ポーランドに対する攻撃計画は、1939年4月に早くもその立案が始められていたが、その際ドイツ軍の計画立案者が最も考慮しなければならなかったのはドイツの持つ宿命といえる東西両戦線におけるニ正面作戦の危険を回避する事であった。前大戦の時はロシア軍の緩慢な動員態勢の不備を突き、東部戦線が危険な状態に陥る前にその持てる戦力の殆ど全てを西部戦線の攻勢に投入して、西部における迅速な勝利を得ることで戦争の勝敗を決する構えであった。これはドイツの置かれている地勢学的状況から考えても必要不可欠な物であると同時に、典型的な各個撃破の戦略でもあった。
しかしこのドイツ軍の計画はフランスに対する西部攻勢=シュリーフェン・プランが頓挫した事で無残な失敗に終わり、戦争は長期戦へと向かっていった。この時の徹を踏まないためにも、ドイツ軍は迅速にポーランドにおける勝利を得た後、西部戦線における英仏による攻勢に備えなければならなかった。
この両面作戦を避けるという戦略的必要性に加え、ドイツ軍にはその継戦能力自体が厳しく制限されているという深刻な問題があった。1936年にフリッチュ将軍によって行われた調査によれば、ドイツはその石油備蓄量からして僅か7ヶ月ほどしか戦争を継続する事ができず、石油の75パーセント、銅の70パーセント、ゴムの80パーセント、錫の90パーセント、そしてボーキサイトの99パーセントを輸入に依存しており、ソ連からの輸入がかろうじてドイツの戦争継続を可能にしていた。 このため作戦計画立案に際しても、ポーランドのどの工場がドイツの戦争経済にとって重要であるかが検討され、それを無傷で接収できるよう計画されていた。
この様な両面作戦を避ける事以上に長期戦を回避するという意味で、時間はドイツの敵であった。そしてポーランド戦において始めてその一端を垣間見た"電撃戦"は、正にこの様なドイツの置かれている状況から生まれた必要上の産物と言えた。

作戦の重点目標は敵兵力を国境付近にて捕捉・殲滅する事に置かれ、これによりポーランド軍にヴィスワ川まで後退して再編成するチャンスを与えぬ事とされた。逆に言えば、もしポーランド軍主力のヴィスワ川対岸への後退を許してしまえば、ドイツ軍は敵を迅速に包囲・殲滅する機会を逸するばかりでなく、敵領土奥深くへの追撃は兵力の消耗を招き自軍の補給線もいたずらに長く伸びてしまう事を意味した。更に英仏の攻勢が始まり、東部から適時兵力を引き抜く必要に迫られた時にも、ポーランド領奥深く入り込んでいればいるほどその離脱が困難を極めるに違いなかった。
ドイツ軍としては首都ワルシャワやヴィスワ川沿いに強力な阻止線を築かれるのを防ぐためにも、ポーランド軍の主力をなるべくヴィスワ川以西にて殲滅し、かつこれを敵の予備軍が展開しきらないうちに成し遂げなければならかった。全てはドイツ軍がポーランド軍の補給端末駅を越え敵の退路を断つと同時に、予備兵力の集結予定地を席巻できるかどうかにかかっていた。必要なものは敵に対応する暇を与えないスピードであり、ドイツ軍はそれを集中された装甲部隊と航空部隊の地上支援から成る"電撃戦"という新しい用兵思想により成し遂げようとしていた。
ポーランド作戦に配備された部隊を以下に示す。
陸軍
北方軍集団 (司令官・フェドル・フォン・ボック上級大将)
第3軍 (キュヒラー大将)
歩兵師団 (第1、11、12、21、61、217、228の6個師団)
第10装甲師団 (開戦後、第4装甲旅団から改編)
第4軍 (ギュンター・フォン・クルーゲ砲兵大将)
歩兵師団 (第3、23、32、50、207、218の6個師団)
第19装甲軍団 (ハインツ・クデーリアン装甲兵大将)
第3装甲師団
第2自動車化歩兵師団
第20自動車化歩兵師団
軍集団予備
歩兵師団 (第73、206、268の3個師団)
南方軍集団 (ゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将)
第8軍 (ブラスコヴィッツ大将)
歩兵師団 (第10、17、24、30の4個師団)
第10軍 (ヴァルター・フォン・ライヘナウ大将)
歩兵師団 (第4、14、18、19、31、46の6個師団)
第14装甲軍団 (ヴィッテルスハイム大将)
第13自動車化歩兵師団
第29自動車化歩兵師団
第15装甲軍団 (ヘルマン・ホト大将)
第1軽快師団 (軽装備の装甲師団)
第3軽快師団
第16装甲軍団 (エーリッヒ・へプナー騎兵大将)
第1装甲師団
第4装甲師団
第10軍予備
第2軽快師団
