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『あ行』

大どろぼうホッツェンプロッツ
オトフリート・プロイスラー 偕成社
 ホッツェンプロッツは泣く子も黙る大どろぼう。黒いヒゲを生やし赤い羽根を刺したつば広の帽子をかぶり、ピストルとサーベル、7本の短刀を持って、欲しいものは何でも手に入れるというトンデモない悪党だ。自分が欲しいものであれば、老人や子供でも容赦ないホッツェンプロッツは、おばあさんが大事にしているハンドルを回すと「五月は、ものみなあらたに」を演奏するコーヒーひきを取り上げてしまった。それがショックで倒れてしまったおばあさんを見捨てておけないと、ホッツェンプロッツを捕まえてやろうと立ち上がったのは、孫のカスパールと友人のゼッペル。おまわりさんのディンペルモーザー氏ですら捕まえることができないホッツェンプロッツに、子供2人がどうやって立ち向かおうというのか。
 子供の割には頭の切れるカスパールとゼッペルだが、ホッツェンプロッツの方が一枚上手で、ついには囚われの身となってしまう。ゼッペルはホッツェンプロッツの奴隷とされ、カスパールはホッツェンプロッツの友人である大魔法使いツワッケルマンに、かぎ煙草一袋と交換に売られてしまう。ツワッケルマンもホッツェンプロッツも負けず劣らずの大悪党。離ればなれにされてしまったカスパールとゼッペルは、この大泥棒と魔法使いから逃げ出すことができるのか。
 チェコスロバキアで生まれて、ドイツに移り住んだ作者のプロイスラーだが、この作品からはグリム兄弟を生んだドイツらしい、牧歌的な雰囲気が漂っている。魔法使いのツワッケルマンが奴隷として手に入れたカスパールを、マッシュポテト食べたさからジャガイモの皮むきをさせるというのも、いかにもドイツの物語らしいところ。囚われの身となった2人が、ちょっとした偶然から逆転していく様子は、読んでいて実に爽快である。なお、大どろぼうホッツェンプロッツは人形劇としても有名で、全国で公演が行われているほか、かつてNHK教育テレビでも放映されたことがある。
作品のツボ→ツワッツケルマンの呪いから解き放った妖精のアマリリスから、お礼として手に入れた三つの願いがかなう魔法の指輪で、カスパールとゼッペルが何を願ったかは、読んでみてのお楽しみ。
大どろぼうホッツェンプロッツ ふたたびあらわる
オトフリート・プロイスラー 偕成社
 カスパールゼッペルの機転で大どろぼうホッツェンプロッツを捕まえたのも束の間、たった2週間で巡査部長のディンペルモーザー氏をだましてホッツェンプロッツは脱走してしまう。2週間で逃げられてしまっては、あれだけ苦労した前作は何だったかと言いたくなるが、脱走する時にディンペルモーザー氏が身に着けていた警察の服まで盗んでいるから、ますますたちが悪い。警察になりすましてカスパールのおばあさんの家に侵入して、カスパールとゼッペルが毎週木曜の昼に食べることを楽しみにしていたやきソーセージザワークラウト(発酵させたキャベツの塩漬け)を平らげてしまうという悪辣ぶりだった。
 ホッツェンプロッツを呼び込んでしまうのが怖いから、捕まるまで二度とやきソーセージとザワークラウトは作らないと、おばあさんが言い出したことから、カスパールとゼッペルは、ホッツェンプロッツを捕まえてやろうと躍起になるが、運も味方してホッツェンプロッツは二人の裏をかき、おばあさんを自分の隠れ家に連れ去ってしまう。おばあさんを助けたければ、ホッツェンプロッツを捕まえた謝礼として受け取った555マルク55ペニヒを持ってこいと要求を突きつけるが、果たしてカスパールとゼッペルは、二人だけで無事におばあさんを助け出すことができるのだろうか。
 前作では魔法使いのツワッツケルマンや妖精のアマリリスが登場したが、今回はファンタジー的な要素は少なく、52km以内で屋外ならば何でも見通せる占い師のシュロッターベック夫人が登場するぐらい。彼女がいなければ、ホッツェンプロッツの隠れ家を見つけることができず、ホッツェンプロッツは悪事を働き放題だったかも知れない。前作に引き続きカスパールとゼッペルの軽妙なやり取りがおもしろいが、ディンペルモーザー氏も加わって、消防ポンプ置き場から脱出するくだりは、ちょっとした見所である。
作品のツボ→ホッツェンプロッツを追い詰めるのに大活躍したのが、シュロッターベック夫人のペットであるヴァスティ。どう見てもワニなのだが実はダックスフントで、シュロッターベック夫人がセントバーナードにしようとかけた魔法が失敗してワニの姿をしているのである。
大どろぼうホッツェンプロッツ 三たびあらわる
オトフリート・プロイスラー 偕成社
 刑務所に服役していたはずのホッツェンプロッツが、カスパールのおばあさんの前に姿を現す。またもや脱獄してきたのかと思いきや、模範囚ということで早めに釈放されたということであった。その名をとどろかせた大どろぼうのホッツェンプロッツが、そんな簡単に真人間になったなんて信じられないカスパールゼッペルだったが、どうやら本当に心を入れ替えて真っ当に働くことを決意したようだった。しかし、そんな折、占い師のシュロッターベック夫人の水晶玉が紛失するという事件が発生する。やはり、心を入れ替えたのは嘘でホッツェンプロッツが盗んだと考えたディンペルモーザー氏(前にホッツェンプロッツを捕まえたことで警部に昇進している)は、手配書を貼り出してホッツェンプロッツ逮捕に向けて動き出した。
 こうしたパターンだと良いやつになったと見せかけて騙そうとするケースが多いが、驚くことにホッツェンプロッツは本当に心を入れ替えて泥棒稼業から足を洗ってしまったのだ。これまで悪党のホッツェンプロッツの活躍を見てきたものとしては、少し寂しい思いがする。1962年に第1作目となる大どろぼうホッツェンプロッツを発行し、それが人気が出たことから1969年に大どろぼうホッツェンプロッツ ふたたびあらわるが出されることになった。それが、ホッツェンプロッツが泥棒から足を洗ってしまったことで、1973年に発行された本書「大どろぼうホッツェンプロッツ 三たびあらわる」で完結となる。かつてホッツェンプロッツを捕まえるのに大活躍したカスパールとゼッペルが、泥棒を辞めたのに指名手配されてしまったホッツェンプロッツを助けるために走り回る。そして、泥棒を辞めたからには働いて稼がなければならないが、生まれてから泥棒しかやったことがないホッツェンプロッツが、何の仕事に就いたかは読んでみてのお楽しみ。
作品のツボ→シュロッターベック夫人のペットは、魔法でワニに変えられてしまったダックスフントのヴァスティだが、ホッツェンプロッツの無実の罪を晴らすとともに、ヴァスティを元に戻すのもカスパールとゼッペルの重要な使命。そんな彼らを助けてくれるのが1作目に登場した妖精のアマリリスなのである。
『か行』

ガンバとカワウソの冒険
斎藤惇夫 岩波少年文庫
 グリックの冒険でシマリスを助け、冒険者たち白イタチのノロイを倒したガンバだが、たまには住み慣れた我が家でのんびりとすごそうと思ったのが甘かった。行方不明になったシジンの恋人を探すというトンデモない出来事に巻き込まれ、休む間もなく次の冒険に旅立つことになったのだ。何らかの目的があって南の島に渡ったはずのシジンの恋人であるナギサだが、いつまで経っても帰ってくる気配がない。これは、何かあったに違いないと仲間のシジンを助けるために立ち上がったのは、ガンバの他に、ガンバの友人のマンプク、力持ちのヨイショ、頭が切れるガクシャ、いつもサイコロを振っているイカサマと、ここまではアニメのガンバの冒険を見たことがある人にとってはおなじみの面々、それに加えて原作の冒険者たちで一緒に夢見が島に渡った、イダテンカリックアナホリバレットテノールバスジャンプといった連中がいる。ボーボオイボレはイタチに殺されており、忠太は島に残ったので3匹ほど減っているが、その代わりにガンバたちに惚れ込んで夢見が島から付いてきてしまったチョンギレシワヨセアワテの3匹が新しい仲間となっている。
 かくして南の島に渡ったガンバたちだが、ナギサは絶滅したと思われるカワウソと一緒にいるという可能性が濃厚となってくる。そのためには河の上流まで向かわなければならないが、見知らぬ土地での冒険はガンバたちにとって危険極まりないことである。どうしてナギサはカワウソなんかと一緒にいるのか、そしてナギサを見つけてからどうすれば良いのか、不安を覚えながら河の上流を目指してネズミたちは進んでいく。
