いろいろな本を読んでみよう!

         


『あ行』

あの世からのことづて
松谷みよ子 ちくま書房

 作者の松谷みよ子さんは、竜の子太郎モモちゃんとプーなどの童話で、よく知られているが、この本は全国各地の人から聞いた怪異話をまとめた現代版の遠野物語。心霊現象を恐怖の話ととらえるのではなく、昔からあった怪奇な民話が、現代でも変わらず生き残っているといった捉え方なので、心霊モノに関して懐疑論者であっても楽しみながら読むことが出来る。
 まとめられた話は、主に昭和20年代から30年代に起こった出来事として語られているケースが多いが、そこに表れる死者の霊たちは、自分の葬儀の準備に電気釜のスイッチをつけていったり、卒業前に亡くなった子どもが卒業式に表れたりと、妙に存在感を持っている。
 また、死の淵から生き返るといった臨死体験の話も紹介されているが、三途の川で死んだ人から、この世に悔いを残していることを片付けてくれと頼まれた話など本当だったらかなり不思議な話(この話がタイトルのあの世からのことづてにつながる)。生きかえってから、言われた通りに、その場所に行ってみると聞いた話の通りだったというパターンは、怪談としても完成されている。
作品のツボ→怪奇話だけでなく、おもしろ話も収録されている。山を歩いていてクリームパンが食べたいと思ったら、切り株にクリームパンが乗っかっていた話など思わず笑ってしまう。
アホウドリの糞でできた国 ナウル共和国物語
文:古田靖 絵:寄藤文平 アスペクト

 太平洋上に浮かぶナウル共和国は、かなり特殊な国である。サンゴ礁の上にアホウドリの糞が堆積して生まれた島なのだが、アホウドリの糞は長い年月のうちに燐鉱石となり、それは良質の化学肥料として高く売れるのだ。島の地面を掘って外国に売るだけで莫大なお金が入ってくるので、ナウル共和国は世界でも類を見ないほど富める国となっていく。税金もなければ、教育費も病院も電気代も無料。結婚すると政府から新居が提供されるという夢のような楽園と化したナウル共和国。石油産出国のように大富豪が現れるわけではないが、すべての国民が働かずに生きていけるという世界が実現したのだ。
 しかし、あまりにも大量に掘った燐鉱石は底をつき始め、政府は国を存続させるための新たな手段を迫られることになる。だが、これまで働いたことが無い人たちが、新たに産業をおこすことは容易ではない。農地は鉱石採集のために全て掘り返してしまい、観光で産業をたてようにも穴だらけとなってしまった島は観光にも不向きとなってしまった。周りを海に囲まれ魚が採れるのに誰も漁業をはじめようとしない。しかも働かなかった人たちは肥満が進み、多くの人が糖尿病などにかかっている始末。政治のあり方もずさんだったため、外国との交渉もボロボロで目もあてられない。2003年にはナウル国共和国と全く連絡が取れない事態が発生し、国自体が消滅してしまったのではないかと心配されたほどだ。現実にはありえないほどの豊かな暮らしから、あまりにもすさまじい転落ぶりは、どんな小説も勝てないほどおもしろいが、果たして外国の出来事だからだと言って笑っていられるだろうか。夢のような生活が幸せを与えてくれるとは限らないと教えてくれる1冊である。
作品のツボ→1時間もあれば読みきってしまうような短い物語だが、その簡潔な文章をおもしろいものとしているのは寄藤文平氏のかわいらしいイラスト。ナウル共和国ののんびりとした国民性と寄藤氏のほのぼのとしたイラストが見事にマッチしている。とはいうもののナウル共和国の現状を考えれば、のんびりとしている場合ではないのだが…
阿房列車
内田百間 新潮文庫

 鉄オタの中でもひたすら電車に乗りまくるマニアのことを乗りオタと呼ぶが、内田百關謳カは昭和20年代の戦後間もない頃に、意味も無く鉄道に乗りまくる乗りオタの元祖のような行動をとっている。どうして阿房列車かと言うと、何の目的もなく電車に乗って出かけていき、そのまま何をするでもなく電車に乗って帰ってくるから、その行動を揶揄して阿房列車と名付けたようだが、百間先生いわく自分では阿房だなんて考えていないそうだ。なお、新潮文庫版は、「第一阿房列車」「第二阿房列車」「第三阿呆列車」の3冊からなる。
 「第一阿房列車」には、特急「はと」に乗って東京から大阪まで行って帰ってきた特別阿房列車(昭和26年1月号 小説新潮)、国府津から御殿場線に乗って静岡まで行ってきた区間阿房列車(昭和26年6月号 小説新潮)、博多行きの急行筑紫号を尾道で呉線に乗り換え、再び広島から急行で博多へ向かい、そこから霧島号に乗って鹿児島に向かった鹿児島阿房列車 前章(昭和26年11月号 小説新潮)、宿泊先の鹿児島から、肥薩線で八代まで行ってきた鹿児島阿房列車 後章(昭和26年12月号 小説新潮)、福島で一泊してから盛岡で昔の教え子と会い、青森の手前の浅虫までの道中を記した東北本線阿房列車(昭和27年2月号 小説新潮)、その浅虫から青森に向かい、奥羽本線に乗って秋田で泊まり、さらに横手まで行った奥羽本線阿房列車 前章(昭和27年3月号 小説新潮)、横手から横黒線に乗り大荒沢まで行って横手に戻り、そこから山形まで行き、仙山線で仙台に出て松島を見て帰ってきた奥羽本線阿房列車 後章(昭和27年6月号 小説新潮)までを収録。
 「第二阿房列車」には、雪を見るため上野から急行「越路」で新潟に向かった雪中新潟阿房列車(昭和28年4月 小説新潮別冊)、新潟から帰った3日後に急行「鳥海」で東北の横手に向かい、ついでに横黒線も乗ってきた「雪解横手阿房列車」(昭和28年6月号 小説新潮)、山陽本線の特急の処女運転に乗るため、急行「銀河」で京都に行き、そこからお目当ての特急「かもめ」で博多まで行き、さらに「きりしま」に乗り八代まで行ってきた春光山陽特別阿房列車(昭和28年8月号 小説新潮)、またもや「きりしま」に乗ってお気に入りの八代まで行き、大雨に降られる「雷九州阿房列車 前章」(昭和28年10月号 小説新潮)、八代から熊本に引き返して大雨が降る中、豊肥線で大分まで向かい、水害に巻き込まれる前に九州を離れた「雷九州阿呆列車 後章」(昭和28年11月号 小説新潮)までを収録。なお「第二阿房列車」には鉄道唱歌の第一集・第二集も収録されている。
 「第三阿呆列車」には、「雲仙」に乗って長崎まで向かい、またもや鳥栖から八代に向かった「長崎の鴉 長崎阿房列車」(昭和29年1月号 文藝春秋)、銚子から犬吠崎に向かい、安房鴨川で一泊して房総半島を一周する「房総鼻眼鏡 房総阿房列車」(昭和29年4月号 文藝春秋)、四国の旅に出たものの熱を出して散々だった「隧道の白百合 四国阿房列車」(書き下ろし)、大津で一泊した後に福知山線で松江に向かい、化け狐との出会いが描かれる「菅田庵の狐 松江阿房列車」(昭和30年1月1日号〜2月5日号 週刊読売)、静岡の興津まで行ったものの、強風で帰りのダイヤが乱れる「時雨の清見潟 興津阿房列車」(昭和30年8月 国鉄)、急行「筑紫」で向かった小倉で一泊した後、急行「高千穂」で宮崎に向かい、さらには鹿児島や八代を巡るも、猿顔の男に悩まされる「列車寝台の猿 不知火阿房列車」(昭和30年10月23日号〜12月11日号 週刊読売)まで収録している。
 旅に出ては列車の中や旅先で酒をあおったり、すでに有名になっていることから新聞記者らの歓迎に辟易するなど、そのユーモアあふれる文章で旅の風景が綴られている。国府津では御殿場線に乗り遅れているが、その理由が東海道線が遅れたのに、乗客を走らせるとは何事かとベルが鳴っているのに走らなかったというのだからすごい。それで駅員に文句を行ったら、熱海より先に行きたいのなら東海道線があると言われ、そこで御殿場線に乗りたいんだと告げたら、御殿場線の途中に用があるんですねと言われ、用はないけれど御殿場線に乗りたいと主張する百間先生がおかしくて仕方が無い。なお、阿房列車は月刊IKKIで漫画として連載を開始したが、これは月館の殺人鉄子の旅と続くIKKIの鉄道マンガ三部作となる。
作品のツボ→常に百間先生と一緒に旅に出るのは、友人にして国鉄の職員であるヒマラヤ山系。実にヘンテコなあだ名だが、本名は平山三郎で黒沢明監督の「まあだだよ」では所ジョージが演じている。どこか茫洋とした感じのするヒマラヤ山系くんだが、百間先生とはいいコンビぶりを発揮している。それにしても、待ち合わせの場所にやってきたヒマラヤ山系を、泥棒のような顔をしているとは、百間先生も随分とひどい言い様である。
いちどは行きたい 恨ミシュラン
神足祐司、西原理恵子 朝日新聞社

 西原さんは、どこまで毒を吐きつづけるのだろう。ゆんぼくんなど彼女のまんがを読んでいる時にも感じた事だが、世の中のルールや、こういうことは書かないでおこうという理性を、どうしたらここまで排除できるのだろうか。
 よくグルメガイドに載っているような店を訪問して、どこがうまいんじゃこんな店といった感じの、身もふたも無い紹介の仕方がされているのだが、これに引き続き発売されたそれでも行きたい恨ミシュランやっぱり行きたい恨ミシュランといった3部作が、ベストセラーになったことを考えると、誰かがこういったことを書いてくれることを、誰もが望んでいたのではないだろうか。
 西原さんが独自で描いているまんがもおもしろいと思うのだが、神足さん(こーたりん)や、清水義則伊集院静などの物書きと組んだ時に最高の力が発揮される。書き手側の、ちょっと高いところにある語り口を、彼女のイラストがレベルを下げてくれて、おもしろいものにしているような気がするのである。
作品のツボ→編集後記に、どこの店から抗議がきたとか、全部載っているところが生々しい。
いやでも楽しめる算数
清水義範 講談社 え・西原理恵子

 おもしろくても理科どうころんでも社会科ときて、次は算数のおもしろさを紹介しようとしたのだが、算数はなかなかの強敵だったようで、文章から苦労がにじみ出ている。算数はどうしても受け付けない人がいるというのは承知の上で、そんな人でも楽しめる題材を見つけてきてくれたのだが、自分も含めて算数アレルギーは根が深いものがある。それはイラストを描いている西原にとっても同様だったようで、途中から本文の内容に合わせたイラストを描くことを完全に放棄してしまっている。
 確かにそこに出てくる算数の問題は、どうしてそうなるかが理解できたら世界が広がるような感覚に浸れるものだと思う。73×77のように10の位が同じで1の位が足すと10になる掛け算は、10の位のどちらかに1を足して8にして掛けると7×8=56、1の位を掛けると3×7=21となり、それを5621と並べるだけで、それが答えというのには衝撃を覚える(42×48=2016、81×89=7209というのも瞬時に計算できる)。しかし、こうして書いてみると改めて算数がきらいな人にとっては、この文章を読むことさえ苦痛なのではないかと思えてきた。どれだけの人が連載についてきてくれるかと、清水先生が不安がっていたが、その気持ちが少しだけ理解できた。
 連載の3回目までは数字のトリック的なところから算数のおもしろさを伝えようとしたが、これは読者がついてこないと思ったのか、西原の出産に合わせて連載を休んでからは、算数のエッセイ的なものに方向転換することになる。おもしろかったのは算数の文章題に出てくる太郎さんは間抜けすぎるというもので、確かに10分前に出発した人を急ぎ足で追いかけたり、浴槽の栓を取って水を抜きながら上から水を入れていくというのは、間抜けな行動以外の何物でもない。5種類あるお菓子の景品を全て揃えるには平均して何個買わなければいけないでしょうかといった問題なんかもおもしろいと思ったけれど、本書に限っては続編でもっといやでも楽しめる算数は出ないんだろうな。
作品のツボ円の4分の1が重なった部分の面積を求めるという問題は、清水先生も良い問題として紹介しているが、この問題は小学生の時に宿題で出されたのを、真夜中まで頭をひねくり回していたら、天の啓示のように突如として解けたことを、今でも覚えている問題である。
可笑しな家
黒崎敏 二見書房

 世界には、こんな変わった家があるのかと驚かせてくれるのが本書。トマソンのような意図せずして生まれた変わった家ではなく、あくまでも建築家が緻密に考えて設計した可笑しな家が大半を占める。紹介されている物件は全部で60軒にのぼり、全てカラー写真で掲載。そのすごさは文章では伝わらないので、ぜひ本書を手にとって、写真で見てもらいたいものである。
 可笑しな家にはいくつかのパターンがあり、一つめのパターンは、どうしてそんなところに家を建てたのかというものである。サンゴ礁のど真ん中に家を建てた環礁の家、巨岩の上に家を建ててしまった岩宮殿、見ていると足がすくむ崖っぷちの家など、人間はどんなところにも住めるのかと驚かせてくれる。家の前に氷の壁が聳え立つアイスランドの氷河の家などは住んでみたい気にもなるが、神のお告げを聞いてから30年も木の上で生活しているミノムシの家などは、とても尋常とは思えない。このミノムシの家のすごいところは、木が成長するに従って、家がどんどん地上から離れてしまったことにある。
 二つめのパターンは家自体の形が可笑しいというものである。UFOの形をしたドイツのUFOハウス、首が伸び縮みするスウェーデンの妖獣の館、靴愛好家が建てた靴の家など家なのか靴なのか分からなくなってくる。
 それらとは別に、その土地では当たり前でも、他の民族から見たら可笑しな家というのが三つめのパターン。南アフリカ共和国のモザイク柄の家や、モンゴルの土壁の民家などが、これにあたる。スコットランドの石重しの家などは、その土地ならではの実に良い雰囲気をかもし出している。
 なお、60軒の物件の中で1軒だけ、日本の物件があるのだが、これは東京にある繭の家。交通の便も良いところにあるので、実際に可笑しな家を外から見学することもできるが、うまく探せばストリートビューでも見つけ出すことができます。
作品のツボ→単に可笑しいものが好きという人物が写真を撮ってまわったというわけではなく、著者の黒崎氏が建築家であるため、物件によっては断面図まで入れて詳細に紹介されている。家自体が可笑しな形をしている物件などは、建築家の観点から分析されているので、その可笑しさがより伝わるものとなっている。
大人を休もう
石川文子・編 桜蔭社

