セックスと嘘とビデオテープ
−SEX,LIE,AND VIDEOTAPE−









「セックスは過大評価されていると思うわ…
女がそれを求めているなんて大ウソよ」
「以前の僕は病的な嘘吐きだった…」
「君が話をして僕がテープを回す…」
「何を話せば言いの」
「テーマはセックスだ」




監督

スティーブン・ソダーバーグ

キャスト

ジェームス・スペイダー/「レス・ザン・ゼロ」「ウオール街」
「バッド・インフルエンス」「クラッシュ」
「僕の美しい人だから」「スター・ゲイト」
アンディ・マクドウェル/「セント・エルモス・ファイヤー」
「幸福の選択」「グリーン・カード」
「ルビー・カイロ」「バッド・ガールズ」
ピーター・ギャラガー/「ザ・プレイヤー」
「冷たい月を抱く女」「ラストダンス」
ローラ・サン・ジャコモ/「プリティ・ウーマン」


1989年 アメリカ映画
カラー 100分


  ジェームズ・スペイダーと言えば、「レス・ザン・ゼロ」など青春ものの作品で金持ちのバカ息子役を演じている事が多かったせいか、端正な顔立ちがウリだけの中身の薄っぺらい役者という印象を拭えなかった。しかしその彼も次第に自分にあった作品を選ぶようになり、カンヌ映画祭でグランプリを獲得したこの作品で、彼自身は最優秀主演男優賞をものにした。その後は「僕の美しい人だから」で主演して話題になったが、私がこの役者を初めてイイナと感じたのは、ロブ・ロウと共演した「バッド・インフルエンス」を観た時である。
  絵に描いたようなエリート証券マンの役を演ずるスペイダーが、ある日、ロブ・ロウ演ずる謎めいて危険な香りを放ち、それでいて効しがたい人間的魅力を持った正体不明の男に出会い、その男に誘われるまま、次第に自分でも気が付かなかったもう一つの人間性を自己に見出してゆくという話だった(基本的なモチーフは、最近リリースされたデイビット・フィンチャー監督の「ファイト・クラブ」がこれによく似ており、スペイダーの役所はエドワード・ノートンのそれに近い。ただラストのオチが違うので鑑賞後の印象も全く違うものになるが)。スペイダーはその後、「スター・ゲイト」でカート・ラッセルと共演、若き科学者の役に扮していたが、「2DAYS」では冷徹な殺し屋を、そして最新作「クラッシュ」ではまたまた倒錯的な嗜好を持った役所を演じて女性ファンを喜ばせている(?)ようだ。
 
そしてこの作品のヒロインを演じるアンディ・マクドウェルは、一見すると知的な美人だが、どこかぼんやりとした印象を受ける(日本の女優でゆーと鈴木京香っぽいかな)アンニュイな雰囲気を漂わせる女優で私はけっこう好きである。「セント・エルモス・ファイヤー」でエミリオ・エステベス(チャーリー・シーンのお兄さん)が夢中になって追い掛け回す女医の役をやっていたのが初めて観たきっかけとなった。以来「幸福の選択」「グリーン・カード」などちょっとハイソな役で恋愛ものに出演していた彼女を観たが、「ルビー・カイロ」で遂に単独主演を果たしていたのを観て個人的にうれしく思ったのを覚えている。同性にはあまり人気がないようだが、男性の目から見ればちよっと「高値の花」っぽい”奇麗なお姉さん”風なところがイイと思うのだが…。
  この作品を見るきっかけは当然、この二人のキャスティングに惹かれたというのもあるが、またしてもその直接的(ある意味間接的とも取れる)で簡素、そしてちょっとドキっとさせられるお洒落な「タイトル」にあった。「セックス」「嘘」「ビデオテープ」という三つのキーワードは、作中で密接に関連し合う重要なモチーフとなっており、これがデビュー作となる新鋭のスティーブン・ソダーバーグ監督はこの三つのモチーフをもとに現代人の複雑な心理に潜む葛藤と矛盾、そしてその閉ざされた心の内面に誰もが隠し持っているであろう”自己欺瞞”という病巣を描いている。