 グリックの冒険、冒険者たちと続いたシリーズも本作で最終作とされているが、実は今回の話はカワウソが絶滅寸前になっていることを悲観した斎藤氏が、彼らを救いたいという思いから書きはじめたもの。ガンバたちが渡った南の島とは四国のことであり、遡っていく河は四万十川だと思われる。絶滅寸前の動物を救うというのは天敵のイタチを倒すことよりも、ある意味困難なものと思われる。しかも、本能に従ってカワウソを殺そうとする野犬の集団まで行方に立ちはだかるのだ。しかし、ガンバにあきらめるという言葉は似合わない。無謀な冒険とは知りつつも、ひたすら仲間とともに走り続けていくのである。
作品のツボ→ノロイと戦った時にはオオミズナギドリに助けられたガンバだが、今回は一羽のカモメが重要な役割を担っている。イカサマからキマグレと名付けられたカモメはガンバたちのやることなんて興味ないなんていいながら、キマグレに飛んできては貴重な情報をくれる憎めないやつである。また、カワウソが野犬に襲われるところを目撃した南の島のネズミのウキクサも、敵か味方か分からずハラハラさせてくれる。
くじらぐも
中川李枝子 光村図書
 小学校の教科書で覚えている話をあげてもらうった場合、ごんぎつねモチモチの木と並んで出てくるのが、くじらぐもだと思われる。先の2作が小学校中学年で読む作品なのに対して、くじらぐもは小学校1年生の教科書に収録されている作品。学校に入学して初めて出会う印象に残る物語が、くじらぐもとなるわけである。この物語が印象に残る理由としては、入学したばかりで集団生活になれていない子どもが、作品の中に書かれている子ども達に自分を投影することにあるのではないだろうか。
 物語の中では、1年2組の子ども達が体育の授業で準備運動をしていると、くじらに似た形の雲が現れる。自分たちの動きに合わせて真似をするように動き出すくじらぐも。それを見た子ども達が喜んで声をかけると、くじらぐもが近くにやってきたので、みんなは背中に飛び乗って、空の散歩を楽しむ。学校に入学して、みんなと楽しく過ごせるのだろうかと不安を覚える子ども達にとって、そこには理想の世界が描かれている。夢と現実の境界があいまいな幼児期を抜け出して、成長しようとする子どもを、夢のような物語が小学校の教科書で出迎えてくれる。この物語を読んだ後の体育の授業で、「あそこに浮かんでいるのは、くじらぐもじゃないか」と、友達と空を見上げた覚えのある人はいませんか。
 作者の中川李枝子さんという名前を聞いてピンとこない人でも、ぐりとぐらいやいやえんの作者と聞けば知っている人も多いはず。児童文学の世界には欠かせない人で、誰もが幼い頃に何らかの形で中川先生の作品に触れているのではないだろうか。
作品のツボ→くじらぐもの背中に飛び乗るのが、子どもだけでなく先生も一緒というところが、これを読んだ子ども達の気分を高揚させるのにつながっている。先生や友達と一緒に雲に乗って空を飛ぶというのは、入学したばかりの子どもにとって夢のような体験だろう。一緒に楽しみながらも、腕時計を見て帰る時間だと告げる先生の姿は、頼もしく映るだろう。
グリックの冒険
斎藤惇夫 岩波少年文庫
 シマリスのグリック姉のフラックと一緒に人間に飼われて平和な日常を送っていた。しかし、ある日、伝書鳩のピッポーから、シマリスの本当のふるさとは、北の方にある森と聞いてから、このまま人間に飼われていてはダメなのではと思うようになり、北に向かう旅に出ることを決意する。ピッポーによると、町を抜けたら畑を通り、高い丘を越えたら、また畑を通り、大きな川に沿って海まで出たら、海岸を北に進み、山を越えると、ようやく目的の森に到着するというのだ。その途中には、犬や猫、さらにはフクロウといったシマリスをねらう生き物がいっぱいだ。部屋の中の安全な世界しか知らなかったグリックに、そんな危険な冒険が出来るのだろうか。途中で食べ物を確保できるか分からないことから、グリックも不安で仕方が無いが、姉のフラックに追い立てられるように、過酷な冒険の旅に出ることになる。
 旅に出て、いきなり町中で危険にさらされるものの、思ったよりもたやすくシマリスの仲間たちに、出会えることができて一安心…と思ったものの、そこは町の北にある動物園だった。シマリスの仲間にも出会えたし、ここで冒険を終えてもいいかなと思うグリックだったが、「ぼくは、ぼくの戦いをはじめる」と決意も新たに、再び北に向かって旅を始める。自分の目標に妥協することなく、挫折や失敗が待ち受けていようとも進んでいく姿には、思わず考えさせられてしまう。
 動物園を出ると一匹のメスのシマリスがついてきた。そのシマリスののんのんも、一緒に北の森を目指したいというのだ。自分だけでも困難なのに、二匹で北の森を目指すなんて無理だと、動物園に帰るように言うが、のんのんの決意は固かった。実はのんのんは足が悪く、それがグリックの冒険を妨げることにもなるのだが、二匹は互いに励ましあいながらも北の森を目指すことになる。幾度と無く危険な目に遭いながら、川を下り海にたどり着き、どうにか目的地である北の森に近づいていくが、ここで最大の難関が二匹の前に立ちはだかる。グリックが冒険に出たのは秋の初めだったのだが、山に着く頃には冬が迫ってきていたのだ。冬になると食べ物が見つかりにくいというのもあるのだが、それよりも動物の冬眠したいという本能により、すさまじいまでの睡魔が襲ってきたのだ。グリックとのんのんは、雪が降る山の中で意識が薄れ始める。このまま 二匹は雪の中に埋もれてしまうのか。
 部屋から飛び出したグリックが出会う自然の景色の数々が、実にリアルに書き出されている。グリックが途中で食べるドングリやクルミはおいしそうだし、そこに、海が、あったのだ!と書かれている後にページをめくると見開きで海の挿絵が描かれていて、本当の海を見たときのように感動してしまう。
作品のツボ→町に出て右も左も分からないグリックを助けてくれたのは、ドブネズミのガンバ。この名前に聞き覚えのある人もいるかも知れないが、次作の冒険者たちの主人公。グリックの冒険は時系列的には冒険者たちより後ということになっており、ノロイを倒したガンバが帰ってきてからグリックと出会ったことになる。
車のいろは空のいろ
あまんきみこ ポプラ社
 教科書に収録されていることで有名な、タクシー運転手の松井さんが主人公の白いぼうしが載っている短編集。白いぼうしではチョウチョの化身を乗せた松井さんだが、何故か松井さんが運転する空いろのタクシーには、おかしな客ばかりが乗ってくる。それはキツネの兄弟だったり、人間に化けた山猫だったりするのだが、そもそも最初の作品であった「くましんし」からして、人間のような生活を送る熊と出会っているのだから、松井さんが奇妙な動物たちに縁があるとしか思えない。
 この本では、9篇の松井さんの物語が収録されているが、やはり白いぼうしは、物語から漂う雰囲気や後味の良さなど、秀逸な出来だと言える。そして、白いぼうしでは温厚な松井さんだが、その他の作品を読んでみると、タイヤのパンクに舌打ちしてみたり、道の真ん中でシャボン玉を吹いている女の子を無理やりどかそうとして泣かしてしまったり、タバコを吸っていたりするなど、松井さんの意外な一面を見ることができる(基本的には温厚な人であることに変わりませんが)。
 また、すずかけ通り三丁目の話では中年の婦人を乗せるが、彼女から語られるのは東京大空襲で子どもを亡くしたという物語。こうして様々な人や動物を乗せて、松井さんの空いろのタクシーは走り続けているのである。
作品のツボ→松井さんの話の他に、ねこんしょうがつ騒動記も収録。猫と一緒に富山や愛知など各地の正月の歌をうたうといった物語で、こちらでも、あまんきみこさんは動物の使い方が、うまいと感じさせてくれる。
ごんぎつね
新美南吉 偕成社
 これぞ、小学校の国語の教科書で読まれている第1位となる作品。ごんは、村へ出てきてはいたずらばかりする小ぎつねで、いつもは森の中に穴を掘って一人で住んでいる。そんな、ごんはいつものいたずら心から、せっかく兵十が捕まえたうなぎを、びくに首をつっこんで逃がしてしまう。ごんにとっては、いつもやっているような当たり前の行動だったが、そのうなぎは病気で寝ている母親に食べさせてあげるために兵十が苦労して捕まえたものだった。