 小学校の時に学年が新しくなると、真っ先に国語の教科書を開いて、どんな作品が載っているか目を通したものである。教科書に載っている物語は、漢字を覚えたり読解力を身につけるために読まされたことから、良い思い出を持っていない人も多いかもしれない。しかし、大人になって改めて、その物語を読み返してみると、そこに込められている物語の奥の深さに胸をうたれるとともに、当時の思い出が甦ってくる。
 今回は昭和40年から平成16年度の小学3〜4年の教科書に載った作品の中から、多かった順にベスト10の作品+印象深かったものを掲載。年代や地方によって採択された教科書が異なることから、人によって読んだ作品は違ってくるだろう。モチモチの木の豆太の勇気ある行動に感動する人もいれば、白いぼうしに出てくるタクシー運転手の松井さんを懐かしいと思う人もいるだろう。そして、今回初めて読んだ作品でも「サーカスのライオン」など感動的な作品は多い。タイトルにもある通り、たまには大人を休んで子どもの時に読んだ(読まされた)作品を読み返してみるのもおもしろいかもしれない。
作品のツボ→教科書の物語といえば新美南吉の存在を無くしては語れない。この本にも手ぶくろを買いにごんぎつねの2作が収録されているが、文句無くどちらも名作である。
おもしろくても理科
清水義範 講談社 え・西原理恵子

 学校で習ったことなんて、社会に出てから何の役にも立たないという考えを打破しようと、学問ってこんなにおもしろいんだよという観点から取り上げるシリーズものの第一弾となった作品。この理科を皮切りに、社会、算数とシリーズは続いていくが、最初に理科を取り上げたのは、そのおもしろさを他の教科と比べて伝えやすかったからではないだろうか。
 電車の中を飛んでいるハエが、どうして電車の速度についてこられるかと西原が疑問に思ったことをきっかけに、慣性の法則について紹介したことからはじまって、時間の概念、理科の授業で行う実験のおもしろさ海辺の生き物など、理科に興味の無い人でも、喜んで食いつきそうなテーマを取り上げていく。中でも食中毒を引き起こす細菌については、サルモネラ腸炎ビブリオなど名前を見ているだけでもワクワクしてくる。ちなみに改めて読み返してみると太陽系の惑星が水金地火木土天海冥となっていて、冥王星が惑星でなくなった今、理科で習ったことも不変ではないのだなと実感させられる。
 そして、これはいけるぞということで調子に乗って出しちゃった続編が、もっとおもしろくても理科である。この続編では生物の進化とは何か生物と非生物との違いは何か男と女の生物的違いは何か、そしてついには宇宙は本当にビッグバンで誕生したのかというおそろしい領域まで踏み込んでいってしまう。宇宙の誕生や生物の進化について考えてみることで、自分という固体が、どういう存在であるかが見えてくるような気がしないでもないが、そんなことを知らなくても生きていけるというのも、また事実なのである。
作品のツボ→せっかく清水先生が理科について分かりやすく説明したかと思ったら、たった1コマの挿絵で全てをぶち壊してしまう西原の破壊力はすさまじい。結論として興味を持たなければ、学問というのは身につかないものなのだということなのか。
面白びっくりTVニュース 噂のなんじゃもんじゃ
竹澤忠 二見文庫

 あなたは覚えているだろうか、数年前どこの家庭でも、庭に猫よけとして水を入れたペットボトルが魔除けのように置かれていたことを。そもそも、そんな珍奇な現象がはやったのは、あるテレビ番組が原因だった。その番組とは「噂のなんじゃもんじゃ」、TBSのビッグモーニングから、後にはニュースの森の中で名物となったコーナーである。番組に寄せられた噂の真偽を確かめるために、現場に足を運ぶといった内容で、ペットボトルの時も東京荒川区で、町に変なペットボトルが置かれているという噂を調べにいったところ、それをテレビでみた視聴者がまねて全国的にはやってしまったのである。
 恐るべきは人の噂だが、そうやって噂一つで全国を(時にはバリ島まで)飛びまわった記録は、まさに噂に振り回されているといった感じなのである。取材前に下調べをしないで現地に行くので、いざ行ってみるとこれが放送できるのかといったレベルの(まゆげを描かれた犬ゴジラのように見えなくもない形の木など)他愛の無いものまである。
 しかし、あとがきにもあるように変わった噂の影には、必ず町の名物となるような変わり者がいるのである。例えば定本・二笑亭綺譚で紹介されている二笑亭が、今でも残っていたらやはり町のうわさとなっていただろう。これも赤木城吉という変わり者がいたわけで、科学がいくら進歩しても、奇妙な噂が無くならないのは、こういった人達のおかげなのだと、うれしく思ったりもするのである。
作品のツボ→自分にとってゆかりのある土地では、足柄峠の水をかき混ぜると必ず雨が降る池が紹介されている。この回では本当に雨が降り出したというので、一度実際に足を運んで確かめてみたいものである。
『か行』

怪奇トリビア 奇妙な怪談傑作選
唐沢俊一・編著 竹書房文庫

 唐沢俊一のアンテナは普通の人から見て確実におかしな方向に向いている。ここで彼の触手に引っかかって集められたのは戦後に発行されたカストリ雑誌に収録されたB級ホラー小説の数々。これらの小説が恐ろしいぐらいに恐ろしくないのである(実に変な日本語だな)。小説としての出来は、おそまつなものであるし、エロをねらって書かれたのであろう作品も中途半端。それでいて読後感も、決して良い物ではない。それでは、何でそんな作品を読むのかと問われると、駄菓子屋で売っている、いかにも身体に悪そうなお菓子を、こりゃ身体に悪そうだと言いながら嬉々として口にする感覚に近いものがある。
 中でもくだらなかったのが昭和26年に奇抜雑誌に掲載された「物を喰べるお尻」。ある日、戯れにおかめの面をつけて舞台に上がったストリッパーが、お面のたたりでお尻に人面瘡が出来てしまうという物語。キャラメルをムシャムシャ食べる人面瘡もマヌケだが、唐突に訪れるハッピーエンドには、何だそれと腰砕けになってしまう。また、中途半端でミステリーにもなり得なかった「口が二つある男」や、トンデモ本でも紹介されていた金髪の美女が猿の代わりにロケットで宇宙空間に飛ばされてしまう「涙は宇宙空間に輝く」など、いずれも頭を抱えたくなるような作品ばかりである。
 そうした作品に加え、唐沢俊一自身が、そうした路線を真似て書いたオリジナル作品も2作収録。いずれも、名作とは程遠いものだが、唐沢氏が解説で書いているように、こうした作品が民衆の良いガス抜きになっていたりするのである。
作品のツボ→そうした小説とともに、妖怪や怪奇現象に関するトリビアも載せているのが、タイトルの由来。ケネディ大統領暗殺のショックで4年間も気を失っていた女の子がいたというのには、ちょっと驚いてへぇーボタンを押してしまいそうである。
貸本小説
末永昭一 アスペクト

 自分が子供の頃、わが家では祖母が雑貨屋を細々と営んでいたが、自分が生まれる前は雑貨屋の前に貸本屋を営んでいたと聞いたことがある。いったい貸本屋とは何をするところなのか、普通に書店で本を買うのとは違うのか、はたまた図書館で本を借りるのとは違うのか、身内がやっていたことにも関わらず得体の知れないものであった。それもそのはず、貸本というのは昭和30年代に花開いた限られた時代の文化ということで、本書によると全盛期には全国で2万軒から3万軒の貸本屋が存在したという。どういうシステムかというと、本を買うのと同等の金額を保証金として本を借りていき、本を返すとお金の一部が返ってくるというもの。本が返却されなくても、お金はもらっているので貸本屋は損をしないし、借りる側としては安い金額で本が読めるというメリットがある。
 この貸本屋に並ぶ本は普通の書店に並ぶ本とは違い、貸本専用の本となるのだが、貸本の主な読者は学生やサラリーマンなので、気楽に読める大衆文学が中心となる。そこで、貸本文化花盛りの頃に生まれた貸本小説の数々と貸本作家について、本書では紹介されている。「第一章 ミステリ・SF」「第二章 時代小説」「第三章 現代小説」の三章に分けて紹介しているが、この3つのジャンルこそ貸本を代表するもので、最も大衆が求めたものであった。ミステリといっても、高度なトリックなんか大衆は求めていない。血なまぐさい事件が起きて、それを解決する探偵が登場すれば大満足なのである。栗田信「花婿立候補」に収録された「カッポウ先生行状記」では、西洋館にマンボを踊る幽霊が現れるという噂を聞いて駆けつけてみれば、トルコ人によって蜘蛛男に改造された男が住んでいたというストーリーが展開されるが、どこからそんな発想がわいてくるのか疑問を呈したくなる。しかし、この時代の貸本は文化の柱になっていたため、アクション映画の原作になったものも少なくないのだ。
 時代小説も司馬遼太郎や柴田錬三郎のような壮大な作品とは縁遠く、貸本の時代小説のタイトルで最も多く使われたフレーズは「若さま」、次いで「浪人」とあるように、あくまでも大衆が自分を投影できそうな人物が主人公となっている。正に芝居小屋の舞台を見にいくような感覚で人々は本を借りていくのである。そして、現代小説ともなるとサラリーマンのちょっとした恋愛騒動のような作品が多くなる。読んで楽しければいいという作品が多く、ツッコミどころも満載なのだが、本書で紹介されている貸本は、どれも愛すべき作品ばかりだ。こうした貸本作家の多くは鬼籍に入られてしまったが、童門冬二や太田蘭三のように今では有名な作家となって活躍している人もいる。時代の仇花である貸本だが、このまま忘れられてしまうのは少しさみしいように思う。祖母が存命のうちに、貸本について詳しく聞いておかなかったことが今となっては悔やまれる。
作品のツボ→これだけ多くの人に愛された貸本文化は、どうして廃れてしまったのか。それは貸本小説作家である竹森一男の自伝的な作品「鬼宴」から読み取れる。純文学が売れず、金になる貸本小説を書いて生活費を得る主人公は、その金で念願のマイホームを建てるものの、ローンも返す間もなく貸本ブームは過ぎ去り、貸本小説を出していた出版社は倒産してしまう。そもそも本を買わずに貸すだけの貸本では、店の品揃えを次から次へと変える必要が無く、作品の新陳代謝が行われないので、成熟しきったら廃れていく運命にあったのだ。それと、これは自分の推測だが高度経済成長により、本ぐらい新刊を買えるという人も増えたのであろう。こうして、巷にあふれていた貸本屋は消滅し、現在では古書店でも当時の貸本を見つけることは難しい。消えてしかるべき文化だったのかも知れないが、このまま消滅させてしまうのは惜しいと思うのは自分だけだろうか。
ガダラの豚
中島らも 実業日本社

 行方不明になっていた娘を、アフリカの呪術師から取り戻すべく、勝負を挑む民俗学教授たち拳法の達人である教授の助手や、超能力少年新興宗教の教祖や、インチキ超能力を暴く手品師など次から次へとくせものが登場する。しかも、どのキャラクターもしっかりと立っていて、読むものを引きつける。
 アフリカの描写も実にリアルで、作者のアフリカに対する思い入れの深さが感じ取れる。現代の日本では機能しないはずの呪術(アニミズム)が、現実に存在するものとして表れるとき、どれだけ恐怖をもたらす存在となるか考えさせてくれる。
 それにしても、93年に出版された本なのに、第1部で描かれているインチキ新興宗教が巻き起こす事件が、オウム真理教と酷似しているのには驚かされる(教祖のキャラクターも似ている)。
 発売された年のミステリーベスト10にランキングされたのもうなずけるほどの、へたな推理小説では足元にも及ばない、予測のつかないラストの展開には驚愕するばかり。
作品のツボ→民族学教授はアル中なのだが、どうにも作者の中島らもとダブって見えてしまう。
消えるヒッチハイカー
ジャン・ハロルド・ブルンヴァン 新宿書房

 口裂け女、トイレの花子さん…いつの世にも都市伝説は生み出されてくる。そして、都市伝説は日本だけでなく世界中に存在する。本書はアメリカの都市伝説を収集した研究本である。その内容は、噂の広がり方や変化して行く様子などを詳細に解説しているのだが、語られる話の部分を拾い読みするだけでも、なかなか興味深い。
 例えば、アメリカでは「死人の車」の話が怪談というより、本当にあったことのように噂として、しばしば語られるという。どういう話かというと「友人が高級車を破格の値段で手に入れた。何でそんなに安かったかと言うと、死体を乗せたまま砂漠に放置されていたので、死臭が抜けないからだ」といった感じである。これが車の種類や値段、あるいは死体のあった場所がトランクになったりしながら語られ続けているのである。この噂の背景には、アメリカ人の高級車崇拝があると解説されている。
 さて、表題にもある消えるヒッチハイカーだが、これこそアメリカでもっともメジャーにして、古くからある都市伝説。ヒッチハイクしている若い女の子を乗せてあげて、目的地に着いて振り帰ると消えているというもの。お気づきだと思うが、日本の場合もタクシーに姿を変えて、息づいている噂である。これを読むとどこの国でも都市伝説というのは変わらないものだと感じさせられる。
作品のツボ→濡れた犬を乾かすために電子レンジに入れてしまう話(この話は犬が赤ちゃんに進化していく)、髪を洗わなかったために、蜘蛛の卵が孵って脳を食い破られてしまう話。いずれも普通ならば笑い話だが、信じてしまうところが都市伝説なのである。
京都魔界案内
小松和彦 知恵の森文庫

 古い歴史に彩られ、毎年多くの観光客が訪れる京都。しかし、古の京都は妖怪変化が跳梁跋扈死し、陰陽師たちが活躍した地でもあった。その痕跡は、今も京都に多く残されている。そんな京都に残る魔界の入口を紹介したガイドブックとなっている。
 いまや若い女性たちの間でブームとなっている安倍清明を奉った清明神社や、祟り神だった菅原道真を納めた北野天満宮などが分かりやすい解説で紹介されている。天狗が飛び交った鞍馬山や、鬼が現れた羅城門跡、そして今でも幽霊スポットとなっている深泥池など、京都の魔の部分が、魅力的に描かれている。オオナムチアメノウズメなど女神転生で聞いた名前が出てくると、それだけでうれしくなってしまう。祇園祭りも華やかなイメージしかなかったが、疫病を引き起こす神である牛頭天王から見逃してもらうためのものだと知ると奇妙な気分にとらわれる。
 ご存知、比叡山では鉄鼠の檻でおなじみの鉄鼠を沈めるために建てられた鼠の秀倉も紹介している。ちなみに、この本の解説は京極夏彦が書いています。
作品のツボ→観光名所として、あまりにも有名な清水寺ですが、「願いを聞いてくれないと、ここで死んで参拝客を祟ってやる」と観音様を脅迫するエピソードが「信徳丸」にあったというのには驚きです。この本を片手に京都を観光すると、見方が変わってくるかも…。
国マニア 世界の珍国、奇妙な地域へ!
吉田一郎 交通新聞社

