の会合を持つというのが総統の慣例になっていたが、1940年2月17日にヒトラーと昼食を共にした時にはマンシュタイン以外にも三人の軍団司令官が招かれており、その一人として、一週間前に総統の護衛隊指揮官から新設された第7装甲師団の司令官に任命されていたエルヴィン・ロンメルも同席していた。朝食後、ヒトラーは書斎でマンシュタインにその構想を詳細に説明するよう促した。彼の計画に耳を傾けたヒトラーは、アルデンヌを突破してセダンを強襲することができはしないかと長く抱いていた彼の直感が、今やマンシュタインの冷静で専門的な論証によって裏付けられた事を確信した。
マンシュタインの計画は極めて大胆であり、常識破りなものであったが、そのような案が常にヒトラーの心を惹いた。またその案は彼が恐れていた持久戦ではなく、彼が必要としていた電撃戦を約束するものであり、ヒトラーはここにマンシュタインの計画にはっきりと賛意を表したのである。
それより4日前、ヒトラーからその計画案をこっぴどくけなされていたOKHでは、あわててその計画案の詳細な再検討を行っていたが、それでもOKHの首脳はマンシュタイン案を全く顧みる事はなかった。しかし今や風向きが変わった事をいち早く悟ったハルダーは翌日、新しい計画をヒトラーのもとに持参した。
OKHの新しい計画案は以前のものとは完全に逆転しており、それはマンシュタイン案と一致していたばかりでなく、それより遥かに徹底したものになっていた。OKHはその案を自分達の手によるものであると主張したばかりか、その本当の立案者を顧みる事なく、ポーランドの歩兵軍団にいるマンシュタインが呼び戻される事はなかった。
D・プラン(ディール計画)
マンシュタイン・プラン
黄号作戦発動
B軍集団/A軍集団
セダン突破/ダンケルク
赤号作戦
目次
|