 そんな大事なうなぎだったということを、ごんは兵十の母親の葬式が行われたことで初めて知ることになる。ごんも母親を亡くして一人で生きているさびしいきつね。自分のいたずらのせいで、うなぎを食べさせてあげることができなかったことを悔やんだごんは、栗やまつたけを山からとっきては兵十の家の前に置いていくようになる。この栗やまつたけは神様が置いてくれたものだということにされてしまい、ごんの好意が認められることはなかったのだが、それでもごんは食べ物を届け続ける。しかし、ある日、ごんが食べ物を置きに来ているのを見つけた兵十は、母親への恨みとばかりに、ごんを撃ち殺してしまう。そこで初めて、食べ物を置きにきてくれたのは、ごんだったと兵十が気づくところが悲しい。
 同じ教科書に載っている話でも、白いぼうしと違い、ちょっとしたすれ違いから、悲しい結末に終わってしまうごんと兵十がの関係がやりきれない。さびしく生きているもの同士が、分かり合えることなく、さびしい結末を迎えるという点が、何ともいえない読後感を残す。
作品のツボ→教科書で読むだけでなく、小学校の学芸会でもお芝居として使われることがあるので、子どもの時に兵十やごんの役をやった覚えがある人もいるのでは。この作品を劇にした場合、ごんを仕留めて喜んでいる矢先に、転がる栗を見つけてハッと真実に気づくようにすると、かなりインパクトのあるものになる。
『さ行』

白いぼうし
あまんきみこ ポプラ社
 タクシー運転手の松井さんのことを、どれだけの人が覚えているだろうか。「白いぼうし」は、タクシーを運転している松井さんが出会ったことが書かれた車のいろは空のいろに収められているおはなし。シリーズの他の作品は知らなくても、教科書に収録された「白いぼうし」だけは知っているという人も多いのではないだろうか。
 松井さんのタクシーに乗るとただよってくるのは、夏みかんの香り。田舎の母親が送ってくれた夏みかんを乗せておいたのだが、タクシーに乗り合わせたお客さんも、夏みかんの香りをかいで幸せになれる。そんな夏みかんのにおいがするタクシーを走らせていた松井さんだが、道路のそばに置かれた白いぼうしを見つける。このままでは風に飛ばされて車にひかれてしまうと考えた松井さんは、もっと安全な場所に移してあげようと思い、ぼうしを取り上げるが、ぼうしの下からモンシロチョウが逃げ出していった。
 それを見て、しまったと思う松井さん。子どもが捕まえたモンシロチョウが逃げないように、ぼうしでつかまえていたのだろうが、思わぬ親切が仇となってしまった。このままでは、子どもをガッカリさせてしまうと思った松井さんが取った策とは、ぼうしの下にモンシロチョウの代わりに夏みかんを入れておくこと。モンシロチョウが夏みかんに化けたと思って、男の子が驚く姿を想像して喜ぶ松井さんだが、物語はこれで終わりではない。夏みかんをおいて戻ってきた松井さんのタクシーに小さな女の子が乗っていたのだ。菜の花横丁までという女の子を乗せて、タクシーを走らせる松井さんだが、ふと気がつくと女の子の姿は消えていた。後部座席から人が消えたら怪談話だが、女の子が消えた場所の周りを飛び回るのは、たくさんの白いチョウ。女の子は松井さんが逃がしてあげたモンシロチョウの化身だったのだろうか。
 モンシロチョウを逃がすという失敗をしながらも、1個の夏みかんのおかげで、松井さん、チョウを捕まえた男の子、逃げ出したモンシロチョウの誰もが、幸せな思いをするという構造がおもしろい。「よかったね。」「よかったよ。」「よかったね。」「よかったよ。」
作品のツボ→子どものうちは、花や果物の香りに対しては無頓着なので、夏みかんのにおいを、どんなものだか想像しにくいのだが、それでも文章を通じて夏みかんのすっぱいいいにおいが感じられるような、後味の良い作品となっている。
『た行』

チックとタック
千葉省三 光村図書
 おすしを食べすぎたおじいさんが眠れないでいると、12時を告げる音とともに、ボンボン時計の中から赤い帽子をかぶった2人の小人がでてくる話が、教科書に載っていたのを覚えている人は、どれぐらいいるだろうか。くじらぐもと同様に小学校1年生の教科書に収録されたおはなしで、この話が小さな子どもの興味をひく理由の一つは、時計の中に小人が住んでいるというファンタジックな要素にある。まだ小学1年生ぐらいの子どもにとって、柱時計(あまり今では見なくなってしまったが)の中や、テレビの裏側などは未知な部分となる。その内側に妖精が住んでいて、やはり子どもにとっては未知の領域である夜中の12時過ぎ(今では起きている子供も多いのかも知れないが)に出てくるというのが魅力的に感じるのだろう。
 そして、もう一つ子供の興味をひく要素となるのが、物語のキーワードとなるおすしである。おじいさんが食べ過ぎて眠れなくなった原因であるが、子供にとって大人がおいしそうに食べるおすしは、そのおいしさが良く分からない食べ物(今では、おすしを食べる子供も多いらしいが)。しかも、ボンボン時計から出てきたチックとタックは、残っていたおすしを食べはじめてしまうのである。その盗み食いのバチがあたったのか、わさび入りのおすしを食べたチックとタックは、あまりの辛さに慌てて時計の中に戻り、それからというもの時計の音がジッグダッグと鳴るようになってしまったのでした。というわけで、オチもきいた作品だが、この話を読んでわさびが辛いということを知った人も多いのではないだろうか。
 見たことの無い柱時計の裏側、起きていたことが無い真夜中という時間、まだ食べたことが無いおすしなど、短い話の中に子供の好奇心を刺激するような要素がちりばめられた作品だが、柱時計を見なくなり、夜ふかしする子供やおすしを平気で食べる子供が増えたことが、昭和60年で教科書から姿を消してしまった原因なのだろうか。
作品のツボ→教科書に載っていた、いたずら好きなチックとタックのかわいらしいイラストが印象に残っているが、それを描いたのは安野光雅氏だとは、大人になるまで知りませんでした。
チリンのすず
やなせたかし フレーベル館
 子羊のチリンは牧場で母親と仲良く暮らしていたが、ある日、狼の襲撃を受け母親はチリンをかばって死んでしまう。母親を失ったチリンは狼にも負けない強い羊になろうと決意するのだが、強くなるためにチリンが選らんだ手段は母親を殺した狼のウオーの元で修行することだった。なぜ、母親の仇であるはずの狼に強くしてもらうのか。ただ食われるだけの存在である羊であることがいやになったのか、強さを求めて狼のもとでチリンは厳しい修行に耐える。
 そして3年間の修行を終えて強くなったチリンはウオーと一緒に羊を襲いにやってくる。羊であることを捨てて強くなったチリンにとって、すでに羊は自分の仲間ではないはずだった。しかし、そこに至って自分は羊を襲えないと考えたチリンは、自分を鍛えてくれたウオーに戦いを挑む。思わぬ形でウオーと戦い母の仇をとったチリンだが、そこには満足感など存在しなかった。作者はアンパンマンでおなじみのやなせたかしだが、そこに込められた強さと正義には考えさせられるものがある。
作品のツボ→母親の仇である狼を見事に倒したチリンだが、強くなりすぎたチリンはすでに羊と呼べるものではなくなっていた。チリンの鈴はアニメ映画にもなっているが、そのラストは涙無しには見られない。
つぶやき岩の秘密NEW
新田次郎 新潮社
 「強力伝」や「八甲田山死の彷徨」など山を舞台にした小説で知られる新田次郎が、海を愛する少年を主人公に書き上げたジュブナイル小説。1973年にはNHK少年ドラマシリーズとして映像化されている。三浦半島の南のはずれに近い西海岸で育った小学6年生の三浦紫郎は幼い時に両親を亡くし、祖父母によって育てられていた。誰もいない海を見るのが好きな紫郎は、大潮の日に岩に耳を近づけると海のつぶやきが聞こえることを発見する。その日も岩に耳をあて海のつぶやきを聞いていた紫郎は岸壁に黒い顔をした老人が立っているのを発見する。そのことが気になった紫郎は、老人が立っていた岸壁のあたりを探るようになるが、その頃から紫郎の命をねらうものが現れる。いったい岸壁にはどのような秘密が隠されているというのか…
 物語の舞台となるのは三浦半島だが、大根やスイカなどが名産であるなど、かなりリアルに描き出されている。その三浦半島にある大塚村には戦時中に軍が隠したとされる金塊が眠っているという言い伝えがあったが、あまりにも複雑に入り組んだ地下要塞の跡には誰も近づくものはいなかった。三浦義澄の子孫とされる旧家に生まれた紫郎は真っ直ぐな性格で、金塊になど興味はなかったが、村に隠された秘密だけは何としてでも解き明かしたいという好奇心を持ち合わせていた。金塊の秘密を握るのは、白髭さんと呼ばれる老人、人に会うことを極度に恐れる小庭安春、そして衣料品などを行商する鶴港亀之進の戦後になってから村に移り住んだ3人。紫郎は担任の小林恵子先生や、その弟で大学の山岳部に所属する晴雄と協力しながら謎を解き明かしていく。