 世界には様々な国がある。アメリカや中国、イギリスなどは誰でも知っている大国だが、そんな国があったのかというぐらいマイナーな国も存在する。本書は全五章から成り立っており、第一章「小さくても立派にやってる極小国家ベストテン」では、国土の面積が小さい順から、バチカン市国、モナコ公国、ナウル共和国、ツバル、サンマリノ共和国、リヒテンシュタイン公国、マーシャル諸島共和国、セントクリストファー・ネーヴィス、モルディヴ共和国、マルタ共和国の10カ国を紹介。国土が小さいということは資源が乏しいことを意味するわけで、それぞれの国がどうやって国家を維持しているかが実におもしろい。ある国ではギャンブルで、またある国では観光を売りにして国家予算を築き上げているわけだが、記念切手の発行が重要な収入源になり得るという点が実に興味深い。なお、この中のナウル共和国は、アホウドリの糞でできた国でも取り上げられた国だが、誰も働こうとしないことから壊滅の危機に瀕している国である。自業自得とはいえ、やはり小さい国が生き残るのは大変なのである。
 第二章「国の中で独立するもうひとつの国」は、いわゆる自治州と呼ばれるような国で、植民地支配から逃れ、独立を目指している国。ここで紹介されているアトス山などは東方正教会の聖地で、バチカン市国ほど立派な独立国ではないが、1400人ほどで一つの国を創り上げている。ここは女人禁制となっているのだが、飼育されている牛までもがオスばかりという徹底ぶりに驚かされる。なお、中国でありながら中国本土とは異なる法律で動いている香港特別行政区や、中国との間で揺れ動くチベット自治区も、この章で紹介されている。
 第三章「ワケあって勝手に独立宣言した国々」は、本来なら隣国に含まれるはずなのに、宗教や民族対立などから独立を唱えている国々。モルドバの端っこで縦に細長く伸びる沿ドニエストル共和国などは、ソ連が崩壊した今にあっても、ソ連を維持し続けようとする国。硬貨にはソ連の紋章が描かれ、パスポートにはCCCPと記されているなど、正にソ連の亡霊と呼ぶべき国が、世界には行き続けているのである。
 第四章「常識だけでは判断できない珍妙な国・地域」は、反乱した水兵たちが死刑を逃れるためたどり着いて、一つの国を創り上げてしまったピトケアン島などを紹介しているが、正に常識では考えられない国である。ピトケアン島などは人口46人しかいないが、成人男性12人のうち4人が未成年淫行の罪で実刑をくらってしまったため、働き手が不足し存続が危ぶまれているというのもすごい話である。そして、なんといってもカッコいいのがマルタ騎士団。正当な国家ではないものの聖地防衛に尽くした騎士団たちが、現在でも国連総会にオブザーバーとして参加しているというのがすごい。現在、マルタ騎士団のメンバーは1万1500人だが、何をやっているかと言えば世界中で医療活動を行っているらしい。
 第五章「かつてはあったこんな奇妙な国・地域」では、すでに無くなってしまった国を紹介。大東諸島は現在の南大東島や北大東島のことで、かつては日本でありながら、玉置商会という一企業が統治していた。八丈島から島民を連れてきて移住させ、サトウキビを栽培させたということだが、現在も八丈島と沖縄の言葉がごっちゃになっているのは、このためである。その他にも今はバングラデシュとなってしまった東パキスタンや、その存在すら無かったことにされてしまったローデシアなど、一つの国として存続することが、いかに難しいことであるかを教えてくれる。
作品のツボ→特別な事情を抱える国を知ることで、国が国として存在するためには何が必要であるかが見えてくる。勝手に独立を宣言しても、独立前の方が暮らしやすかったら、むしろ植民地であることを望むようになるし、一つの国になろうとしても、宗教や民族の対立があれば、別の国として独立を望むようになる。ただ、こうした小さな国の歴史から見えてくるのは大国のエゴである。資源を求めるため起こった領土争いが一つの国を分断してしまう事実を忘れてはならない。
工夫癖
久住昌之 双葉社

 路上観察において、かつて役立っていたものが、何らかの変化で無用の長物となってしまったものをトマソンと呼ぶ。そして、この作品では何かに役立たせようと作ったのは良いが、どこかおかしなものになってしまったものをオジハルと呼んでいる。
 オジハルとは作者の久住氏の父親のアダナ。オジハル氏は灰皿に吸い駆けのタバコが落ちないように、針金でふたを作ったり、人が用をたしている時にトイレの戸が開けられないように点灯ランプを作ったり(ちゃんと、カギを閉めれば良いのに…)するなど工夫癖のある人だ。しかし、そうやって作られたものは、行き当たりバッタリのアイデアから、その場にあるものだけで作られるので奇妙奇天烈なものが出来あがってしまう。
 しかし、私達は決してオジハルを笑うことは出来ない。町にはいたるところにオジハル作品があふれているのだから。ここで紹介されているものは、ガムテープで完全に封印してしまった壊れた玄関チャイムや、商品以外の余計なものまで陳列されてしまったショーケースなど、ほっておけば良いのに、いらぬ工夫癖を出して一線を越えてしまったオジハルの魂の集まりである。超芸術トマソンをさりげない自然らしさとするならば、こちらは人間くささが魅力といえる。
作品のツボ→傑作なのは田舎カレーの一連のキャッチフレーズ。10年の歳月をかけて、「変わらぬ人気の田舎カレー」「売れ過ぎの声も聞こえる田舎カレー」など次々と変わっていく様子を追っかけて行く。

ゲームマシンはデイジーデイジーの歌をうたうか
小野不由美 ソフトバンク

 屍鬼や十二国記シリーズの作者として、そして綾辻行人氏の奥様としても有名な小野不由美のゲームエッセイ本。ちなみにタイトルの元ネタは、言わずと知れた2001年宇宙の旅スーファミ誌上で連載されたのが、92年の1月から96年の1月までの5年間なので、紹介されているゲームも、ドラクエ5をはじめ、FF4〜6、そしてトルネコの大冒険から、弟切草風来のシレンストリートファイター2など、ゲーム文化華やかなりし頃のゲームが名を連ねている。ふと思うのだが、この頃のゲームが一番おもしろかったのではないだろうか。ちなみに、かまいたちの夜については、友人の我孫子武丸が作ったゲームだけあって、その視点から語られる感想が興味深い。
 小野女史のエッセイの特徴は、ゲーム自体のストレートな思いより、そこから派生するプレイヤーの感情を中心に据えているところにある。そんな小野女史は大のRPG好きなのだが、彼女がここで唱えている、ドラクエはお見合い、FFは恋愛、メガテンは不倫という名言は、実に的を得ていて、納得させられるものがある。このエッセイから10年近い歳月が流れた今、メガテンにいたっては、複雑に入り乱れてドロドロになっているところがまた…。
 また、方眼紙を片手にダンジョンを全てマッピングするとか、ファイヤーエンブレムのお気に入りキャラはナバールなど、自分と共通する点が多いのもうれしいところである。そして私は、彼女が当時ハマっていた第4次スーパーロボット大戦のおもしろさを、ようやく理解してプレイしている時代遅れな人間なのである。そして今、小野女史は、何のゲームを、どのような思いでプレイしているのだろうか。この本を読むと、それが気になってくるのである。
作品のツボ→この本のもう一人の作者は、イラストコーナーを担当した水玉蛍之丞。トンガリ耳、背中に羽などで括られて紹介されているゲームキャラのイラストが実に、よく描けている。
こいつらが日本語をダメにした
赤瀬川原平、ねじめ正一、南伸坊 東京書籍

 日本語というのは本当に奥が深くておもしろい。しかし、そんな日本語の揚げ足を取るように「首を長くして待つ」とか「小股が切れ上がる」などの言葉から連想されるイメージを、鼎談形式で好き勝手に話をふくらませ、妄想の域にまで広げていく。
 あまつさえ、その妄想を具現化させてバカ写真まで撮っている。この写真のくだらなさは本を見てもらうしかないが、例をあげれば本当にのどから手が出ている写真とか爪に火をともしてタバコに火をつける写真である。
 原平さんや南伸坊は路上観察の分野において超芸術トマソンなどで、独特の感性を発揮している。ねじめさんに関しては、熱烈な巨人ファンというイメージしかなかったが、この本を読んで印象が変わりました。
作品のツボ→この本を読んでから屋台に毛の生えたような店といった言葉を聞く度に、本当に毛の生えた店を連想するようになってしまった。
巷説百物語
京極夏彦 角川書店

 江戸の大店の息子に生まれながら、怪異なる話を聞くのが大好きな考物の百介は、おもしろい話を求めて諸国を旅して歩く変わり者。そんな百介が旅先で出会ったのは、妖怪話を利用して悪人を懲らしめるという変わった連中。事件を解決することで誰かが傷付くような場合でも、妖怪のせいにしてしまうことで、全てを丸く収めてしまうという手練手管を持っている。一味のリーダーを務めるのは、小股潜りの又市というお札を売って歩くインチキ坊主。絵図面は全て又市が頭の中で描き、鈴を鳴らし「御行奉為――」の言葉一つで悪党連中を闇に葬り去っていく。又市の仲間も、山猫廻しのおぎん事触れの治平など変わった連中ばかりである。
 本書では、「小豆洗い」、「白蔵主」、「舞首」、「芝右衛門狸」、「塩の長司」、「柳女」、「帷子辻」の6篇を収録。それぞれの妖怪にちなんだ事件に百介が巻きこまれることになる。同じ京極夏彦の作品でも、姑獲鳥の夏魍魎の匣などの妖怪シリーズとは、時代も江戸時代ということもあり、全く違った雰囲気を醸し出している。江戸時代で悪を懲らしめる集団といえば、必殺仕事人を連想するが、京極夏彦が必殺シリーズ好きであることから、それを意識して書いたものでないかと思われる。
 「小豆洗い」は百介が又市たちに出会った最初の事件となるが、この峠の山小屋の中で又市やおぎんが、暴力をふるうことなく悪党に鉄槌を下すのを見て、百介は又市の仕事に首を突っ込むようになる。又市にとっても、百介のような堅気の人間がいることは、仕事がやりやすいということで、仲間に引き入れる。ちなみに、山小屋に閉じ込められて誰が敵か味方か分からないというパターンは、必殺シリーズの初期に好んで、よく用いられた手法である。
 「帷子辻」は、京都の帷子辻に女性の腐乱死体が連続して投げ捨てられる怪異を追った話。事件は解決したものの、その気持ちが少し分かると語る又市は、おそらく「嗤う伊右衛門」の岩のことを思い出していたのであろう。ちなみに、本書はシリーズ化され、続巷説百物語後巷説百物語が、これまでに出版されている。
作品のツボ→この作品を映像化してWOWOWで放送したものが「京極夏彦 怪」。又市を田辺誠市が演じ、「七人みさき」「隠神だぬき」「赤面ゑびす」「福神ながし」の4作が放送された。なお、本書に収録されている「芝右衛門狸」をドラマ化したものが、「隠神だぬき」である。
『さ行』

裁判長!ここは懲役4年でどうすか
北尾トロ 鉄人社

 犯罪を犯した人間が裁かれる間には様々な人間ドラマが生まれる。かといって普通の人なら、自分とは関係ない裁判を傍聴しようという気は起こらない。というか、関係ない裁判を傍聴して良いことを、どれだけの人が知っているだろうか。ところが著者の北尾氏は、地裁や高裁の傍聴人となって裁判の流れを楽しむようになる。著者も書いているが正直言って不謹慎といえるわけで、傍聴した事件の中には殺人事件もあり、大切な身内を殺された被害者もいる中、ただ興味本位で裁判を覗かせてもらおうというのだから失礼極まりない話である。
 しかし、この傍聴記録がおもしろいのである。北尾氏は傍聴するようになってから日が浅く、どの裁判がおもしろいか分からず右往左往するばかり。それでも、これだけおもしろい事件にぶち当たるのだから、傍聴マニアと呼ばれる人間がいるのもうなずける。裁判は検察側弁護側のぶつかり合いで、互いに知略をめぐらせながら被告の罪を軽くさせるか重くさせるかの、やり取りが繰り広げられる。しかし、そんな思いを台無しにしてしまうような被告の言動もあったりするから目が離せない。もちろん、1回の裁判で判決が出るものでないので、一度見た裁判の結果を知るためには何度も裁判所に足を運ばなければならない。それでも、最初から最後まで裁判を見続け判決を聞いた時は感動物であろう。
 本書を読むとオウム事件の裁判が長引きすぎてグダグダになっていることや、覚醒剤所持で逮捕された競馬の田原騎手の弁護側の証人に漫画家の本宮ひろ志がなっていることが分かって実に興味深い。自分の仕事先が巻き込まれた詐欺事件まで北尾氏が傍聴しているのには驚かされたが、おかげで事件の顛末を知ることができた。ヤクザの関係者で埋め尽くされる傍聴席で裁判を見守り続ける北尾氏は大したものだと思うが、今度は有名人の裁判を見てみたいとか、わいせつ事件の裁判は見ておかなければと飛びまわる北尾氏は、やっぱり不謹慎だと思うんだよなあ。
作品のツボ→巻末には特別座談会として、傍聴マニア集団である霞ヶ関倶楽部の面々が熱く傍聴について語っているが、このメンバーは北尾氏なんかひよっ子扱いの傍聴の達人ばかり。彼らの言動を見ると裁判って本当におもしろいものだと思えてくる。彼らが判決を下した方が被告に対して適切な裁きが行われるような気がする。
殺人全書
岩川隆 徳間文庫