第14軍 (ヴィルヘルム・リスト上級大将)
歩兵師団 (第7、8、28、44、45、239の6個師団)
第1騎兵師団
第22装甲軍団 (エヴァルト・フォン・クライスト大将)
第2装甲師団
第4軽快師団
第14軍予備
第5装甲師団
軍集団予備
歩兵師団 (第27、62、68、213、221の5個師団)
以上、
装甲師団6個、軽快師団4個、自動車化歩兵師団4個、
歩兵師団37個、騎兵師団1個
総計52個師団
(一個師団は通常約1万〜2万名から成り、その兵員数は兵科、
国籍によって異なる)
空軍
第1航空軍 (アルベルト・ケッセリング大将)
北方軍集団の支援を担当
第1航空師団 (ウールリッヒ・グラウアート中将)
第4軍の支援を担当
第1爆撃航空団
第26爆撃航空団
第27爆撃航空団
第2急降下爆撃航空団 第2、第3飛行隊
第1駆逐機航空団 第1、第2飛行隊
第1教導航空団 第4飛行隊
第2教導航空団 第1飛行隊
東プロシア方面航空部隊 (ヴィルヘルム・ヴィマー大将)
第3軍の支援を担当
第1戦闘航空団 第1飛行隊
第21戦闘航空団 第1飛行隊
第2爆撃航空団
第3爆撃航空団
第1急降下爆撃航空団 第1飛行隊
教導師団 (ヘルムート・フェルスター中将)
第1教導航空団(一部欠)
第2教導航空団(一部欠)
第4航空軍
(レール上級大将)
南方軍集団の支援を担当
第2航空師団 (レルツァー中将)
第4爆撃航空団
第76爆撃航空団
第77爆撃航空団
第76駆逐機航空団 第1飛行隊
特別任務航空部隊 (ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン少将)
第10軍の支援を担当
第77急降下爆撃航空団(一部欠)
第2駆逐機航空団 第1飛行隊
第2教導航空団 第2飛行隊
以上
第1航空軍計 795機 (爆撃機は519機)
第4航空軍計 507機 (爆撃機は360機)
総計 1302機 (爆撃機879機)
*各航空団は司令部小隊と3〜4個飛行隊から編制され、
一個飛行隊の配備定数は30〜36機であった。
一見してわかる様に航空兵力の重点は北部に置かれ、一方陸上兵力の主力は南方軍集団の第10軍に置かれていた。ドイツ軍の企図するところは、第4軍と第10軍によって国境付近のポーランド軍を包囲・殲滅し、またこれらの部隊の一部を捕捉し得なかった場合に備え、東プロイセンより進発する第3軍と南方軍集団の最南翼を走る第14軍によって、ヴィスワ川を越えてポーランド軍を二重に包囲する事にあった。
しかしドイツ軍はポーランド軍との相対的な兵力比において、決して圧倒的優位にある訳ではなかった。総兵力約40個師団を有するポーランド軍に対し、ドイツは前述の通り2個航空軍と52個師団を東部に展開したが、残りの2個航空軍(第2、第3航空軍)と34個師団(内完全編制の現役師団は12個に過ぎなかった。)は西部国境沿いに展開しており、東部と西部の兵力の配分はほぼ二対一であった。これは前大戦のシュリーフェン・プランにおいて、その全戦力の殆ど9割を主戦場に投入していた事から考えて、ドイツがいかに英仏による介入を危惧していたかが伺われる。またドイツ軍には敗戦から再軍備に至るまでの17年の間、徴兵制を廃止していたブランクがあり、特に新たに動員された内の後備兵や補充兵の練度はポーランド軍に比べ著しく劣るものと懸念されていた。
しかしドイツにとって有利な材料は、航空兵力で大きく優位に立ち、ポーランドに比べ部隊の機械化が進んでいたばかりでなく、前大戦に敗北したが為に全く白紙の状態から軍を再建して敗北の教訓を取り入れる事ができ、新たな心構えで戦争に挑んでいるという点にあった。
一方のポーランド軍はワルシャワ大公国以来100年ぶりの国家再建に続くソ連干渉戦争において、ソ連軍と大規模な戦闘を展開し勝利を得た事で、東部において旧ロシア領を含む多くの領土を獲得して自国に有利な国境線を確定する事ができた。
しかしポーランドはこの戦争において軍の威信、得に伝統あるポーランド騎兵の威光を取り戻した代わりに、その大勝利に幻惑されたままその後の国防戦略において間違った道を選択する事になった。この戦争でソ連軍に対して猛威を振るった騎兵部隊の力を過信した結果、ポーランド軍の編制は未だに歩兵と騎兵を中心とした旧態依然としたものから脱却しておらず、機械化にかける軍事予算の優先度は実に全軍中最低のレベルにあったのである。
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