 紫郎が作文を通して小林先生に調べた結果を報告したり、晴雄と一緒に地下要塞の中に入っていくなど、大人と協力して謎に挑んでいたかと思うと、一変して大人に頼らず一人で謎解きに挑戦しようとするのは、正に小学6年という年頃は、少年が子供から大人に成長していく段階だからであろう。大人を頼りにしたり、信用しなくなったり揺れ動く紫郎の心情がおもしろい。この物語が書かれた昭和47年は戦後から27年が経ち、戦争の記憶は薄れたものの、軍の隠し財産などが本当に残っていてもおかしくないような時代。そうした時代背景もうまく使いながら、少年が活躍する物語を書き上げている。なお、昭和47年なのでテレビなども当然あるのだが、紫郎がテレビを見ている場面に妙な違和感を覚えるのは、何となく物語全体が戦後間もない頃のように感じられるからだと思われる。
作品のツボ→金塊の謎を解き明かすには白髭さんが残した遺書が重要なカギとなってくるが、「鵜の塚の嘆きに答う彼岸島」という暗号を紫郎が解明していく様子は、ジュブナイル小説としてよくできており、読者を楽しませてくれる。
つりばしわたれ
長崎源之助 岩崎書店
 お母さんが病気になったため、田舎のおばあちゃんの家にあずけられることになったトッコだが、弱みを見せたくないばかりに東京の自慢ばかりしてしまい、すっかり友達から嫌われてしまった。おばあちゃんの家の近くには、つり橋がかかっているのだが、田舎の子供たちはトッコに向かって「やあい、もやしっ子。くやしかったら、つり橋わたって、かけてこい」と言ってからかってくるのだ。もちろん都会育ちのトッコが、つり橋なんて渡れるわけがない。「あんたたちなんかと、だれが遊んでやるもんか」と、つい強がってしまうのだ。
 お母さんと離れて暮らし、友達も出来ないトッコにとって、さびしい田舎生活となってしまったが、ある日、人の真似ばかりするカスリの着物を着た男の子と出会う。自分の真似をされると腹が立つもので、トッコが手を振り上げると男の子は笑いながら逃げ出していった。そうして逃げる男の子を追いかけるうちに、いつの間にかトッコは、怖くて渡れなかったつり橋を渡っていた。そんなトッコを見ていた田舎の子供達から、やっと友達と認められ、トッコの田舎での暮らしは楽しいものとなったのだが、あの男の子が姿を現すことは2度となかった。あの男の子はいったい何者だったのか。今はただ、男の子が真似したように山びこが返ってくるだけだった。
作品のツボ→子供にとって転校というのは一大事。増してや都会から田舎に転校して母親もいなくなってしまったトッコにとっては、異世界に放り込まれたようなものだろう。そんなトッコにとって、渡ることが出来ないつり橋は、トッコ自身の心の壁の象徴にも見える。この橋を渡ることができた時に、トッコの心の壁が取れて、田舎の子供と仲良くなることができたのだろう。橋を渡り終えた後の、「シラカバのこずえが、さやさやになり、ホオの木の広い葉を通してくる日の光が、トッコの顔を、みどり色にそめました」という表現が、実に爽快に思える。
手ぶくろを買いに
新美南吉 偕成社
 森に住んでいるきつねの親子だが、子どものきつねは初めて雪を目にすることになる。大喜びで雪で遊ぶ子ぎつねだが、当然、雪を触った手は冷たくなってしまう。そして子ぎつねの手がしもやけになることを心配した母親は、子ぎつねをつれて町まで手ぶくろを買いにいくことになる。ところが人間が怖いものだと知っている母親は、うかつに町に近づくことができない。そこで、子ぎつねの手を人間の子どもの手に変えて、これで手ぶくろを買ってくるように言うのだった。お店の外から手だけ出させて、子ぎつねに手ぶくろを買ってこさせるというものだが、子どもだけを恐ろしい人間の町に行かせようというのだから、かなりリスクの高い手段のような気がしないでもない。
 手ぶくろを買いにいく子ぎつねに与えた注意は、人間の手に変えたのは片手だけなので、間違えてもきつねの手を出してはいけないということ。ところが、そこはお約束で慌てた子ぎつねは、きつねの方の手を出してしまう。でも、優しい帽子屋さんは、子ぎつねに手ぶくろを売ってあげる。お母さんの言うように、人間は怖い生き物ではないんじゃないかと考える子ぎつねに、子どもを寝かしつける母親の子守唄が聞こえてくる。自分の母親と同じ優しい歌声を聴きながら、子ぎつねは母親の元に帰ってくる。
 同じ新美作品でキツネを扱ったごんぎつねと違って、人間の優しさを前面に出してハッピーエンドとなっている。間違った手を出しても手ぶくろを売ってくれた、子ぎつねの話を聞いて「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」と首をかしげる母ぎつねだが、さて、ほんとうに人間はいいものかしら。
作品のツボ→こんな良い話で、こんなことを書くのも何だけれど、「お手々がちんちんする」というところを国語の時間に読むのが恥ずかしかったことで、この物語を覚えている人もいると思う。
どろんこ祭り
今江祥智 ポプラ社
 三郎は気が弱くて女の子みたいと言われている男の子。一方、三郎の友達のせっちゃんはおてんばで、まるで男の子みたいな女の子。三郎は東京から転校してきたばかりなのだが、何故か正反対の2人は気が合って、すぐに友達になってしまった。この2人の住んでいる地域には、五穀豊穣を祝うためのどろんこ祭りと呼ばれるお祭りがあるのだが、これが、どんなお祭りかというと、女の子が男の子に泥を塗りたくるというもの。この、どろんこ祭りに服装を交換して、入れ替わって参加しようと、せっちゃんは三郎に持ちかける。せっちゃんにとっては、いつもやっているようないたずらと同じような軽い気持ちからの提案だった。
 ところが、いざ祭りが始まると、予想外の状況が発生する。最初は恐々と泥を投げていた三郎だが、あんたも泥を投げろと周りからすすめられるうちに、祭りの熱気にあてられたのか、夢中になってせっちゃんに泥を塗り始めるのである。そして、泥を塗られたせっちゃんは、いやがって逃げ出す始末。入れ替わっていることがバレないように、かぶっていた手ぬぐいや菅笠も取れてしまい、いつもとは違う様子の2人に周りの大人は大笑いという物語。三郎の変わりっぷりが、なかなかおもしろいのだが、残念ながら現在の教科書では削除されてしまっている。
 さて、どうして削除されてしまったのかと言うと、あらすじを読んだだけでもお分かりのように、男らしさ女らしさを前面に打ち出した内容は、ジェンダーフリーを掲げる人たちにとっては、あまりにもストレートど真ん中な内容でカチンと来るものがあったのだろう。物語では三郎の気の弱さを認めていないとか、せっちゃんが男らしくなった三郎に一方的に攻撃されることなどを考えれば、引っかかるのも分かる気もするが、そこから男らしさ女らしさとは何だろうかと、子ども達に考えさせる意味でも残してもらいたかったものである。
 この話の設定が正しいとか正しくないとかとは別に、妙にモヤモヤした気分が残る作品なのだが(第二次成長が近づいている児童に男女の性差を考えさせることからエロス的な意味もあるが、そういうのを抜きにしても)、その妙なモヤモヤ感を与えるというのが、この作品の最大の魅力のような気がする。明確な答えを出して教えるのばかりが教育とは限らず、心に何か違和感を覚えさせるのも、子どもの成長につながるのではないだろうか。また、伝統的な日本の祭り地方の方言などの要素も含んでいることから、小学校高学年で扱うには、うってつけのお話しだと思うのだが…。
作品のツボ→せっちゃんはおきゃんと呼ばれていたが、これはおてんばという意味だが、この物語を読んで初めて知りました。どろんこ祭りは、高知や愛媛で実際に行われているお祭り。物語の舞台も土佐なので、おきゃんも四国の方言だと思われる。
『な行』

『は行』

はずかしかったものがたり
椋鳩十・編 童心社
 おねしょにまつわる思い出を集めた「ねしょんべんものがたり」に続く第二弾。椋鳩十氏の呼びかけで多くの児童文学作家が子供の頃の忘れられない恥ずかしい思い出を綴っている。収録作品は全部で26篇。第一弾との大きな違いは、収録作品の多くが東京新聞の連載として掲載されてから、改めてまとめられたものということで、出版される前に読者の目に触れてから修稿できるという機会を得ている。この本で語られている話は、電車ごっこをしているうちに迷子になってしまったとか、机の引き出しの穴につっこんだ指が抜けなくなってしまったなど、子供なら誰でもしでかしてしまいそうな他愛のないものばかりだが、おかしい中にも、読んでいるうちに何であんなことをしてしまったんだろうという自分の恥ずかしかった話が頭に浮かんでくるのである。