 バラバラ殺人から梱包殺人にいたるまで、明治から昭和の殺人事件を、様々なジャンルに分けて分析した一冊。ルポライターである著者が、事件の関係者に取材しながらまとめているので、生の迫力が伝わってくる。
 第一章「処理の美学」で語られるのは、殺害後に死体をバラバラにして処理をした事件。バラバラ事件というと残酷に感じるが、その大半が勢い余って人を殺してしまい、その事実さえ無かったことにしたいという思いから、どうにか死体を無くそうとした哀れな犯人像が浮かび上がってくる。それだけに人違いから殺した女性の死体をバラバラにして捨てた、古屋栄雄の事件は常人には理解し難い事件である。また、駅留めの荷物として死体を送って、後は知らないとばかりに女性と旅行を楽しむ犯人など、殺人を犯したものは一律にして愚かである。やはり殺人というデメリットの大きい手段を取らざるを得ない状況に追い込まれること自体、賢いものが辿る道ではないのであろう。金や愛憎のもつれから殺すしかないという考えにいたり、殺したら殺したで、今度は死体の処理に頭を悩ませる。そうした刹那的な生き方を送る犯人が多いように思えるが、どうしてそうなったのか著者が少年時代から生い立ちを辿っていく。
 第三章「無力者の執念」で紹介されている、父親のコネで東大に入り、医者の道に進んだものの、その地位に固執するあまり、ついに東大助教授を毒殺するに至った事件では、犯人の小心ぶりに読んでいる方も情け無くなるが、出所後に再び医者を開業できたことに、法律の無力さというものを感じざるを得ない。
 第五章「偏執の日記」では、殺人計画を日記に書いている犯人が取り上げられるが、昭和53年に八丈島で行きずりの女性を殺した犯人の、中学生の頃から人が殺したくて、人を殺すために旅に出たという動機に戦慄せざるを得ない。
 被害者からしてみれば不謹慎と思えるだろうが、ちょっとしたことから道を踏み外して、殺人事件を起こすことになった背景は、ヘタな推理小説より読者をひきつけるものがある。オオサキ狐が憑いたと思って除霊しているうちに身内を殺してしまった事件や、毎日のようにノイローゼになった部下が殴りかかってきて、どうにかしなければと思っているうちにバットで滅多打ちにされた事件など、いずれも事実は小説より奇なりである。
作品のツボ第7章「悪魔と天使の間」だけは普通の殺人事件と違って、医療事故がテーマとなる。身内を医者に殺されたと考える遺族と、助けられない事故だったと主張する医者の双方の言い分は理解できるが、示談金ではなく謝罪の一言がほしかったという遺族の気持ちが痛いほど伝わってくる。
JR全線全駅下車の旅
横見浩彦 KKベストセラーズ

 電車に乗って旅をするのは楽しいものである。しかし、全ての国鉄の路線を乗りつぶすというのは誰にでもできるものではない。しかし、著者の横見氏は国鉄がJRに変わる直前となる1987年1月2日に全ての国鉄の路線を乗車するという偉業を達成してしまったのだ。しかし、本書で紹介しているのは完全乗車ではなく、それから5年後の1992年から取り組み始めたJRの全駅利用なのだ。ただ電車に乗って駅を通り過ぎるだけでなく、その駅に降り立ち駅の様子をメモするというのが横見氏が自分に課したノルマだが、これは乗りつぶしと比べてはるかに難易度が増している。一日に数本しかないローカル線ですら、全ての駅に降り立たなければならないのだから、想像しただけでもめまいがする。
 ローカル線を一駅ごとに降りてたら何日かかっても、全駅達成なんて無理と思うかも知れないが、横見氏の場合は上りで3駅進んで下車しては反対側の下りで2駅戻って下車するなどの繰り返しで駅数を稼いでいく。さらに、その駅で乗るか降りるかのどちらかをすれば良いというルールなので、近ければ隣の駅(時には2つ隣の駅)まで歩いたりすることで、利用した駅を増やしていくのである。ちなみに車やバイクで駅まで行って帰ってくるというのは利用したことにならないそうである。
 金持ちのボンボンというわけではない横見氏は、旅をしていない間はバイトで資金を稼ぎ、青春18きっぷなど乗り降り自由の切符を買っては旅を続けていく。食事はコンビニのカップめんや駅そばがほとんどだし、ホテルも使わず夜行列車や駅寝で一晩すごす生活を続けている。そんな過酷な旅の間には不審者と間違われたり、豪雨に巻き込まれたりなどの苦難に見舞われる。そんな目に遭いながらも1995年10月29日、美作河井で全駅利用を達成してしまったのである。当日は達成を記念したヘッドマークを付けた電車が走り、お祝いの花束も受け取ったそうだが、当然というべきすごい偉業であろう。あとがきで、やろうと思えば誰にでもできると書いてあるが、同じ路線を行ったり来たりして、ちょっと乗っては、また降りて電車を見送るなんて普通の人は絶対に挫折する。
 なお、JRに限定したのは乗り降り自由の切符がJRに多かったため。その後、私鉄でもフリー切符が増えてきたため2000年7月から全ての駅めぐりにも挑戦し、2005年2月20日に日本全国すべての駅の乗り降りを実現してしまった。この横見氏が、いかにすごいキャラであるかは菊池直恵さんの鉄子の旅を読めばよく分かります。
作品のツボ→全ての駅に降り立った横見氏だが、本数の少ないローカル線が大変だったかと思いきや、苦痛で仕方がなかったというのが、東京などの大都市近辺の駅めぐり。駅の様子をスケッチするのが楽しみな横見氏にとって、何の変哲もない駅を立て続けに幾つも回るというのは、全くおもしろみのないものだったそうである。ちなみに、後にJR以外の全駅めぐりをした際にも東京の地下鉄がつらかったと語っている。
失敗・成功・中ぐらい
吉田戦車・川崎ぶら 角川書店

 伝染るんですで有名な漫画家の吉田戦車と、川崎ぶら、担当の佐藤の3人で鼎談の形で、様々な成功や失敗、そして中ぐらいのことについて好き勝手に語り合う。月刊カドカワに連載されたものをまとめたものだが、どのような内容の連載にするか決めずにスタートして、企画会議の段階から本に収録されている。そのため最初の頃は、内容が定まっておらず、しりとり形式なぞなぞ形式などで、話を進めるなど試行錯誤を繰り返している。読者に独特の心地よさを与えてくれる語り口調でまとめられており、自分の文体も彼らに強く影響を受けていたりする。  失敗の項では、ロミオとジュリエットあしたのジョーの恋は失敗しているとか、人造人間キカイダーは、未完成のロボットだから失敗作だとか、心霊写真は霊が失敗して写ってしまったのではないかと言いたい放題。
 成功の項では鼎談をしている最中に、偶然にも内田有紀を目撃。それだけなら大成功だと思うのだが、その回は吉田戦車が内田有紀のスケッチでインクを使いきってしまい、挿絵がボールペンで書かれているのは、むしろ失敗ではないのだろうか。
 そして中ぐらいの項では、中野中央区中目黒など中に関連する場所を散策しながらやっぱり好き勝手な事をしゃべている。
 ちなみに、この前作にあたるたのもしき日本語も必見の一冊です。
作品のツボ→作中の「あきれたり、ぶらも戦車もペンネーム」という川柳は、自分たちのことをうまく言い表しているよなー。
新解さんの謎
赤瀬川原平 角川書店

 私たちは、何かを調べる際に辞書を引く。それだけ辞書に載せられている内容に信頼を置いていることなのであろう。別に辞書に対しては、何のおもしろみも求めていないし、仮に辞書にギャグや駄じゃれが載っていたりしたら、内容まで信頼できなくなっていまう。しかし、もし辞書に載せられている内容に、奇妙な記述が載っていたら、どう思うだろうか。
 これまで誰にも気付かれないように、分厚い本の中で、身を潜めていたのだろうが、ついに見つけられてしまったのである。新明解国語辞典に載っているおかしな内容が…。最初に気付いたのは赤瀬川原平の路上観察仲間であるSさん。きっかけとなったのは恋愛の項目に書かれている次のような内容だった。「特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態」。ご覧のように、監修者大暴走といった状況なのである。他の辞書でも、探せば変な内容はあるのだろうが、新明解はダントツにぶっちぎりなのである。
 一つ気付けば、負けじとばかりに探さずにいられないのが原平さんの習性。ごきぶり「台所をはじめ、あらゆる部分にすむ、油色の平たい害虫。さわると臭い」って、さわらないと思う。動物園「生態を公衆に見せ、かたわら保護を加えるためと称し、捕らえてきた多くの鳥獣・魚虫などに対し、狭い空間での生活を余儀なくし、飼い殺しにする人間中心の施設」って、怒ってるよ。しかし、こんなおもしろい辞書なら、買っても良いかなと思ってしまう。
作品のツボ→言葉の解説も変だが、とにかく用例が、どこから持ってきたのか分からない奇妙なものが多い。むっちり「イナゴは軽快で、香ばしく、肉に−−したところもあって、いいオヤツになるのだった」。うーん、むっちりでイナゴを食べますか…。一気「従来の辞典ではどうしてもピッタリの訳語を見つけられなかった難解な語も、この辞典で−−に解決」。うーん、さりげなく宣伝ですか…。
心霊写真 不思議をめぐる事件史
小池壮彦 宝島社文庫

 心霊写真といっても、この本は怪奇写真を羅列しているだけのものとは違う。日本の写真史から入り、どういう過程で写真に写りこんだ奇妙なものが、霊的なものと認識されるにいたったかを淡々と紹介していく。明治11年に最初に心霊写真として認識された1枚からはじまり、大正から昭和、平成という時代の流れにおいて、心霊写真のポジションが日本人の中で、いかに高められていったか、そしてブームが過ぎ去り、その価値を落としていったかを、幾つかの史実とともに浮かび上がらせていく。
 その場にあらざるものが写真に写った場合、かつて幽霊写真と呼ばれていたものが、どうして心霊写真と呼ばれるようになったか。そして、心霊写真を持っているだけで霊障があると言われるようになったのは、どうしてなのか。その歴史を紐解いて見ると意外な事実が浮かび上がってくる。驚くべきことに、心霊写真を持っているだけでも害があるとされるようになったのは、1979年頃のこと。それ以前は、ただ怖い写真というだけで、供養することなんて考えもしなかったというのだ。かつて心霊写真が生まれるまでには、それにまつわる物語性が存在していた(写真に写っているのは亡くなった祖父など)。それが単に、顔が写っている、手が消えているなど、奇妙な現象が写っていれば、それだけで心霊写真と認められるようになり、物語性を失っていったくことを著者は嘆く。
 著者の小池氏は決して心霊写真否定派ではない。心霊写真の多くが、二重露光などの何らかの技術的なミス、単なる目の錯覚、インチキで捏造されたものとしながらも、それを生み出してしまう人の心理のおもしろさを知っている。それでありながら、70年代の過剰なオカルトブームの果てに、80年代後半になって心霊写真と見えないものまで、霊が写っていると騒ぐようになって、心霊写真は終わりを告げたと語っている。しかし、人が恐怖を求める心は奥深い。そこに心霊写真が存在しなくても、心霊写真に関する怪奇物語が生み出されるなど(飛び込んだところを写真に撮ったら、海から無数の手が出ていたなどが有名な例)、デジカメになろうが、写メールになろうが、いつの時代になっても心霊写真は存在し続けるのである。
作品のツボ→明治11年に撮られた日本最古の心霊写真というのが、横浜の住職を撮った後ろに、女性の姿が重なっているというもの。この写真を見た途端に住職がショック死したという逸話もすごいが、著者が述べているように霊とされている女性より、普通に写っている住職の顔が怖い。
すべてがEになる
森博嗣 幻冬舎

 ミステリー作家で大学助教授でもある森先生は、自分のホームページである浮遊工作室の中のミステリィ制作部で、近況報告という形で日記を公開している(というか、2001年末までしていた)。そのネット上で紹介されていた日記を書籍の形にまとめたのが本書である。第1作となった本書は1998年の1月から12月までの1年間の日記。筆が早いことで知られる森先生が1年の歳月をかけて書いた作品って、1年間の日記ですから、当然1年かかるわけです。
 日記なわけですから、これを読めば、森先生が執筆にどれくらい時間をかけているのか、大学ではどのような事をやっているのか、奥様のすばる氏や二人の子どもとはどのように接しているか、さらには趣味の模型飛行機にどれだけのエネルギーを注いでいるかも分かります。ちなみに98年ですので、1月ごろには「今はもうない」の校正作業をしていますし、12月には「地球儀のスライス」のゲラ確認をしています。さらに森先生は作品をかなり早めに書いていくので、98年の頭には99年に出版された「黒猫の三角」を、すでに書き始めていたりもします。ちなみに2作目の「毎日は笑わない工学博士たち」は1作目よりさかのぼって1996年と1997年の2年間の日記からの抜粋、3作目の「封印サイトは詩的私的手記」は1999年の日記、「ウェブ日記レプリカの使徒」は2000年の日記、「数奇にして有限の良い終末を」は2001年の日記となって6年分の日記は完結している。
 また、天才柳沢教授でお馴染みの山下和美がマンガを描き下ろしており、柳沢教授と森助教授の競演が見られるのは本書だけ。ちなみに毎日は笑わない工学博士たちでは山本直樹が、封印サイトは詩的私的手記では古屋兎丸が、ウェブ日記レプリカの使徒はスズキユカがオリジナルマンガを描きおろしている。
作品のツボ→特別付録として付いてくる森ドリルは、本書を読めば分かる森氏に関することを146問のクイズ形式でまとめている。例えば「森助教授が駅弁を選ぶ時の基準は?」といった感じです。
小学館入門百科シリーズ34 世界ミステリーゾーン
和巻耿介 小学館