  アメリカ南部、閑静な住宅街の広がるこの小さな街でアン(アンディ・マクドウエル)はエリート弁護士を夫に持ち、洒落たマイホームで専業主婦を営み、社会的にも安定したまるで絵に描いたような理想的な生活を送っていた。しかし表面的には何不自由ない生活をしている様に見える彼女の心はいつも満たされず、セックス・コンプレックスから定期的にカウンセラーに通う日々を送る。 一方、性に淡白な妻に不満を持つ夫のジョン(ピーター・ギャラガー)は、密かにアンの妹シンシア(ローラ・サン・ジャコモ)と浮気を重ねていた。
  そんなある日、ジョンの大学時代の友人・グラハム(ジェームズ・スペイダー)が久しぶりに故郷に帰ってきて、しばらく彼らの家に居候する事になった。初めは夫が勝手に友人を泊める事にしたことに腹を立てたアンであったが、フラリと彼女の前に現れたグラハムは彼女の予想を全く裏切る印象の持ち主であった。自らインポテンツだと告白するグラハム。そしてそんな彼の前なら、夫やカウンセラーにも言えない心の内を素直に打ち明ける事ができるアン。彼と言葉を交わすうち、アンは夫とは全く違うタイプの不思議な雰囲気を持つグラハムに次第に興味を抱くようになる。
  しかしアンからグラハムの事を聞いたアンの妹・シンシアは無断でグラハムを訪れ、グラハムのもう一つの秘密を知る。グラハムはその自閉的な性格から、自身で撮影した不特定多数の女性達の「セックス告白ビデオ」でしか快感を得られない性癖の持ち主であった。興味をそそられたシンシアは進んで彼のモデルとなって、思い付くまま自身のセックス体験を語り始める…。
  翌日、妹が突然押しかけた非礼を詫びようとグラハムを訪れたアンもまた、グラハムの持つビデオ・テープのコレクションに何気ない興味を持つ。”嘘を付かない”という自身の信条に従いそのテープが何であるかを正直に説明するグラハム。しかしそれに動揺したアンは、驚きと侮蔑の念を隠せずにそそくさとその場を離れるのであった。以来、グラハムと顔を合わせる事もなかったアンであったが、以前から夫・ジョンとシンシアの仲を疑っていた彼女はある日、決定的な証拠を見つけてしまう。精神的にひどく動揺した彼女は再びグラハムの元を訪れ、グラハム・アン・ジョン、三人の関係は破局へと向って行く…。

  誰もが無関心ではいられない複雑で謎めいたものである「セックス」、そしておそらく言葉というものがこの世に生まれた時から存在しており、現代人が社会にあって避けては通れない「嘘」というこの二つの事象。この作品はそれらの持つ意味を主人公グラハムの持つ「ビデオテープ」と言う最も現代的な媒体を介して語りかけようとしている。
  グラハムは自身の抱える性的欠陥を素直に知り合う女性達に吐露する。そして女性達もはそんな彼の前だけでは、素直に自身のセックスに対する考えや、経験、過去をさらけだす事ができる。そこにあるのは必ずしも真実だけであるとは言いきれないものの、少なくとも日常、彼女達が無意識に偽って作り上げている世間一般のイメージ・虚像とは似て異なるものである。いわゆるセックス神話と言うものは、その経験を重ねるにつれ次第に失われて行き、平均的な人々はそこにしごく凡庸な価値を見出すにだけに過ぎなくなる。結局、セックスと言う物が必ずしも至高の存在ではないと言う事に気付かされるに至り、人はそれに対してひどく俗物的な考えに落ち着くものではないか?
 無論、この行為に対して人が置く価値は、その人の生い立ち、性別、性格、年齢、国籍、職業、社会的地位、その他の生活環境、そして最も重要な事だが、いろんな意味(まさにその言葉通り)で相性の良い相手と巡り合う縁があるか、という様々な要素によって違ってきて当然であり、それゆえにこの行為が人間にとって普遍的なテーマと成り得るのである。そして冒頭に挙げたアンの言葉を単に不感症の女性が発するセックスに対する偏見ととるのでなく、その行為そのものは男女の精神性に非常に左右されるものであり、特に女性においてはその傾向が顕著(少なくとも一昔前はそう言われていた気がする)であるとの暗示を含んではいないだろうか。
  一方、グラハムは、自身の病的な虚言癖が元で過去に対人関係で苦しんだ経験から、それ以後、決して嘘を口にする事なく生きて行く事を誓ってきたのだが、皮肉にもそれゆえにかえって現代の社会からスポイルされた世捨て人の様な生活に甘んじている青年だった。”世の中、正直なだけでは渡っていけない”とは良く言うが、まさしく現代社会は、全く嘘を付かずにまともな対人関係を結んで生活して行く事など到底できない世界なのである。
  他人とのトラブルを避けるために正直であろうとしたグラハムではあったが、結局、彼の存在は好むと好まざるとに関わらずアンとジョンの仲に影響を与える結果となってしまい、グラハムは必要悪としての嘘と言う行為の存在意義を認めざるを得なくなる。アンの夫・ジョンが最後にグラハムに告白した高校時代の秘密は、当然彼にとって知りたくもなかった事実に違いなく、その時グラハムは始めて嘘を付かない事の残酷さを身にしみて知ったに違いないのだ。
  正直であらんとしてはいても、結局、夫に対する自分の本当の気持ちをごまかしてきたアン、そして嘘を付かない生き方のために一種特異な方法で他人との関係を維持してきたが、結局それを否定せざるを得なくなったグラハム。一つ言える事は、彼等二人は自分自身を偽ってきた心をビデオテープと言う無機質な媒体に投影させる事で、初めて素直に向き合える相手を得る事ができたと言う事だろう。この作品は観ると素直になるれると言うよりも、素直な気持ちで観ないと一回観ただけじゃピンと来ない作品かもしれない。




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