 椋氏の呼びかけだけあって、一つの花今西祐行や、白いぼうしあまんきみこ風の中の子供坪田譲治など、錚々たる面々が原稿を寄せているが、そんな人たちが子供の頃には、こんな失敗をしていたのかと思うとおかしくもある。中でも自分のお気に入りは山口勇子の「すなのとう」。夏の間に友達になった外国人の男の子が故郷に帰ってしまうということで、別れのあいさつをしようと思ったら、近くにいたお父さんが大きなオナラをしたというのは、そりゃないよと思う。
作品のツボ→椋鳩十氏本人のはずかしかったものがたりも収録されているのだが、短い文章の中にも伊那谷の風景が見えてくるようで、その文才には圧倒されるものがある。
一つの花
今西祐行 ポプラ社
 「一つだけちょうだい」。これが幼いゆみ子が、はっきり覚えた最初の言葉。何で、こんな言葉かというと戦争中で物が無かった時代に、お腹がすいたゆみ子が食べ物をほしがると、母親が「じゃあ、一つだけ」と言って自分を分けてくれていたので、「一つだけちょうだい」と言えば食べ物がもらえるものだと思ってしまったのだ。そんな、ゆみ子を見て、この子は一つだけの喜びしか感じることができない、将来はどんな子に育つのだろうと不憫に感じるのであった。
 そんな父親も戦争が激しくなり、戦地に赴くことになる。母親とゆみ子は駅まで見送りに行くのだが、そこでゆみ子の「一つだけちょうだい」がはじまってしまう。何か食べ物をあげようにも、一つのおにぎりも残っていない。「一つだけ、一つだけ」と泣きじゃくるゆみ子に、父親はプラット・ホームに咲く一輪のコスモスを手渡してあげる。「一つだけのお花、大事にするんだよう…」といって花をにぎって喜ぶ、ゆみ子を見ながら出征していく。
 反戦思想や戦争の悲惨さというより、多くの食べ物をねだるのではなく一つだけというところや、それを思いやる親の心が、いじらしくて泣けてくる。作者の今西祐行氏は2004年12月に亡くなられたが、「一つの花」は今西氏の代表作となっている。「今日は日曜日、ゆみ子が小さなお母さんになって、お昼を作る日です」
作品のツボ→戦争から10年がたち、「お肉とお魚のどっちがいい」というゆみ子の会話からも、平和になったことが感じられるが、それ以上にあたり一面に咲き誇るようになったコスモスが、平和な世の中になったことを、うまく表している。
ベロ出しチョンマ
斎藤隆介 理論社
 千葉の花輪村(現在の野田市のあたり)に昔から伝わるベロ出しチョンマというおもちゃが、どうして誕生したかを描いた物語。冬になると霜焼けで苦しむ妹の包帯を替えてあげる時に、兄の長松は泣き出さないように、眉毛をハの字型に下げて、舌をベロっと出して笑わせていた。そんな仲の良い兄妹だったが、名主である父親が年貢を下げてもらおうと、将軍家に直訴したために、幼い長松と妹も一緒にハリツケにされることになった。ハリツケ台の上で泣き叫ぶ妹を笑わせるために、自らもハリツケになりながら、いつもの変な顔をする長松。二人はそのまま槍で貫かれるが、妹を思う長松のことを哀れと思った人たちにより、ベロ出しチョンマの人形は、いつまでも残り続けるのである。短い物語でありながら、大人の事情に巻き込まれて幼い子供が死ななければならない理不尽さや、死の恐怖を乗り越えて妹を思う兄のやさしさが伝わってくる。ちなみに、この話を読むと、うしおととらのたゆらとなどかのエピソードを思い出す。
 フォア文庫版では表題のベロ出しチョンマも含めて28作品を収録。教科書にも載っているモチモチの木や、ソメコとオニなども読むことができる。本書では鬼や大男が出てくる話を大きな大きな話、小さな子供が出てくる話を小さな小さな話、太陽や風の物語を空に書いた童話として収録。また、秋田への疎開経験のある斎藤氏は、秋田の自然に関連した作品も多く残しており、大きな体で田んぼが波をかぶるのをふせぎ八郎潟を誕生させた八郎、オイダラ山を作物の実る豊かな山に変えた三コなどが有名な作品である。
作品のツボ→習字がうまいとされていた子供が、もっと字がうまくなりたいという思いから一の字を書き続け、ついに鬼にまでなってしまった一ノ字鬼は、子供の時に読んだことがあるが、何かに執着する心が鬼を生むというシチュエーションが強烈で、忘れることができないインパクトを放っている。
放課後の時間割
岡田淳 偕成社
 小学校の図工の先生である主人公は、ある秋の夕方、2匹のネコが校舎の中庭で何かを取り合いしているのを目撃する。彼が近づくとネコは逃げ出していったが、その後には1匹のネズミが残されていた。しかも、そのネズミは不思議なことに小さな白衣を着させられていたのだ。彼が助けてやると気が付いたネズミは逃げ出していくが、数日後、再び彼の前に姿を現すことになる。
 驚いたことに、そのネズミは人間の言葉が話せる学校ネズミだった。学校ネズミというのは、ドブネズミや野ネズミと同様に学校に生息するネズミだが、天井から授業を覗き見するため、人の言葉まで分かるようになったのだ。1年生の教室にいるネズミは一年生ネズミ、職員室にいるヤツは職員室ネズミといったように、以前は、何匹もいた学校ネズミだが、メスだけが火事で焼け死んでしまったため、その学校ネズミが最後の一匹になってしまっていた。学校ネズミの最大の特徴は、おはなしを作って話すのが大好きだということ。そして、最後の学校ネズミはネコに襲われて死にかけた時に、このまま自分が知っている話が失われてしまうのはイヤだと考え、先生に知っているおはなしを聞いてもらうことを決めたというのだ。こうして、毎週月曜の放課後に1話ずつ学校ネズミからおはなしを聞く放課後の時間割が始まったのである。
 こうして学校ネズミから語られるおはなしは全部で14篇。学校ネズミいわく、一年生ネズミや六年生ネズミという名称は住んでいる場所を表しているだけで、低学年だから幼く、高学年だからしっかりしているというわけではないそうだ。警備員さんに手の中のものは何か聞いてくる女の子のことを語った夜警員室ネズミの話、公害で汚れた海で姿が変わったトビウオの物語となる二年生ネズミの話など、物語の種類は様々。主人公の先生ではないが、毎週月曜が楽しみになりそうだ。しかも、終業式など授業が無い時はおはなしもお休みという細かい設定が、実にこっている。
 作者の岡田氏は小学校の図工の先生ということで、挿絵も全て自分で描いている。この本で書かれている話も、つとめていた学校のお昼の放送で、毎週月曜に子ども達に向けて語ったもの。あとがきでも書かれているが、毎週1つの話を考えるのは大変だったという。そして、物語の結末は3学期の終わりに先生の転任という形で訪れる。最後に語られる図工準備室ネズミのはなしは、学校ネズミからの最後のメッセージ。半年にわたって続けられてきた放課後の時間割が終わりを告げ、一人と一匹は別れることになるが、さびしいながらも暖かいラストになっている。
作品のツボ→運動場ネズミが語ったのは、おしゃべりなプラタナスを嫌って、隣のプラタナスの木が移動していってしまうおはなし。これは、当時つとめていた学校にあったプラタナスの木が1本だけ離れて生えていることから生み出されたものだそうである。
冒険者たち−ガンバと十五匹の仲間
斎藤惇夫 岩波少年文庫
 町ネズミのガンバは、友人のマンプクの誘いにのって、生まれて初めて海を見に行くことになったのだが、そこでガンバは船乗りネズミたちに出会うことになる。船乗りネズミの歓迎を受けて、食べ物や飲み物を振舞われ大喜びのガンバだったが、そこに傷だらけになったネズミの忠太が、担ぎ込まれたことから、恐ろしい冒険の幕が開くことになる。忠太の住む夢見ガ島がイタチのノロイ一族に襲われたので、助けて欲しいというのである。困ったネズミは捨ててはおけないとばかりに助っ人を買って出たガンバだったが、船乗りネズミたちの怯え方が普通ではなかった。かつて船乗りネズミは、白いイタチのノロイから、命からがら逃げ出したことがあったが、とてもネズミが太刀打ちできる相手では無いというのだ。しかし、ガンバは後に引くことが出来ない性格。ちょっと海を見るつもりだった冒険が、船に乗って大海原に飛び出すほどの大冒険になってしまったのだ。