 小学館の入門百科シリーズといえば、つり入門サッカー入門といった趣味的なものから、ウルトラ怪獣入門怪獣図解入門といった特撮好きにはたまらないものまで、70年代の小学生にとってはバイブルとも言えるシリーズだったが、バミューダトライアングルやUFOなど、どちらかといえば学研のジュニアチャンピオンコースが得意としそうなジャンルを扱ったのが本書である。
 「第一章 なぞをめぐる七人」ではネッシーを追い続けたティム・ディンスデール、魔術博物館を設立したジェラルド・ガードナー、ムー大陸を探し求めたジェームズ・チャーチワード、宇宙人と会ったジョージ・アダムスキー、ケネディ暗殺を予言したジーン・ディクソン、物体を触っただけで持ち主のことが分かるピーター・フルコス、日本沈没を予言したエドガー・ケーシーの7人を紹介。なお、ソ連が共産主義でなくなるというエドガー・ケーシーの予言は当たったようだが、98年までに日本が沈没するという予言は見事なまでに外れている。
 「第二章 大自然のなぞ」ではバミューダ・トライアングルや地球空洞説、さらにはネッシー、ツチノコ、雪男など、正に世界のミステリーと呼ぶべきものを紹介。ネッシーなどのUMAとともに、アメリカで目迎されているモス=マン(蛾人間)なんてものも紹介されているのだが、モスラにしか見えないイラストが妙におかしい。
 「第三章 宇宙のなぞ」では当然のごとくUFOや宇宙人について紹介しているのだが、黒いこびと宇宙人のイラストがかわいくて仕方ないですよ。なお、SF劇画「インベーダー地球総攻撃」の電波っぷりは中々のものである。
 「第四章 超自然のなぞ」は異次元、超能力、幽霊を取り扱っているのだが、子供達が遊びで使っていた小さな砂箱に次々と物が飲み込まれていき、砂箱を壊しても何も出てこなかったというのは、どんな現象だよとツッコミを入れたくなる。
 「第五章 人類のなぞ」は巨人族や食人族からはじまり、吸血鬼や狼男、魔女裁判といったものを紹介。どこが人類のなぞなんだか疑問の残るところだが、持った人を不幸にする呪いのホープダイヤについては、本書を読んで知った人も多いのではないだろうか。
作品のツボ→人類のなぞではナポレオンには替え玉になった人間がいたという説から「ふたりのナポレオン」という絵物語が載っているのだが、これを描いているのが恐怖漫画でおなじみの日野日出志だったりするのですな。思わぬところで日野先生の作品を目にすることができました。
『た行』

たのもしき日本語
吉田戦車 川崎ぶら 角川文庫

 「日本語と言うのは実にたのもしいものだな」。「ああ、全くその通りだ、実は俺も同じ事を考えていたしだいなのさ」。といった感じで吉田戦車川崎ぶら、そして担当佐藤の3人が、たのもしいと思われる日本語の単語を50音順で対談形式で語っていく内容。
 その単語は「あそび」「いたい」「うはうは」「「えきまえ」「おてんば」といった感じで、行き当たりバッタリで選んだとしか思えない。その対談の途中で、やはり行き当たりバッタリの感じで吉田戦車がイラストを挿入していく。しかし、こうやって彼らの対談を読んでいると、本当に日本語がたのもしいものに思えてくるから不思議なものである。
 「ん」まで行ったらどうなるかと思ったら、ロシア語ポルトガル語などの、たのもしさまで検証を始めていくのだから、日本語よりも彼らのほうがたのもしいと言えるのではないだろうか。さらに、この後、彼らは勢いに乗って失敗・成功・中ぐらいという続編を出しており、こちらも傑作な一冊です。
 ちなみに文庫版の解説は南伸坊。南氏は筆者らとは、何の面識も無かったが、こいつらが日本語をダメにしたで鼎談形式で本を書いたつながりからだそうである。
作品のツボ→さらには、「おはよう」「こんばんは」などの挨拶語のたのもしさにまで触れて行く。何故、ごちそうさまは様付けなのか検証してみるとおもしろいものですね。
チビッコ三面記事 子どもの事件簿
串間努 筑摩書房

 子どもだからといってナメちゃいけない。いや、子どもだからこそ大人が目を離しているスキにとんでもないことをやらかすものである。本書では、子どもが引き起こした事件、子どもが巻き込まれてしまった事故、子どものブームにまつわる現象など、昭和という時代の中で、巻き起こった事件や事故の数々が、その新聞記事とともに紹介され、著者の串間氏が、それぞれの事件について、背景となった社会現象を読み取りながら解説している。デコチャンというアダ名で呼ばれるのがイヤで学校に火をつけちゃった小学生や、バスを勝手に運転しちゃって家をつぶしちゃった6歳の子など、ここで紹介されている子どもたちのパワーには驚かされるものがある。
 また、子どもの周りには危険がいっぱいで、たやすくその小さな命を奪い取っていく。最近では聞かなくなったが、捨てられていた冷蔵庫の中に入って閉じ込められたといった事故は、30年ぐらい前までは頻繁に聞かれたし、プールの排水溝に足が挟まって亡くなったといった事故は、最近でも何件か起こっていたように思われる。その他にもママレンジから火事になる恐れがあるとか、ローラースルーゴーゴーに乗っていて事故にあったとか、思わぬところに危険が潜んでいる。しかし、そうした偶発的な事故だけでなく、通り魔や誘拐事件など、大人が子どもを危険に巻きこんでいる事件も多い。せめて、そうした危険からだけでも、子どもを守ってあげたいものである。
 失神遊び、心霊写真ブーム、ゲームセンターでの偽造コインなど、それぞれの時代にぴて子どもの文化の影には、何かしらの事件がからんでくる。しかし、本書を読んで実感するのは、今の子どもが何を考えているか分からないという意見をよく耳にするが、いつの時代でも子どもの考えは大人には分からないから、それが当たり前だということである。
作品のツボ→駄菓子屋で売られていた接着剤を膨らませるビニール風船は、自分もよく遊んだが、中には規定値を上回る有機溶剤が含まれていたものもあったとのこと。自分が買ったのは規定値内だったとはいえ、今から考えれば、いかにも身体に悪そうなものであった(粉末のジュースとかもそうだが)。
超芸術トマソン
赤瀬川原平 ちくま文庫

 町を歩いていて、普段では気に留めることの無い、家を取り壊した後に残る跡や、建物の高所について常識から考えれば、絶対利用されることのない階段や扉
 それら無用の長物群に目をつけ、トマソンという称号を命名し(トマソンは、巨人軍にいた外人選手で鳴り物入りで来日したにも関わらず、活躍できずに帰国してしまった)、路上観察学という学問にまで高めてしまった。
 学問というだけあって、これらの物件を高所タイプ植物タイプなどきっちりと分類している。しかし、なんといっても観察者が、これら無用の長物に愛を注いでいるところに好感が持てる。
作品のツボ→元巨人軍のトマソン選手も、まさかこんな形で自分の名前が残るとは思わなかっただろうなあ。


超絶プラモ道
はぬまあん 竹書房

 出来の悪い子ほど可愛いとは言うが、それはプラモデルにも当てはまるのだろうか。ここに紹介されるアニイアオシマのパチモンプラモは、確かにB級プラモである。しかし、ガンプラブームに乗って作られた装甲バトルスーツ「バイソン」は、本家本元よりカッコ良いと言えるのでは無いか。すいません言いすぎました決してそんなことはありません。
 ザ・アニメージという架空のアニメが存在するという設定で作られた装甲バトルコマンド軍団。ガンダムの出来そこないみたいなバイソン、ザクのまがい物のようなザリグなど、一体どこからこのデザインのアイデアはわいてくるのだろうか。ましてや戦車の砲台がロボットの頭に乗っかっている装甲バトルアーマー「タイガー」なんて、なにおか言わんである。
 さらにはロボット以外のパチモンプラモも紹介。中でも大変化レッドホークヤマトはすさまじい。レーシングタイヤを着けた真っ赤な戦艦大和が、ケツから火を吹いて空を飛ぶ。マブチモーターでワープ走行も可能だぞ。これだけすごければ、今度生まれてくる時は、きっと天下を取れるはずである。
作品のツボ→大型キットに附属していたザ・アニメージの漫画も収録されているが、つたない絵と破綻したストーリーが、今見ると異様におかしい。
ついていったら、こうなったnew
多田文明 彩図社

 町を歩いていて「手相を見せてくれませんか」とか、秋葉原駅の改札を出たところで「絵に興味はありますか」と声をかけられた人もいるのではないだろうか。そうした場合、多くの人は「急いでますので」とか「興味ありません」といって断っていることだろう。それだけ声をかけてくる人たちは、うかつについていったら危なそうなオーラをかもし出しているのである。しかし、実際についていったらどうなるのだろうか。興味はあるものの、リスクが高そうで踏み込むことができない怪しげな世界を、本書の著者が身を持って体験して紹介しているのである。
 本書で紹介されているのは、手相の鑑定、絵画の即売会、キャッチ系英会話教室、携帯電話が当たるクジ、性格自己診断啓発セミナー、無料エステ、頭の回転がよくなるテープ、UFOの集い、コーヒー豆の先物取引、自費出版、結婚相談所、在宅ワーク、ヘアケアアドバイス、マイラインのすすめ、出会い系クラブ、幸運のペンダント、ダイビングスクール、問題解決の無料相談、悪質芸能事務所の20件。いずれの勧誘も強引さ、金額、怪しさ、悪質度の4つの項目に分けて、星1〜3つで評価し、ご丁寧に出没場所まで紹介されている。
 著者は怪しいものという前提で体験しているので、騙されることはないとはいえ、なかなか帰らせてくれないし、話を切り上げようとすると罵倒してくる連中までいる始末。いくら興味があっても、そんな目にあったらストレスがたまりそうで面白半分で体験する気にはなれない。それに、名前や住所を記載することになる勧誘も多いので、一度でも話を聞いてしまったらカモと見なされて、以降はダイレクトメールなどの勧誘攻撃が待っている。著者の多田氏も業者のリストに載ってしまったのは確実なわけで、本書が売れたから良いようなものの、そうでなければ全ての勧誘を断ってもマイナスにしかならないところだ。本書を読んでおけば、うまい話の切り上げ方も分かるし、騙される危険も減るわけだが、相手の言葉に全く耳を貸さず逃げてしまうのが最善の手段ではないだろうか。なお、著者の多田氏はこれだけ勧誘を断り続けた百戦錬磨の手だれにも関わらず、稼いだお金をパチンコにつぎ込んでしまっている。人の欲望というのは実に不可解だと思わずにはいられない。
作品のツボ→20件の勧誘の中で、かなり異色なのがUFOの集い。他の勧誘が大なり小なりお金を巻き上げようとしているのに対し、これだけは会員同士でUFOについて語り合うだけで、お金が取られるようなことはない。しかし、その雰囲気の異様さからキャッチセールスよりも怖ろしいかも知れないと紹介されているように、純粋なものは時として不純なものより怖ろしい。評価ポイントも強引さ、金額、悪質度は星1つだが、怪しさだけが星3つで突出している。
定本・二笑亭綺譚
赤瀬川原平ほか ちくま書房

 芸術と狂気の境目は一体どこにあるのだろうか。明治10年生まれの赤木城吉の精神は、常人の域を逸脱していた。その赤木氏によって昭和初年、東京深川に建てられた二笑亭は常人には理解できない不可思議な構造を呈していた。
 ある時、電話を無償で返却したいという奇妙な申し出を不信に思い、連絡をもらった家を尋ねた電話局員が見たものは、家人に全て去られ一人きりで二笑亭の建築を続ける赤木氏の姿だった。その事件がきっかけで精神病院に入れられることになり、壮大な計画も頓挫することになり、二笑亭は取り壊されることになる。しかし、この二笑亭が壊されてしまったのは実に残念。玄関の壁には黒砂糖と除虫菊の粉末を混ぜたものが塗り込められており、登ることのできないはしごや、和洋合体風呂など、建てた赤木以外には理解できない構造で満たされているのである。
 仕掛がほどこされた館や、怪しげな洋館とちがって、二笑亭の作りには整合性が見られない。しかし、この不条理な作りが見るものの脳を刺激する。すでに取り壊された二笑亭だが、作者たちはご丁寧にも、二笑亭をミニチュア模型で再現。彼らの二笑亭に対する愛が感じられる。
作品のツボ→世人はわしを笑うが、わしも世人を笑ってやる。二笑亭とは、この二つの笑いの合するわしの家のことさ!。
鉄子と駅男 関東版 電車でひゅるるん無人駅
すずきさちこ エムディエヌコーポレーション

 無人駅…文字通り駅員さんがいない駅である。一日の乗降客があまりにも少ないため、経費などの問題から駅員さんが配属されていない駅だが、無人駅では無賃乗車などの問題が発生しないのだろうか。しかし、それは心配無用なのかも知れない。もちろん、無賃乗車をするような不届き者もいるかも知れないが、そもそも利用する客が少ないから無人になっているわけであって、例えキセルをされたとしても、大した被害にはならないのであろう。少なくとも、配置する駅員に割く人件費に比べれば微々たるものかもしれない。いや、それよりも無人駅を利用するような人は、みんな心清らかな人だと、ここは信じてみたいところである。きっと規定の運賃を払って、駅に設置されている箱に切符を入れているに違いない。
 そんな無人駅は、意外と数多く存在する。そこを本書では関東限定ということで、いろいろと巡って紹介しているのは、キノコのこのこ元気な子♪のCMのイラストでお馴染みのすずきさちこさん。その愛らしいイラストで紹介しているのは、鶴見線 新芝浦駅、鶴見線 昭和駅、大雄山線 緑町駅、箱根登山鉄道 塔ノ沢駅、青梅線 白丸駅、秩父鉄道 樋口駅、八高線 竹沢駅、東武日光線 上今市駅、中央本線 梁川駅、竜ヶ崎線 入地駅、常総線 玉村駅、総武本線 倉橋駅、銚子電鉄 君ヶ浜駅、小湊鉄道 飯給駅、いすみ鉄道 小谷松駅、久留里線 平山駅、外房線 行川アイランド駅の17駅。鉄道オタクとは違った女性の視点で、駅の雰囲気や電車内で見かけた変わった人などを描き出している。
 秘境駅へ行こう!で紹介されているような、たどり着くのにも困難な駅と違って、関東の無人駅は簡単に行くことができる。紹介している駅の中には普通の住宅街の中にあり、何の変哲も無い駅も多い。基本的には小田原駅の隣の緑町駅や、東武日光駅の隣の上今市駅、奥多摩駅の隣の白丸駅など、終点の一つ前の駅が多い。多くの人は終点まで乗るが、距離的問題から手前にも作った利用者の少ない駅が存在するといったところだろうか。そして無人駅の共通点といえば、駅員がいないことから生まれる開放的な雰囲気が存在するように思われる。
作品のツボ→すずきさんが無人駅を紹介している中でも、魅力的に映るのは、駅の近くにある食べ物屋さん。決してグルメガイドに載るような店ではないのだが、ふらりと降り立った無人駅で、どこか食べるところはないかと入ったお店で、見つけたおいしいメニューが思わず目を引く。
鉄塔の人 その他の短編
椎名誠 新潮文庫