 絶望的な旅立ちとなったガンバだが、船乗りネズミや港ネズミの中にも協力してくれる仲間が現れた。リーダー格で力自慢のヨイショ、ネズミなのに博学なガクシャ、足の速さが自慢のイダテン、サイコロを持っていてギャンブル好きのイカサマ、おっとりしてテンポが遅れているボーボ、踊りなら誰にも負けないバレット、きれいな歌声の持ち主のバステノール、すさまじい跳躍力のジャンプ、1年で1キロの穴を掘るアナホリ、常に詩を口ずさんでいるシジン、噛み付きが得意のカリック、イタチと戦えるとは思えない年寄りネズミのオイボレ、それにガンバの友人のマンプクと島から来た忠太も入れて、ガンバと15匹の仲間が島に向かうことになったのである。
 ところで、この冒険者たちは、ガンバの冒険としてアニメ化されているのだが、そこでは、ガンバ、忠太、ボーボ、ヨシショ、ガクシャ、イカサマ、シジンの7匹に削られている。マンプクの役をボーボに割り振ったり、イカサマにイダテンの能力を加えたりしているが、アニメでは少人数にすることで、より危機感を高め、限られた放送回数の中でキャラに感情移入しやすくなっている。15匹のままでは、途中のオリジナルエピソードも入れにくかったと思うので、この改変は成功だと思われる。
 島には容易にたどり着くことができたものの、ガンバたちネズミにとってイタチは天敵。その中でもノロイは強いだけでなく、巧みな頭脳と甘い言葉でネズミたちを心理的にも追い詰めていく。これほど勝ち目の見えない戦いも珍しいが、それでもわずかな勝機にかけて、ガンバたちは戦いを挑んでいく。しかし、仲間のネズミが一匹、また一匹とイタチの爪の前に倒れていく。果たして島で生き残っている100匹ばかりのネズミをノロイの魔の手から助け出すことはできるのか。なお、前作となるグリックの冒険は、本作より後のことだと思われ、イタチとの戦いを終えて帰ってきたガンバが、シマリスのグリックを助けることになる。そして、次回作のガンバとカワウソの冒険では、シジンの恋人を探すため南の島に渡ることになる。
作品のツボ→イタチと戦わずに隠れながら生き延びようとする高倉ネズミたちが、島のネズミに不協和音をもたらすことで緊迫感を高めている。そして冒険者たちといえば、何と言っても島のネズミたちに伝わるこの歌。そろたそろたよ、仲間がそろた、いちねんぶりにまたそろた。おどり踊らば、あの娘と踊れ、赤いそてつの咲く下で。むすめほしけりゃ 泳いでわたれ、年に一度の早瀬川。
ぽっぺん先生シリーズ1 ぽっぺん先生の日曜日
舟崎克彦 筑摩書房
 大学助教授のぽっぺん先の専攻は生物学。飄々として悪い人ではないのだが、なぜか38歳にして独身、母親と二人暮らしという冴えない生活を送っている。何で、ぽっぺん先生なんて変な名前で呼ばれているかというと、いつも履いているつっかけが壊れているため、ぽっぺん、ぽっぺんと音をたて、それが九州のおみやげで有名なぽっぺんに似ていることから名付けられてしまったのである。
 そんな、いたって平凡な生活を送っているぽっぺん先生だが、なぜか非日常の世界に飲み込まれ、そこから元の世界に戻るための大冒険を繰り広げることになる。その第一弾となったのが、この「ぽっぺん先生の日曜日」。ある日曜日に、本が散らかりまくった部屋の整理をしていたぽっぺん先生だが、その中から子どもの時に愛読していたなぞなぞの本を見つける。思わず懐かしくなって開いてみているうちに、いつのまにかぽっぺん先生はなぞなぞの1ページ目の世界に入りこんでしまっていたのだ。
 せめてお昼に母親が作ってくれる、けんちん汁を食べる頃までには戻りたいと、いつものごとく、実にのんびりしたぽっぺん先生だが、この世界から脱出するのは、予想以上の困難を極めることになるのである。そもそも、ぽっぺん先生が、こんなにのんびりしていたのは、1ページ目がどこかの河川敷で、そんなに日常とかけ離れていなかったからなのだが、そこの住人が桃色のペリカンと知って、ようやく事態の異常さが飲み込めてきた。しかも、このペリカンときたら、大きな口の袋の中には柱時計を詰め込んで、訳の分からぬことばかり言ってくる。そして、ついには「ペリカンのくちばしには、なぜ大きなふくろがあるのでしょう」という、なぞなぞを出してくる始末。大学で生物学を専攻する自分にとっては、そんな問題は子供だましと言って解こうとするぽっぺん先生だが、学問となぞなぞは大違いなのである。子供の時には解けたはずのなぞなぞが、大人になって柔軟な思考ができないぽっぺん先生にとっては、なかなかの難題。それでも、苦労して答えを出した時には、そこは2ページ目の世界となっていた。
 そう、なぞなぞの本から脱出する手段はただ一つ。本に書かれているなぞなぞを解いていくしかないのだ。ところが、この本の中の登場人物(動物)たちときたら、廃墟でかくれんぼをしているブタやトガリネズミ中身がカラッポで洋服だけの人間しかいない町子どもを子守唄で寝かしつけようとするイノシシなど、クセのあるやつらばかり。なぞなぞさえ出してくれれば次のページに行けるのに、的外れな会話ばかりで、肝心の問題を聞き出すのにも苦労する始末。はたして最後のページにまでたどり着いて、本から脱出することができるのか。子供の時には薄っぺらく感じたなぞなぞの本を、ものすごく分厚く感じるぽっぺん先生であった。
 ちょうど小学校の高学年といえば、幼い頃に読んでいたなぞなぞの本と別れを告げる頃。自分がこの本を読んだのは12歳の時だったが、この本に出てくるおかしな連中と別れを告げた時が、子供時代の終わりだったような気がします。子供の時になぞなぞの本が好きだった人には、たまらない懐かしさがある一冊となっている
作品のツボ→そして、これがぽっぺん先生を本の中に引き込んだ最後のページの住人であるオカリナ吹きの少年が出したなぞなぞ。「少年はなぜオカリナを持っているのでしょう。答えはハーモニカを持っていないからです」。
ぽっぺん先生シリーズ2 ぽっぺん先生と帰らずの沼
舟崎克彦 筑摩書房
 シリーズ1作「ぽっぺん先生の日曜日」では、なぞなぞの本の世界に飲み込まれてしまったぽっぺん先生だが、さらなる大冒険が待ち構えていた。ぽっぺん先生が通う大学の構内には帰らずの沼と呼ばれる池がある。なんで、そんな恐ろしい名前が付けられているかといえば、その池に落としたものは2度と浮かび上がってこないという噂があるのだ。しかし、単なる噂ではなく、ぽっぺん先生自身も以前に懐中時計を落として見つけられなかった過去がある。そんな帰らずの沼のほとりで、お昼のお弁当を食べていたぽっぺん先生は、桃色のウスバカゲロウを発見。あまりにも珍しいウスバカゲロウなので、それを捕まえようと追いかけるうちに、驚くべきことにいつのまにか自分がウスバカゲロウになっていることに気づく。
 さて、そこからがぽっぺん先生の大冒険。ご存知の通り、ウスバカゲロウの寿命は2時間しかない。限られた時間の中で元に戻らなければならないのだが、元に戻る方法など検討もつかない。ついに力尽きて池に落ちて魚に食われたぽっぺん先生だがは、今度は鼻長魚になっていた。そう、ぽっぺん先生は食物連鎖の渦に飲み込まれてしまっていたのだ。自分が食べられたものに変身していくという、とんでもない状況から脱出するためには、いったいどうすれば良いのか。自分の置かれたとんでもない運命に悲観しているうちに、今度はカワセミに食べられてしまうぽっぺん先生。何と、カササギになってしまったぽっぺん先生は、人間の時にできなかった結婚まで体験してしまうことに。しかし、動物界の掟は残酷で愛する人(ではなくて、カワセミ)にめぐり合えたのもつかの間、イタチに食べられあえない最期を遂げる。気がついたらイタチになったぽっぺん先生の目の前には、愛したメスのカワセミがいたのだが、彼女にとってイタチは、すでに自分の愛する人を食べた天敵にしかすぎず、憎しみをもって追い出されることになる。
 こうしたように天敵に食べられると同時に、今度はその動物になってしまうというのは実に因果な話。この食物連鎖はとどまることなく、キノコ羽アリと続いていくのだが、学校で習うよりも、はるかに分かりやすく食物連鎖を理解することができる。さて、それでは食物連鎖の頂点である人間に戻るにはどうすれば良いのだろうか。
作品のツボ→巡り巡って羽アリになったぽっぺん先生だが、危うくアリジゴクに食べられそうになる。「ここで、あなたに食べられたらウスバカゲロウからやり直しだ」というセリフで、見事なまでに食物連鎖がつながった。
ぽっぺん先生シリーズ3 ぽっぺん先生と笑うカモメ号
舟崎克彦 筑摩書房
 何気ない日常から不思議な世界に巻き込まれることの多いぽっぺん先生だが、序章のタイトルが「それはいきなり始まります」となっているように、今回は物語が始まった時点でとんでもない状況に巻き込まれている。日食の時に渡り鳥は方角をどうやって知るのかを調べるため、シーサイドホテルに泊まっていたぽっぺん先生は、部屋ごと大海原に投げ出されてしまったのだ。ホテルの一室はヨットの船室に変わっており、波に乗ってどんどん進んでいく。そして驚愕の真実を同乗者のワライカモメから聞かされることになるのである。
 ヨットが向かっているのはアルカナイカ島。この地図上に無い島に日食の時だけ、向かうことができるというのである。そんなところには行きたくないと必死になって帰ろうとするぽっぺん先生と、どうにか説得して一緒にアルカナイカ島に行こうとするカモメのやり取りが続く。この航海には様々なタブーがあるらしく、あれをやってはいけない、これをやってはいけないというカモメが、ぽっぺん先生にとってはうるさくて仕方が無い。ケンカしながらも、時折やさしさを見せたりしながら「ぽっぺん先生と笑うカモメ号」に乗って一人と一羽の航海は続くのである。
 しかし、この作品で印象に残るのは後半の黄金の悪魔という豪華客船に乗り込んでからの展開。パーティーを楽しんでいる連中は全て悪魔の化身で、この悪魔たちによって繰り広げられる饗宴が、本当に悪い夢を見ているようなのである。いつの間にか子供になっていて、周りにいる連中は小学校時代のいじめっ子たち。さらに、十年前に死んだはずの父親に出会うも、それも悪魔が姿を変えている始末。このシリーズ史上最大のピンチからぽっぺん先生は逃れることが出来るのか。
 やはり本作の最大の見どころはワライカモメとぽっぺん先生の心の交流。普通のカモメに戻って飛び立っていくラストは妙に物悲しいものがある。なお、ぽっぺん先生シリーズは何事も無かったかのように元の世界に帰ってくるのが定番だが、今回はスタート地点であるホテルの部屋に戻ったわけではないので、ちゃんと冒険をした痕跡が残されている。
作品のツボ→笑うカモメ号に助けられ係留されるイカダに乗っているのは6匹の動物。カサブタヤミクモヨミガエルなど、わけのわからん連中だが、珍しい動物が好きなぽっぺん先生は気のいい連中としてお気に入りである。なお、この作品ではヒサシブリブチカマスなど、動物の名前にダジャレの多様が目立つ。
ぽっぺん先生シリーズ4 ぽっぺん先生とどろの王子
舟崎克彦 筑摩書房
 ついてない日というのはあるものだが、その日のぽっぺん先生は本当についてなかった。まあ、この人の場合はついている日を探すほうが難しいのだが…。しかし、数あるついてない日の中でも、この日の運の無さは格別だった。同じ大学の先生や院生を引き連れて探鳥会に出かけたのはいいが、カメラを抱えて夢中になっているうちに、誰もついて来ていないという始末。しかも、母親が作ってくれたシュウマイ弁当を食べようと思ったら、ハシもしょう油もついていないのだから最悪だ。しかし、本当に最悪な運命は、その後に待ち構えていた。不幸の連続に苛立つぽっぺん先生が見つけたのは、小脇にニワトリを抱えた左足の欠けた一体のハニワ。そのハニワを手にとって、探鳥会のメンバーである考古学者の田西助教授に見せにいこうとした瞬間に奈落の底に落ちていったのだ。
 落ちたのが地の底であるから、当然あたりは真っ暗。幸いにもケガはしなかったようだが、どうも周りの様子が変である。暗闇の中で、動いていた者の正体は何十体ものハニワだった。そして、ぽっぺん先生自身も、自分が地上で見つけたニワトリを抱えたハニワになっていた。ただ、一つ違っていたのは左足が、ちゃんと付いていたことだった。わけがわからないのは、ぽっぺん先生だけではない。周りにいるハニワたちも自分が何者で何をすべきかが分かっていないようだった。そんなハニワたちに秩序をもたらせたのは、巫女のハニワで、自分たちは古墳の中で眠っている天子さまを、お守りするためにいる存在だというのだ。そして巫女が言うには、ぽっぺん先生は若くして亡くなった天子さまの第4王子イラクサだというのだ。なんだか、とんでもないことになったぽっぺん先生だが、その口からはイチョグとかチッテライとか幼児語しか出てこない。情けないことに、子供のハニワになってしまった、ぽっぺん先生は言葉遣いまで子供みたいになってしまったのだ。
 穴の中にはイラクサ王子と巫女の他に、泣く女踊る男農夫の集団ハニワ作りの老人のハニワがいる。しかし、問題なのはハルヒコナツヒコアキヒコフユヒコの4体の武人のハニワである。天子さまを守って戦うために作られた武人のハニワは、普段は何もやることはないのだが、敵が攻めてきたら戦う役目を背負っている。しかし、自らの役目を忘れて互いに覇権を求めるようになり、ハニワ世界の小さなコミュニティが崩れ始めたことから、その争いにイラクサ王子ことぽっぺん先生も巻き込まれていく。
 ぽっぺん先生と帰らずの沼では食物連鎖という理科につながるテーマを描いたが、今回はハニワという小学校高学年の社会科につながるテーマが舞台となっている。泣く女や踊る男、あるいは武人たちなど本当に出土したハニワがモデルとなっているので、その年頃の子どもの興味をかきたててくれる。終盤のカタルシスはすさまじいものがあり、ハニワたちの世界が崩壊していく様子は、衝撃的である。そして、イラクサ王子のハニワの左足が無くなった理由で、見事に物語の環がつながっている。
作品のツボ→四人の武人の一人フユヒコは、全く言葉を話すことがない。そのフユヒコが最後になって「イラクサ…もうおれのものだ」と、一言だけ話すのが怖い。
ぽっぺん先生シリーズ5 ぽっぺん先生の動物事典
舟崎克彦 筑摩書房
 いつもとんでもない冒険に巻き込まれることになるぽっぺん先生だが、普段は独活大学で生物学を教えるただの助教授である。異世界でひどい目にあってなければ、普通に学生たちに向けて講義を行っているし、部長をつとめている競歩部で練習に励む毎日を送っている。さらに専門分野である動物に関する知識は、他の人と比べて少しは自慢できるところではないだろうか。これまでの冒険の中でも、不思議な動物たちと様々な関わりを持つことになるぽっぺん先生だが、動物好きが災いして、そうした運命に巻き込まれるのではないだろうか。
 そんなぽっぺん先生の動物への思いを、本にして出そうという奇特な出版社があったから驚きだ。ぽっぺん先生40歳のお誕生記念に出版されることになった動物事典だが、怠け者のぽっぺん先生は、いつになっても原稿を書こうとしない。そこで仕方なく編集者が、わざわざぽっぺん先生の家を訪ねてテープレコーダーを回して、語ったことを原稿にまとめることになったのである。
 そういうわけで、ぽっぺん先生が様々な動物に関して好き勝手に語ったのが本書の内容。ぽっぺん先生のことだから、話は脱線するし、登場する動物たちも人間と会話ができてしまう変なやつらばかりなので、普通の動物事典とは、およそかけ離れた内容になってしまっている。それでも動物の共生関係や擬態などの習性が、子供たちにも親しめるように、おもしろおかしく紹介されている。アイアイから始まりヒトで終わるまで、一つ一つの動物の紹介は短くまとめられていて、短編集といった感じの構成である。これまでのように冒険に巻き込まれることはないが、動物たちとのおもしろおかしい交流を描いたぽっぺん先生らしい動物事典となっている。
作品のツボ→ワライカワセミの項では、ぽっぺん先生と帰らずの沼のことを思い返している。あそこでイタチにさえ食べられなければ、紹介する側でなく紹介される側でいられたものを…
ぽっぺん先生シリーズ6 ぽっぺん先生 地獄へようこそ
舟崎克彦 筑摩書房
 40歳になっても結婚する相手がみつからなかったぽっぺん先生に絶好の機会が訪れた。同じ大学の鴨之橋教授の姪である袋小路絹子嬢とお見合いをしたところ、時間と約束は守るという点が気に入られて、あれよあれよと話がまとまっていったのである。これで長い独身生活ともお別れかと思われたが、2月3日の節分の日にして、ぽっぺん先生の誕生日、そしていよいよ今夜は結納という時になって、またもトンデモない運命がぽっぺん先生を襲ったのである。