 表題作の鉄塔の人は、打ち捨てられた送電鉄塔に男が住み着く話。過酷な環境で有るはずの送電鉄塔に見事に順応して生活している様が描かれている。かといって、その男からバイタリティを感じるでもなく、かといって普通の生活を送ることができない男の寂しさが伝わってくるわけでもない。ただ、淡々と男の様子が描写されるのみである。
 「蚊」「雨がやんだら」など椎名誠の短編を読んだときに感じるのは筒井康隆との共通点である。この鉄塔の人にも収録されている抱貝たんねん洞などの作品に描かれる、日常を少しはずれた田舎などで体験するエロスをはらんだ緩やかな恐怖は、筒井の短編(五郎八空港メタモルフォゼス群島など…、少し違うかな良い例が浮かばない)にも見うけられる。また、ビッグコミックスピリッツで連載されている柏木ハルコ花園メリーゴーランドにも、この雰囲気は感じ取れる。
 いずれも収録されている作品は椎名風味の独特の味わいがある作品だが、鉄塔の人の淡々とした書き方は椎名以外には出来ないということでお気に入りの作品。ちなみにジョジョの奇妙な冒険第4部鋼田一豊大の元ネタではないかと思われる。最後にこの本をご提供いただいたROHITUMIさんに、この場を借りてお礼申し上げます。
作品のツボ→文庫版解説は鉄塔武蔵野線銀林みのる。まあ、鉄塔繋がりということで。
東京の階段
松本泰生 日本文芸社

 東京には坂が多く、色々な坂道を紹介している書籍は存在するが、本書で紹介しているのは様々な階段である。階段なんて、どこにでもあるだろうと思ったら、これが中々奥深いのである。傾斜角度から手すりのつけ方によって階段の雰囲気は変わってくる。そして、階段から下を見下ろした風景や階段の下から見上げた風景が、その階段の持つ雰囲気を大きく左右するものとなる。階段の上と下では全く違った光景が広がるパターンもあり、実際に本書で紹介されている階段を上り下りしたくなってくる。
 本書は全6章からなるが、大半の階段は第1章「美しい階段」第2章「歩いて楽しい階段」で紹介されている。第1章で紹介されている階段は、その名の通り、きれいなカーブを描いているなど、写真からも見て取れる見た目の美しい階段である。この中で、上野公園に続く上野山下の階段は上り下りしたことがある人も多いのではないだろうか。そして、第2章で紹介されている階段は、写真では伝えにくい実際に足を運んでみて魅力が分かる階段。ものすごく急勾配な階段や蛇行している階段などである。この第2章の階段で知名度が高いのは、きれいな夕焼けが見えることで有名な日暮里のゆうやけだんだんではないだろうか。なお、本書で紹介されている階段には、日枝神社や愛宕神社の参道なども含まれる。
 そして、読んでいるうちに気になってくるのは、紹介されている階段が、ある一定の地域に集中しているということ。港区高輪、新宿区神楽坂、文京区関口の周辺の階段が多いようである。そのため、狭い範囲内に本書で紹介されている階段が幾つも含まれるケースがある。北区、板橋区、練馬区、大田区、世田谷区にも魅力的な階段は多いと、後書きで書かれているように、ぜひ他の地域の階段も見てみたいところである。それにしても、田端駅前の階段なんて何度も目の前を通りながら何も感じることは無かったし、何度か足を運んだことのある六本木泉ガーデンが出来る前は、永井荷風が上り下りした階段が存在したことも知らなかった。普通の人にとっては単なる階段でも、階段好きにとっては魅力的な物件に映るようである。
作品のツボ→紹介されている階段は、疲労感景観スリル立地の4項目で全てランク付けされている。また、階段の規模(段数)や高低差などが詳細に紹介されており、住所も載っているので本書を片手に東京の階段めぐりをしたくなってくる。なお、階段の足を乗せる部分は踏み面、垂直になっている部分は蹴上というのは、本書を読んで初めて知った。
どうころんでも社会科
清水義範 講談社 え・西原理恵子

 おもしろくても理科もっとおもしろくても理科が好評だったものだから勢いが止まらなくなって、それじゃあ同じような感じで社会科のおもしろさを紹介してしまいましょうといった感じで、ついにシリーズ第3弾が登場。理科こそ生命の根源を知るための学問という視点をガラリと変えて、社会科こそ我々の生活に密接に関わる学問だと、山脈や盆地の名前ばかり覚えさせられて社会科なんてクソくらえだという社会科嫌いの人たちに容赦なく切り込んでいく。
 そして、実際に清水先生が語る社会は、生きた学問としてヒシヒシと伝わってくるのである。学校で習って名前だけ覚えていたリアス式海岸について、三陸沖志摩半島を例にあげ、その景観の美しさや津波の時に被害が大きくなりやすいことを紹介することで、名称だけでなく具体的にリアス海岸というものが見えてくるのである。中でも秀逸におもしろかったのが、幻の昆布ロード。なぜ、うどんは関西が昆布だし関東がかつおだしなのかを取り上げているが、北海道の名産である昆布が関東を跳び越して関西に浸透したのは、リアス式海岸や歴史で習った北前船が原因であったことに驚かされる。ちなみに、京都でにしんそばが有名なのも、この北前船のおかげということである。
 さらに、破竹の勢いで出しちゃったのがシリーズ第4弾となるもっとどうころんでも社会科である。続編ともなればテーマも大きくしなくちゃというわけではないのだろうが、日本人とは何なのか、自由とは何かといったことまで取り上げちゃっているのだが、気に入ったのはオランダ人の謎について。ダッチ・アカウント、ダッチ・ロール、ダッチ・ワイフ、さまよえるオランダ人など、ヨーロッパの中でオランダが蔑視される理由について解説していて、思わず目から鱗である。
作品のツボ→西原先生の破壊的なイラストは、テーマが社会科に変わっても健在であるのだが、そもそも彼女の視点から見た社会というものが、常人には理解できない部分があり、そんな社会は知らないほうが幸せかも知れないと、しみじみ感じさせてくれる。
豆腐小僧 双六道中 ふりだし
京極夏彦 講談社

 妖怪・物の怪のたぐいというものは、暗闇の中から異形なるものが、バァと出てくるから恐ろしいものなのでございます。それが、この物語の主人公の豆腐小僧と来た日には、大きな頭に笠をかぶって、紅葉豆腐を乗せたお盆を抱えて、舌を出しながら、あっちへうろうろ、こっちへうろうろと…。こんな珍妙な奴に出会ったら、こいつのどこを怖がったら良いのか、頭を抱えたくなろうというものです。
 そもそも、この豆腐小僧、江戸時代に描かれた黄表紙本生まれの創作妖怪。それでありながら、お父っあんには大入道、姉様にはろくろっ首を持つという、妖怪一族の中でも由緒正しい流れを組むというのですから、人は、いや妖怪は見かけによらないってもんですよ。この妖怪のくせに臆病者の豆腐小僧。突然、あばら家に降って湧いたにも関わらず、自分がいつ消えてしまうか不安でなりません。そこで、いろんな妖怪に声をかけながら、自分の出自を探って行くわけでございます。
 しかし、こんな野郎に関わった妖怪の方も、たまったもんじゃございません。家を鳴らす妖怪の家鳴、人の臨終の時に現れる死神、年降りた猫が化けた猫又の三毛姉さん、夜道で突然人の袖を引く袖引き小僧と、様々な妖怪と出会うことになるわけですが、そうするうちに妖怪がどうして生まれてくるかが、まあ、なんとなくではありますが、次第に分かってまいります。妖怪は時には現象、時には認識、時には思想と、人間あればこその存在なわけですが、人にとってどうして妖怪というものが必要だったっかも分かってくるわけでございます。
 さて、この豆腐小僧ですが、こんなちっぽけな存在にも関わらず、狸と狐が引き起こした大騒動に巻き込まれていくわけでございます。豆腐小僧の良きアドバイザーである達磨大師先生の指導のもと、この騒動を見事に治めることができるかどうかは、読んでからのお慰み。
作品のツボ→この物語に登場する妖怪の中で、かなり異様な存在となっているのが邪魅。妖怪というよりは人の悪の想念と言った方が近いのだが、京極夏彦の妖怪シリーズで邪魅をテーマに扱った邪魅の雫でも、人から人へと渡り歩く悪の想念のようなものとなって混乱を巻き起こしている。
飛びすぎる教室−シミズ博士の雑談授業− 
清水義範 講談社文庫

 おもしろくても理科もっとおもしろくても理科どうころんでも社会科もっとどうころんでも社会科いやでも楽しめる算数はじめてわかる国語と続いてきた小学校の主要4教科の楽しさを分かってもらうためのシリーズの締めくくりとなる作品。本書のねらいは学校では授業で教わったことよりも、先生が雑談として語ったことが記憶に残っているということから、そんな雑学的な知識を紹介することにある。シミズ博士によると学校でいうところの総合的な学習の時間にあたる作品ということである。
 とはいうものの作者が雑学を披露するということは、単なるエッセイではないのかと言われると、そう言えなくもないのである。ここらへんが自由に書けることの難しいところであるのだが、そこはお勉強シリーズの延長ということで、世界の食がいかにして伝わったかや、太陽暦や太陰暦などの暦の話など、あくまでも学校の勉強につながるようなテーマになっている。ちなみに、宇宙の話では天の川を見ることは銀河の中心を見ることになると書いていてるのだが、トルコの旅行中に生まれて初めて天の川を見たというのは、宇宙大好きのシミズ博士が、それまで天の川を見たことが無かったことに驚かされる(日本でも富士山5合目など見ることができる場所はかなりあるはず)。
 取り上げている10の話題の中で最も興味深かったのが天使の話。アメリカ人は映画の中に天使を表すキーワードが出てくると、暗黙の了解で受け入れられるというのだ。ロバート・レッドフォード主演のナチュラルという映画でも、主人公の恋人が天使的存在であることや、グリーンマイルフォレスト・ガンプ/一期一会などの映画でも、日本人が見ても何も感じない天使を示すキーワードを、アメリカ人ならピンときて、彼は天使だったんだなと理解できるという。日本人なら分かってもアメリカ人はピンとこないような、逆のキーワードも存在すると思うのだが、その民俗のみが共通して感じ取れる表現があるというのがおもしろい。
作品のツボ→このシリーズのお約束でイラストは西原理恵子が担当しているのだが、相変わらず本文と全く関係の無いイラストを描いている(本書は少しましな方だが…)。特に、飛びすぎる教室というタイトルは気に入らなかったらしく、飛びなんとか教室、なんとか教室、飛んでどうした、沈む教室、龍馬がゆくと、勝手にタイトルを変えてしまっている。
『な行』

なつかしの給食
アスペクト編集部 アスペクト

 とにかく好き嫌いが多くて給食が食べられない子供だった。しかし、そんな自分でさえ給食の献立には、妙な懐かしさを覚えてしまう。この本では、昭和30年代、40年代の人気献立50品をレシピ付きで完全に再現している。世代によって思い出の献立は異なってくるのだろうが、自分が知らない「かす汁」などのメニューでも、出されたときの感想を読んでいると興味がわいてくるものである。
 それぞれの献立を、レシピ以外ではみんなの思い出と、栄養士さんの思い出で構成。しかし、同じ献立でもおいしかったと答えている人もいれば、食べられなかったと答えている人もいて、人の好みは様々と言った感じである。その中でもお気に入りの意見は「友人の松田くんは、ミートソースをなめながら、ソフトめんをかじっていた。斬新な食べ方だと思ったが、バカだと思った」である。さらに、「早くコーンシチューをおかわりしなくちゃ」とか、「今日は3人休んだので残ったプリンは争奪戦」とか、実に懐かしいエピソードである。
 ちなみに、まえがきは泉麻人によるエッセイ「脱脂粉乳のアフタヌーン」。こうした懐かし物のエッセイを書かせたら、天下一品である。また、確かに鯨の立田揚げに関しては、食べたか食べてないかで年齢が、見事にバレてしまうだろう。
作品のツボ→調査報告として載せられている「嗚呼!熱血のソフトめん」は、いかにして給食に出すためのソフトめんが開発されたかを描き出す、ちょっとしたプロジェクトXとなっている。
なつかしの教科書
村木俊昭 アスペクト

 小学校の頃に、好きと嫌いとに関わらず、誰もがお世話になった教科書。社会に出てから何の役にも立たないのに、不思議とその内容は忘れないでいるものである。昭和30年代から50年代にかけて小学生だった人に向けて、その懐かしの内容をピックアップ。
 国語のコーナーでは、ドラえもんにも取り上げられていた「かわいそうなぞう」を全文掲載。しかし、それ以上に自分にとって懐かしいのは「最後の授業」。アメル先生の「ビブ・ラ・フランス」の言葉とともに覚えている人も多いだろう。と思いきや、国語強制の問題などから、昭和60年以降の教科書からは削除されてしまったそうで、20代の人では知らない人がほとんどであろう。さらに、新美南吉ごんぎつね手ぶくろを買いにを紹介。こちらは、誰もが知っている作品だろう。
 算数のコーナーでは世界中の九九を比較して紹介。理科ではフナの解剖の思い出から、豆電球糸電話の実験の紹介。それにしても顕微鏡のプレパラートは割りまくったものである。社会では当時の教科書から日本の高度経済成長の様子が垣間見えてくる。農薬をたくさんまくことで、農作物の収穫量が高まりましたとか、日本の漁業量は世界一ですなどの表記は、その後の展開を考えると感慨深いものがありあます。
 さらに、なつかしの給食の番外編のような形で家庭科の調理実習のメニューを紹介。青菜の油いためこふきいもはともかく、ゆでたまご紅茶の作り方は何を学べと言うのか…。保健・体育の教科書の後ろの方に載っていた創作ダンスも紹介されているあが、実際に踊った学校はどれぐらいあるのだろうか。
作品のツボ→国語の教科書に載っていた「ありがとう空のホステス」。昔はスチュワーデスのことをホステスと呼んだわけだが、今その呼び名を使ったら注意されそうである。
日本の珍々踏切

フミキリスト11:編 伊藤博康:監修 東邦出版
 電車に乗るのが好きな乗りテツ、鉄道写真を撮るのが好きな撮りテツ、Nゲージなどが好きな模型テツなど、一口に鉄道マニアといっても種類は様々だが、本書は踏切マニアが喜びそうな全国の変わった踏切を集めた一冊。踏切なんて警報と遮断機があるだけで、どれも同じだろうと思ったら大間違い。寺の境内の中にある踏切ゴルフ場を利用する人だけが渡る踏切など、こんなところにも踏切があるのかと驚かされる。そして、踏切自体ではなく踏切を通るものに驚かされるというパターンもある。踏切を通るのは電車だけと思ったら大間違い。遮断機が下りた踏切の向こうを新幹線や蒸気機関車が通り過ぎるのも新鮮だが、ケーブルカー、大型トレーラー、船や飛行機までもが通り過ぎていく。ここまで読めば理解いただけたと思うが、人の動きを止める踏切というのは、人の命を守るため、ありとあらゆる場所に登場するのだ。なお、何も通らない畑の真ん中に取り残された踏切まで紹介されている。
 そして、踏切といえば開かずの踏切ということで、中央本線の開かずの踏切をはじめ、何点もの開かずの踏切が紹介されている。西武鉄道の石神井公園の踏切など1時間のうちに4分しか開いている時間がないのだからひどいものである。さらに、約100mに及ぶ長い踏切(実際には一つの踏切ではないが…)、道路8車線分の横に長い踏切、黄色と黒ではなく紅白の踏切など、本当に踏切には様々な種類があって、写真を見ているだけでも楽しませてくれる。
作品のツボ→本書で紹介されている踏切は全部で80点以上。全国各地の踏切が紹介されているので、その中には、歩いて渡ったことがある踏切もあれば、電車で通り過ぎた踏切もある。特に、新宿〜南新宿間にある踏切と都電荒川線の踏切は、自分にとって馴染み深い踏切である。また、箱根駅伝の時にランナー優先で電車が止まる箱根登山鉄道の踏切も、子供の頃から箱根駅伝を見てきた者としては、思い出深いものがある。
覘き小平次
京極夏彦 中央公論社

 元になった話は江戸時代から語り継がれている有名な怪談話らしく、大正時代に鈴木泉三郎によって戯曲化されたのをはじめ、その戯曲を元に1957年と1982年には「生きてゐる小平次」というタイトルで映画にもなっている。ちなみに82年の映画で小平次を殺しの太九郎を演じたのはアイアンキング静弦太郎を演じた石橋正次である。怪談・戯曲をアレンジした作品と言う意味では、「嗤う伊右衛門」に通じる作品といえる。
 その「嗤う伊右衛門」と同様に、元の話をうまく取りこみながらも、描かれる事件や、それぞれの登場人物の役割は、全く新しいものとなっている。主人公となる木幡小平次は、生きているのか死んでいるのか分からないような男。役者だったものの、演じるもの全てがヘタで破門になっている。ただし幽霊を演じさせれば天下一品との定評があった。その小平次を死ぬほど嫌っていながら、一緒に暮らしている妻のお塚、それにお塚目当てに小平次につきまっている安達太九郎の3人をメインに話が進められていく。この小平次という男を見ていると京極ファンならば、姑獲鳥の夏魍魎の匣の妖怪シリーズでお馴染みの関口巽を連想せずにはいられない。ただし、小平次の方が関口くんよりも、症状が悪化していると言っても良いのだが。
 小平次が病んでいるのは言うまでも無いが、その他の登場人物たちも、心のどこかに病んでいる部分を抱えている。それ故に、ただそこに佇んでいるだけの小平次を嫌い、恐れ、恐怖する。本の帯に書かれている「生きているから怖いのか」の意味が、読んでいるうちに、なんとなく分かったような気分になる。
作品のツボ→小平次が東北の旅芝居に加わったのは、実は巷説百物語でお馴染みの又市が仕掛けたもの。この作品では又市は名前しか登場しないが、その代わりに仲間の事触れの治平が事件に深く関わっている。
呪いのB級マンガ
唐沢俊一&ソルボンヌK子 講談社

 好美のぼるという漫画家をご存知だろうか。貸本漫画が全盛の時代に、数多くの恐怖漫画を生み出した漫画家である。好美先生は惜しくも、96年に亡くなられたが、氏が残した作品は、一部の好事家によって絶大な評価を得ている。好美のぼるの漫画は、決してうまくない。というか、デッサンも狂いまくりだし、ストーリーもナンセンスこの上ない。しかし、恐ろしいほどのパワーが作品から滲み出してくるのである。本書は、唐沢俊一が監修する形で、「毒香水」「妖怪アパート」「夜光虫少女」「猫魔の辻」「殺してよ」の5編を収録。当時の作品を、そのまま収録しながら、コマの外に唐沢夫妻の的を得たツッコミが入れられている。
 「毒香水」は、使うと中毒に陥る香水を3人の少女に渡して、復讐を遂げていく物語。3人の少女達は、フランスのパリーに行けると信じて危険な香水を使い続けて行く。
 「妖怪アパート」は、家を飛び出した金持ちのわがまま少女が、不気味なアパートで、自分の心の中の嫉妬や貪欲、意地悪が実体化した妖怪たちに苦しめられる。妖怪よりも怖いのは、いきなり訪れるハッピーエンドだ。
 「夜光虫少女」は、母を竜神に襲われて孤児になった少女が、母と同じく海女になる物語。この竜神の秘密が明かされる衝撃の場面こそ、唐沢俊一を好美ワールドに引きずり込んだ1コマである。
 「猫魔の辻」は、温泉旅館の利権争いから焼け死んだ猫のたたりで関係者が襲われていく物語。猫のファイヤーダンスに恐怖しろ。
 「殺してよ」は、勝手に人を襲うナイフを持ったことで殺人者になってしまう少女の話。少女を守ろうとするピス健&ネコンブのコンビの活躍が冴える。
 こうして好美作品を読んで見ると、常人では考えつかないというか、書くのをためらわれるような、無茶なドンデン返しに驚かされることになる。怪奇漫画かと思っていたら探偵漫画に、いきなり変貌するし、それまでの物語を無視して話が集結してしまったりする。確かに好美作品は破綻しているかもしてないが、今の漫画家にこれだけのパワーを秘めている人はいるのだろうか。
作品のツボ→好美先生が登場キャラに付けるニックネームもどこか変わっている。ヤッチンやヌーボウはともかく、ボーイフレンドにゴキブリと名付ける女の子はいないと思う。そして、妖怪アパートに出てくるボーイフレンドのあだ名はポンズ…。
のんのんばあとオレ
水木しげる ちくま文庫

 ゲゲゲの鬼太郎悪魔くんでおなじみの妖怪漫画家である水木しげる先生の少年時代の自伝。もっとも自伝とは言っても、そんな堅苦しいものではなく、田舎のガキ大将のワンパク振りが、水木先生ならではの、ゆったりとした感じで描かれている。しかし、書いてある内容は、今だから笑い話ですむものの、泳げない子を海に投げ込んだとか、へたしたら事件になってもおかしくないような、とんでもなさがある。昔の子供は現代っ子とは違うということを差し引いても、少年時代の水木先生は一線を越えてしまっているようなところがある。
 タイトルにあるのんのんばあというのは、水木先生の家の近くに住んでいたおばあさんのこと。水木先生の故郷の境港では、神様に仕えるような人をのんのんさんと言ったそうで、その人がおばあさんの場合は、のんのんばあとなるわけである。このおばあさんが、天井の染みは天井なめの仕業とか、廃屋にはしろうねりがいるとか、水木先生に妖怪の知識を教えてくれた張本人。この人の存在無くしては鬼太郎も生まれなかったことであろう。
 とんでもないガキ大将の水木先生だが、話の端々に趣味にのめり込む性格だったとか、物語を考えるのが好きといったように、漫画家につながるような片鱗が見え隠れしている。特に家の近所で船が爆発したことを、「第三丸の爆発」という大長編の作文にしてしまったのは、実に水木先生らしいエピソードだと思う。
作品のツボ→水木先生は子供時代に名前のしげるがうまく発音できず、げげるとなってしまい、ゲゲというあだなを付けられる。そして、これが…。
『は行』

はじめてわかる国語
清水義範 講談社 え・西原理恵子

 おもしろくても理科どうころんでも社会科いやでも楽しめる算数と続いて、ついに国語の登場である。小学校で習う主要教科のおもしろさを説いてきた本シリーズだが、教育大学の国語科卒業の作者にとって得意分野である国語なら、おもしろさを伝えるのも簡単だろうと思いきや、馴染み深いものほど離れた視点から人に伝えるのは難しいものだったらしい。それを、あくまで読んでおもしろいものにしようということで、そのスタンスが最初から最後まで貫かれている。そして、挿絵を担当した西原画伯のいい加減ぶりは相変わらずで、本文の内容を気持ちよいぐらい無視して、西原ワールドを展開している。
 清水氏と国語といえば試験で出される国語の問題のおかしな点を取り上げた国語入試問題必勝法という作品があるが、本書では同名のタイトルで改めておかしな点を取り上げた回がある。書いた作者本人ですら正解が分からない国語の入試問題だが、問題作成者のさじ加減で読者にそう読んでもらいたい方向に誘導されてしまっているという。また、国語は道徳ではないのだから、心の美しさまで学ぶ必要はない。それにもかかわらず、国語の授業では漢字や文章の書き方だけを教わるのではなく、物語を読んで感動してもらおうという意図があることが紹介されている。
 中でもおもしろかったのは童謡の中で歌われている日本語が、今では伝わりにくくなっているという話。「赤とんぼ」で負われてみたのは〜の部分は赤とんぼに追いかけられたわけではないし、「故郷」のうさぎ追いしかの山〜はうさぎがおいしかったわけではない。霧越邸殺人事件でおなじみの「べにおのかっこもおがきれた」も、かっこが何を意味するか分かる人が少なくなってきている。国語とは関係ないが、ちょっと驚いたのは赤いくつをはいてた女の子が実在の人物だったということ。赤いくつの女の子は岩崎きみちゃんというのだが、異人さんと一緒に外国に行く前に体調を崩し、9歳で亡くなっているというのは悲しいエピソードである。
作品のツボ→今回は清水氏の文章だけでなく、「漢字と日本人」の作者である高島俊男氏、「文章読本さん江」の作者である斎藤美奈子氏との対談を収録。特に斎藤さんとの対談では文章読本なるものの問題点などが伝わってきておもしろい。
ハリガミ考現学(全)
南伸坊 ちくま文庫

 実業日本之社の「ハリガミ考現学」「ハリガミ考現学Part2」を一冊にまとめたもの。作者の南伸坊が街で見かけて興味を持った張り紙をイラストと文章で紹介しているのだが、VOWで紹介されている物件のように誤字があるわけでもなければ、トマソンのように無用の長物でもない。じゃあ何がおかしいのかと言うと、張ってある場所だったり、そこに書かれている微妙な言いまわしだったりするわけである。
 犬小屋に張ってある「世界人類が平和でありますように」だったり、道路看板の「弁当・世界のエロ本あります」だったり、花屋さんの「花はどこにでも売っていますが、命はどこにも売ってない」だったり、さりげなくどこかおかしいハリガミばかり。
 写真での紹介は無く、物件は全て南氏のイラストで紹介。このおにぎり頭の南氏によって紹介されるイラストが、おもしろさを引きたてている。
作品のツボミネラ〜ル麦茶という落書きに、自然とリズムが浮かんでくると紹介しているけれど、確かにあのリズムが…。
秘境駅へ行こう!
牛山隆信 小学館文庫

 日本中の鉄道を制覇するような鉄道マニアの存在は知っていた。しかし、人が寄りつかないような駅を狙ってたずね、そこで寝泊りするような人間が世の中にいようとは…。
 元々はホームページの人気サイトから生まれた本で、作者はオフロードバイクで旅をするのが趣味だったのが、突如、秘境駅探訪の魅力に取り付かれることになる。北は北海道の宗谷本線上雄信内駅から、南は宮崎県の肥薩線真幸駅まで紹介。世の中には電車もめったに止まらず辿りつくことも困難で、遭難しかねない場所に存在する駅がある事に驚かされることになる。
 しかし、読んでいる内にだんだん自分も、紹介されている駅に行くことをチャレンジしたい気分がわいてきた。ちなみに自分は、紹介されている駅の中で、飯田線は放浪の旅をしている時に通過している(飯田線に興味を持ったのは究極超人あ〜るのビデオを見たのがきっかけなのだが…)。自然に囲まれ利用者がほとんどいなくなった秘境駅の旅、危険な魅力で私たちを手招きしているのである。
 そして、秘境駅へ行こう!の2年後に出されたのが、第2弾となるもっと秘境駅へ行こう!になるわけだが、単に前作で紹介できなかった駅を取り上げているわけではない。今回は海を間近に望む秘境駅や、次の電車を待っている間に温泉に入れる秘境駅など、テーマを決めて取り上げている。とりわけ炭鉱が寂れて秘境駅と化した北海道の尺別駅など、秘境駅が誕生する過程を紹介しているのは必見。国鉄の民営化に伴い数が減りつつある秘境駅だが、まだまだ著者の旅は続きそうである。
作品のツボ→紹介されている駅の中でも、長野新幹線の安中榛名駅はちょっと特別。新幹線の駅なのに電車はほとんど止まらず、キオスクも撤退し、タクシーも駅に寄る事がないとは…。

不思議・楽しい実験室 学研のふろく30年
企画委員会 INAXギャラリー名古屋

 学研の科学と学習を小学生の時に購読していた人も多いはずである。そして、中の読み物以上に楽しみにしていたのが、毎月付いていたふろくである。そのふろくは、子どもの探求心を見事に刺激するものばかりであった。この本では、学研の科学と学習のふろくを一挙に紹介。顕微鏡プラネタリウム科学薬品セットなどが、どのような変遷を辿ってきたかを確かめることができる。それぞれの世代によって、懐かしさを感じる物も変わってくるだろう。そして、望遠鏡恐竜の骨格セットなどのふろくが、科学への入口への一歩となった人もいるかもしれない。
 また、限られた予算の中で、どれだけのふろくを付けることができるのか、子どもの安全性は問題無いのか、苦労する学研の編集部の様子も記されており興味深い。球根の水栽培セットや、カブトエビの卵など長い時間をかけて育てた人もいるだろうし、パン作り実験セットで作ったパンを食べた人もいるだろう。そんな子どものころの記憶を呼び起こしてくれる1冊である。しかし、自分の時代にはアイスクリーム作りセットは無かったなー
作品のツボ→冒頭の座談会には超芸術トマソンの作者でもある赤瀬川原平さんも登場。科学する心について熱く語っている。

放送禁止映像大全
天野ミチヒロ 三才ブックス

 これまで多くの映画やテレビ番組が放送されてきたが、放送禁止用語など規制表現の変更や過激な性描写などにより、現在では放送されなくってしまった作品が数多く存在する。その作品ごと封印されてしまったものから、ウルトラセブンの第12話など、特定の回だけが削除されてしまったものなど、事情は様々だが、そうした作品を本書ではまとめて紹介している。多くの作品を紹介しているため、個々の作品の紹介は物足りない部分もあるが、これだけ放送禁止映像を一冊にまとめたものは、これまでなかったことから、なかなか圧巻である。著者である天野氏が高い視点から放送禁止について切り込むというよりも、リアルタイムで作品を見てきた立場から感想を述べているところに好感が持てる。
 「第一章 テレビドラマ/現代劇」は、ドラマの問題作を取り扱ったものだが、著者の趣味からか太陽にほえろ大都会特捜最前線あぶない刑事といった刑事物が多い。それにしても、加山雄三のブラックジャックは知っていたが、普通の人が手術の時だけ、ブラックジャックに変身するという設定だとは知らなかった。
 「第二章 テレビドラマ/時代劇」は、紹介されている数は少ないが、必殺シリーズからは必殺仕掛人新必殺仕置人翔べ!必殺うらごろしが取り上げられている。そして、今ではDVD化もされたが、一時は幻の作品とも呼ばれていたおしどり右京捕物車も、当然ながらその名を連ねている。
 「第三章 テレビドラマ/特撮」では、円谷作品をはじめとする特撮物を紹介しているが、悪の組織が主人公や民衆を発狂させる作品が引っかかるものが多いようである。しかし、あまりにも怖すぎて誰も見てくれないことから、作られてから3年間も放送されなかった恐怖劇場アンバランスはすごいな。
 「第四章 テレビアニメ」も、アパッチ野球軍からどろろなど、かなりの作品にのぼるが、何といってもジャングル黒べえが封印されてしまったのは残念。それと著作権問題でキャンディ・キャンディが放送禁止となってしまったのは知らなかった。
 「第五章 劇場用&ビデオ用映画」では、テレビ番組ではなく放送が難しい映画作品を紹介。ポルノ関係はともかく、岡本喜八監督の殺人狂時代が、日の目を見ないのは悔しい。そして、何と言っても忘れてはならないのが、奇才石井輝男監督の江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間である。
作品のツボ→各章の間に挿入される著者のコラムが放送禁止映像について、変わった側面が切り込んでいておもしろい。しかし、差別用語だけでなく、版権の争いやフィルムの紛失など、放送禁止の背景には様々な理由があることに驚かされる。

ボートの三人男
ジェローム・K・ジェローム 中公文庫

 実にのんきな三人組のジョージハリス。たまにはボートで川下りをするのも楽しいだろうという発案で、行き当たりバッタリの計画と準備で川下りを楽しもうとする能天気さ。犬のモンモランシーを連れて3人と1匹は川を下っていく。
 川下りに出発するまでが一苦労。何を持っていくか決めるのに紛糾し、決まった後に荷物を詰めこむのに大騒ぎ。やっと詰めこんだと思ったら、まだ使わなければならない歯ブラシを入れてしまったため、出しなおし。出かけたら出かけたで、ボートの上にテントを被せようとすれば、互いに力を入れて引っ張り過ぎて、メチャクチャにする始末。
 この作品がイギリスの雑誌に発表されたのは1889年と、今から100年以上も昔の話である。にも関わらず、ちっとも古さを感じさせることのない作品。何と行っても自分がやっていることは、この連中と何ら変わりないのだから。仲間たちとくだらない話をしているうちに、突如として旅行に出かけることになったり、その後は珍道中になるところなど、いつの時代でも、こうした人種は存在するのだと感じさせてくれる。
作品のツボ→遅れて川下りに参加するジョージ。気がつくとバンジョーを抱えて水門の上に立っている。お前は70年代の特撮ヒーローか。
本棚探偵の冒険
喜国雅彦 双葉社

 本が好きな人間ならば普通の書店だけでなく、おそらく古本屋も利用していると思うが、古本好きもここまできたら恐れ入ると感じさせてくれるのが本書である。そもそも小説推理に掲載された連載を1冊にまとめたものであるが、この連載を手がけている喜国雅彦は「傷だらけの天使たち」などの作品で知られる漫画家である。その喜国先生が古本集めの趣味にハマったからさあ大変。連載を読めば分かるように、サンフランシスコの古本屋を訪れたり、デパートの古書市の行列に並ぶなどのマニアっぷりを発揮している。しかし、中でも驚嘆したのが角川文庫の横溝正史を全てコンプリートしてしまったことだろう。もちろん犬神家の一族や八つ墓村などの有名な作品ならば誰でも手に入るが、手に入りにくい人形佐七シリーズや、映画のスチール写真の表紙に変わる前に2ヶ月だけ売られたイラスト表紙の悪霊島、そして幻の一冊とも言うべきシナリオ悪霊島まで手に入れてしまったのだから古本の鬼としか言いようが無い。
 また、漫画家だけあって手先が器用なことから、自分専用の本棚を作ってしまったり、本を収納するための函を作ったり、切り貼りして豆本を作ってしまうところが読んでいておもしろい。しかし、読んでいて最高に傑作だったのは一日でハヤカワのポケットミステリーを何冊ゲットできるかのチャレンジ。見つけても買うわけではなく、見つけたポケミスの番号をチェックして埋めていくのだ。1000冊を目指していたのに、最終的に999冊で終わったというオチも最高である。
 自分も古本屋で古本を買うことはあるが、貴重な本ともなると信じられないほどの値段がついている。人気漫画家である喜国先生はそれなりの収入があるので、かなり高い本でも迷いながらも購入しているが、懐具合からあきらめることが多い自分としては、少し嫉妬を覚えるところである。なお、巻末には喜国先生を取り巻く古本好きの面々による座談会「喜国雅彦を古本世界に引き込んだ悪い人たち」も収録。自分の生活スペースを本で埋め尽くし、それでも足らないことから、本を置いておくためだけの部屋まで借りてしまうのは常人の領域を超えている。
作品のツボ→喜国先生は新本格の作家たちとも親交が深く、京極夏彦と乱歩邸を訪れたり、我孫子武丸の本棚の並べ替えに乗り込んでいったり、師と仰ぐ二階堂黎人と一緒に福島の古本の街を訪ねたりと、ミステリー作家たちとの出会いが喜国氏の人生を大きく変えたことがうかがえる。
『ま行』

毎月新聞
佐藤雅彦 毎日新聞社

 ポリンキーやバザールでゴザールのCM、ゲームのIQ、だんご三兄弟の歌などで知られる佐藤雅彦氏が毎日新聞に1998年10月から2002年9月までの4年間、毎月連載していたコラムだから毎月新聞。正確には新聞の中にある小型の新聞といった体裁で、佐藤氏が考えていることを発表する場となっていた。コラムやエッセイが、その人の考えに触れることで新しい視点が開けるものであるとするのなら、毎月新聞に書かれているものは、正にドンピシャリとあてはまる。普通ならば見逃してしまうような日常の風景を、佐藤氏が興味を持って取り上げているので、そんな考え方もあったんだと何か目の前が開けたような感じにさせられる。
 ブームになったら危険信号ということを書こうとしていた矢先に、だんご三兄弟がブームになってしまったといったエピソードもおもしろいが、ゴミ袋を入れていた袋が最後のゴミ袋を出したとたんにゴミになって、それまで入れていたゴミ袋に入れられることを考えるとクラクラするとか、グリーン車が静かに感じるのは音だけでなく広告などの文字が無いという視覚的な要素があるとかいう話を読むと、そういう考えも出来るんだと、ちょっと目から鱗である。それと余談ではあるが伊豆半島出身の佐藤氏が、栗せんべいを誰もが知っているものと思ったら、誰も知らなくてショックを受けたという話は、神奈川県西部出身で栗せんべいにとって思い入れがある自分にとってはニヤリとさせられるエピソードであった。
作品のツボ→新聞といえば4コマ漫画が欠かせないが、毎月新聞にもケロパキという3コマ漫画が載っている。だんご三兄弟の絵も自分で描いていた佐藤氏のことなので、そこらへんはお手の物である。
魅惑のフェロモンレコード
みうらじゅん 文春文庫ビジュアル版

 みうらじゅんがマイブームという言葉をはやらしたのは、まだ記憶に新しいが、この本の序文によると彼のマイブームは「バカ」「エロ」「カッコイイ」の3大要素から成り立っているという。そして笑えるレコードジャケットのコレクションを一挙に紹介したこの本には3大要素のうち、バカとエロがふんだんに込められている。
 約10年ほど前CDの出現により消滅したレコードだが、こうしてジャケットで振り返ってみると、猫も杓子も誰でもがレコードを出していたという現実を思い知らされる(大和田獏佐藤蛾次郎さえもである)。もちろん、みうらじゅんはこうやってレコードを集めても、その曲を聴く気などないのであろう。そのあまりにもバカバカしいジャケットデザインを集めることに熱い何かを燃やしている。
 そのレコードジャケットに映し出された表情から、裏の物語まで読みとって勝手に妄想してしまうみうらじゅん。しかし、川島なお美倉田まり子の人生を考えると、このレコードジャケットから生まれる妄想もあながちはずれてはいないのかもしれない。
 しかし、昔のレコードジャケットを見ると、女性の肌など必要以上に露出過剰である。そうまでして、レコードを売りたかったのだろうか。そして、出来あがったジャケットを見た時に本当に売れると思ったのだろうか。
作品のツボブルース・リー「ドラゴンへの道 絶叫・ヌンチャク音入り」は、ジャケットを見るだけでなく聴いてみたいと思うのは私だけか…。
『や行』

妖怪馬鹿
京極夏彦 多田克己 村上健司  新潮OH!文庫

 妖怪の事を考えると楽しくてたまらない。東に怪石があると聞けば見てまわり、西に河童の伝説があれば聞き取り調査にうかがう。妖怪馬鹿とは、正にそうした連中なのである。妖怪馬鹿の筆頭とも言える、京極夏彦、多田克己、村上健司の3人が、京都の旅館を舞台に、妖怪について熱く語り合う座談会を収録した物語である。多田克己、村上健司の両名は、京極作品の今昔続百鬼で活躍する多々良&沼上コンビの元になった人物。そもそも、この3人がどうして出会うことになったかのいきさつから、水木しげる先生が、いかにすさまじい人物であるかが紹介されている。
 妖怪が好きなくせに、バチ当たりなこのメンバーは、那須の殺生石の上で写真を取ったり、大田区の頓兵衛地蔵をからかうなど、とんでもないことをやってのけている。さらに、話は妖怪好きと怪獣好きの相関関係に至るまで、脱線しながら幅広い分野にわたり話し合われて行く。この話を一冊にまとめた編集者の青木大輔(仮名)氏の苦労がしのばれる。最も青木(仮名)氏自身も、3人の話に加わって大騒ぎをしているのだが…。それにしても京都の生麩は、そんなにおいしかったのだろうか。
作品のツボ→途中に挿入される漫画は、全て京極夏彦が描いたもの。吉田戦車高橋留美子、さらには水木しげる御大の絵まで見事に模写しているが、本当に器用なお人ですな。
『ら行』

路上観察ファイル
南伸坊 実業日本之社

 街中で見かけた変な物件やハリガミまで幅広く集めて紹介している1冊。その物件を写真ではなく南氏のイラストで紹介しているのがミソ。いわゆるトマソンと呼ばれるような昇ることも降りることも出来ないハシゴや、ネジが取れちゃったネジ屋の看板、「ここは         」と肝心なところが消えてしまった看板まで何でもありといった様相を呈している。
 こうしたおかしな物件を見つけ出すコツは、垣根を壊して車が逃げていますのハリガミを見て、車が犯罪を犯して逃げているところを想像するのがおもしろいと、南氏が紹介しているように、想像力を無駄に働かせることにある。普通だったら見逃してしまいそうなものを、わざわざおもしろい方向に考えてみる。そうすることで街は奇妙なもので溢れ返ってくるのである。もっとも西船橋駅前の三日後には本当にうっちゃちゃいますよの看板や、止まれれの路上標識などは、想像力を働かせなくても一見しておかしいのだが…。
 基本的には南氏が事務所を構えている築地を中心に、東京の物件が多いのだが、雲仙の地獄内は危険ですの看板や、果てはバリ島の不気味看板まで、かなりいろんな場所に足を伸ばしている。結構、日本に限らず世界中におかしなものはあるものだ。
作品のツボ→京都で見つけられた「東京では角刈りが流行っています」という看板に一言いっておこう。そんなものは流行っていないと。
『わ行』

吾輩は猫である殺人事件
奥泉光 新潮社

 吾輩は猫であるで、最後に水瓶に落ちて溺れたと思われていた猫は生きていた。いつのまにか香港に向かう船に乗せられていた猫は、見知らぬ地、香港にて飼い主である苦沙弥先生が何物かによって殺害されたことを知る。
 真犯人を突き止めるために、ホームズワトソンといった猫仲間達と推理合戦を開始する。なぜ、ミステリーのコーナーでなくて、ここで紹介するのかというと、これでも形式としては純文学だからである。タイトルとストーリーだけを見ると名作をパロディにしたB級推理小説のように思われるが、「石の来歴」で芥川賞を受賞した作者が、本当に書きたかった吾輩は猫であるへのオマージュだけあって、吾輩は猫であるに書かれていた様々なエピソードをうまく抽出した作品となっている。
 さらに漱石の夢十夜も、うまく作中に取りこんでおり、話を融合させている。しかし、モリアーティー教授の飼い犬であるバスカービルの犬はちとやり過ぎか…。
作品のツボ→今、明かされる水島寒月君の玉磨きの真実。
嗤う伊右衛門
京極夏彦 中央公論社

 江戸時代に「仮名手本忠臣蔵」とともに上演されてから、最もポピュラーな怪談物語として知られる東海道四谷怪談。原作では民谷伊右衛門の姦計によって、その妻お岩は、毒を飲まされ怨みを残して死んでいくのだが、京極夏彦は原作の登場人物の名前は、そのままに設定をガラリと変えて新たな四谷怪談を生み出すことに成功している。伊右衛門がお岩を捨ててと結ばれるという流れは元の作品と同じにも関わらず、そこに至るまでの過程は全く違ったものとなっている。そして何よりも大きな違いは、伊右衛門は決して悪人にあらず、毒を飲ませた犯人も変わってくることであろう。
 嗤う伊右衛門が発行された当時、京極夏彦は妖怪シリーズの書き手として、新たなミステリー作家の登場ということで注目されていたが、それまでの作品とは全く違う時代小説を書いてきたことに驚かされたものである。伊右衛門、お岩、梅、直助、民谷又左右衛門、そして極悪人である伊東喜兵衛…、誰もが誰かを愛していながら、それをうまく表せなかったばかりに、みんなが悲しい末路を辿ることになった物語を、京極流の語り口でみごとに描き出している。
作品のツボ→この作品に登場する小股潜りの又市こそ、巷説百物語の主人公となる御行の又市である。巷説百物語では後手に回ったことによる悲劇を何よりも嫌う又市が描かれているが、それはこの事件の悲しい結末が後を引いていると思われる。
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