 お嫁さんを迎えるに当たって、ぽっぺん先生の庭にあるみすぼらしい離れを壊してしまおうかと考えていた時、庭に不思議な人影を発見する。それをイタチだと思ったぽっぺん先生が捕まえてやろうと思ったのが運のツキ。庭にポッカリと穴が空き不思議な乗り物に乗せられたぽっぺん先生は、3匹の鬼たちとともに地獄へ連れて行かれることになってしまった。どうして悪いことをしていない、ましてや死んでもいないぽっぺん先生が、地獄の裁きを受けなければならないのか、ぽっぺん先生を連れ出した発電鬼、旋風鬼、通信鬼の3匹の飛行鬼隊に聞いても要領を得ない。なすすべもなく地獄に送られたぽっぺん先生は、三途の川の脱衣ババアに出会い、罪の無い人間を救ってくれるお地蔵様の慈悲もむなしく、牛頭と馬頭に引っ立てられ、恐るべき地獄の苦しみを受けることになったのである。
 とはいうものの、最近は地獄も不景気で何とぽっぺん先生が400年ぶりの訪問者。ずっと使われていなかったことで釜茹での湯は冷めてしまい、針の山の刃もボロボロ、とんだ地獄めぐりとなってしまったが、閻魔大王に面と向かうことになったぽっぺん先生の運命やいかに。はたして無事に現世に帰ることができるのか、そして長い独身生活に終止符をうって絹子さんと結婚することができるのか…
 これまでの冒険の中でも、もっとも恐ろしい場所に送られてしまったぽっぺん先生だが、これまでの異世界の登場キャラと違って、地獄に出てくる鬼たちが無機質に感じられるのが寂しい限りである(それにはわけがわるのだが)。唯一、血が通ったキャラに感じられるのは閻魔大王なのだが、そもそもこいつが余計なことをしなければ、ぽっぺん先生も無事に結納を迎えることができたものを…
作品のツボ→ぽっぺん先生の前の訪問者というのが、泣く子も黙る大泥棒の石川五右衛門。落語の「お血脈」にのっとって、地獄に人を呼び戻そうと閻魔様の依頼で信州の善光寺からお札を盗んだところ、そのご利益で極楽に行ってしまったというエピソードが語られている。
ぽっぺん先生シリーズ7 ぽっぺん先生と鏡の女王
舟崎克彦 筑摩書房
 42歳になるぽっぺん先生(ぽっぺん先生の日曜日では38歳だったのに着実に年をとっている)は、ろくな論文を提出しないことから、ずっと独活大学では助教授の地位に甘んじていたが、ついに長年の努力が実り教授に推薦されることになった。しかし、教授会で学長から教授の任命を受ける瞬間になって、またもや不思議な世界に飲み込まれていくのであった。
 今度の冒険のきっかけとなったのは、今は亡きぽっぺん先生の父親が、自分の子供(つまり、ぽっぺん先生)のために書き残そうとした小説のメモだった。その小説は「ホテル・コンドル」「あくびの村・心の森」「女神のはらっぱ」「女王の城」「鏡の迷宮」と各章のタイトルだけが残されただけで、結局は書き上げられることがなく中断してしまったものだった。父親が自分のために書き残そうとした小説の中に取り込まれたぽっぺん先生だが、そこでは完成しなかった小説の登場人物たちが、閉じ込められたままさ迷っていた。そこで、ぽっぺん先生は小説の中から脱出するため、そして閉じ込められた登場人物を助け出すため、物語の完成に向かって突き進んでいくことになる。ここで、やっかいなのは物語の完成を待ちきれなかった登場人物の一人である勇猛果敢な探険家が、勝手に物語を進んで世界をメチャクチャにしてしまったこと。この探検家が正当なルートを進まなかったことで歯車がくるい、後から行くぽっぺん先生が困難な状況に陥ってしまっている。
 この父親が残そうとした小説は、ぽっぺん先生に読んでもらうために書かれたものなので、いたるところに父親の息子に対する想いが残されている。「ホテル・コンドル」に無数の動物たちが出てくるのは、ぽっぺん先生に動物好きになってもらうためだし(その思いが通じたのか、ぽっぺん先生は動物学の助教授になったのだが)、「女神のはらっぱ」の女神が節足動物から脊椎動物、両生類、爬虫類と順番に生み出していくのは進化の系統樹を学んでもらうため、ヤギの駅長が英語でしか話しかけてこないのも、子供のぽっぺん先生に英語を覚えてもらいたかった父親の配慮からだ。
 かつて父親が子供である自分に残そうとしたメッセージを大人になってから確認するぽっぺん先生。物語の最後には相手の顔を写し取ってしまうと言われる鏡の女王が待っているのだが、そこまで読み進めていくと、ぽっぺん先生や読者にも、父親が用意していた鏡の女王の正体、物語の本当の主人公、そして小説を本当は誰に読んでもらいたかったかが明らかにされることになる。それにしても、30年以上もの間、勇気が出せずに物語を終わらせることができなかった本当の主人公のことを考えると、ぽっぺん先生だけでなく、大人になりきれなかった自分にとっても胸に詰まるものがあり、次のセリフも耳がいたい。「それは、この子が大人になりたくないからよ。将来のことを考えまいとしていれば、大人にならなくてすむわ」。
作品のツボ→ぽっぺん先生の冒険を助けてくれるのは、ホテル・コンドルのモデルになったホテルで、子供の時のぽっぺん先生と遊んでくれたルリちゃん。10歳の時の姿のまま思い出として小説に閉じ込められたルリちゃんが、大人になったぽっぺん先生に勇気を与えてくれる。
ぽっぺん先生シリーズ8 ぽっぺん先生と星の箱舟
舟崎克彦 筑摩書房
 作品が進むごとに少しずつ年をとっているぽっぺん先生は、本作ではついに45歳になっているわけだが、相変わらず独活大学の助教授で結婚する相手もいないといった冴えない状態である。教授になるための論文も前回が「カメレオンの気分がもたらす、カメレオンの変色構造について」だったのに、今度は「ストロマトライトの宇宙起源説」とガラッと変わってしまうのだから、大学としても簡単に教授にさせてくれないのである。そして、結婚相手も学長秘書の浅倉麗子さんから誘われているのに、断ってしまうのだから望むべくもない。もっとも、高尾山に登って一緒にUFOを呼ぼうという誘いだから、断るぽっぺん先生の気持ちも分からないではないのだが。
 ちなみに、ぽっぺん先生の研究テーマであるストロマトライトは、先カンブリア期に地球に大量の酸素をもたらしたとされる、今ではオーストラリア西海岸のシャーク湾など、限られた場所にしか存在しない特殊な生物である。
 そんなUFOを呼ぶ誘いを断ってまで、家に帰ってきたぽっぺん先生の前に、帆船の形をしたUFOが現れ、宇宙に連れ去られてしまう。ぽっぺん先生に新しいノアになってもらって、ある星に地球の生物の遺伝子情報を届けてもらうというのが、宇宙人の目的だが、いくら神のような存在になれるといっても、そんなことに巻き込まれるのは不幸以外の何物でもない。それでも、たどり着いた先の星をぽっぺん星と名付けて、見慣れぬ動植物に名前をつけていくぽっぺん先生。しかし、その星は新しく生まれた星ではなく、すでに一度滅んだ星であった。先住民族であったナヌークのたった一人の生き残りと心を通わせながら、ぽっぺん先生はその星の姿に地球の運命を重ね合わせるのだった。
 今回はUFOで宇宙に連れ去られたものなので、なぞなぞの本の中に入り込んでしまったり、食物連鎖の渦に巻き込まれたりした、これまでの冒険と比べて、現実世界とのつながりが強い気がする。もっとも、ぽっぺん星の動物たちはスイギュウとバクが融合したスイバクや、コウモリとカラスが融合したコウラスなど奇妙な連中ばかり。そして星の支配者とも言えるバブバブ様と対面することになるわけだが、ここに至ってぽっぺん先生がノアの役目に選ばれたわけが分かり思わず納得してしまう。
作品のツボ→宇宙に連れ去られたぽっぺん先生が家に連絡しようとすると、その前に現れたのが、電話ウサギ。この電話をかけているのに変な受け答えしかしてくれないウサギは、トンカチと花将軍にも登場した舟崎先生お気に入りのキャラである。
ぽっぺん先生シリーズ9 ぽっぺん先生のクリスマス
舟崎克彦 筑摩書房
 シリーズを重ねるごとに少しずつ年をとってきたぽっぺん先生だが、49歳にして初めて女性からクリスマスプレゼントをもらうことになる。その奇特な人とは、ぽっぺん先生が部長をつとめる競歩部のマネージャーである猿渡ヤエ嬢。うれしさのあまり中身を見ることなく家に帰ってきたぽっぺん先生だが、その何よりも大切なプレゼントは、本来ならプレゼントを配るべき存在であるトホホのトナカイによって奪われてしまう。プレゼントを配っているうちに嵐に巻き込まれて、最後の1軒に配るはずのプレゼントを失ってしまったというのだ。なくしたプレゼントの代わりにするため、猿渡さんからのプレゼントを奪われてしまったぽっぺん先生は、プレゼントと一緒に上空に連れ去られてしまう。
 こうして、またもやトラブルに巻き込まれることになったぽっぺん先生だが、トナカイに乗って迷い込んでしまったのは、天上にある冬の神殿だった。その神殿は冬の王が君臨していたが、一人娘が家出してしまい、冬の王はすっかり困り果てていた。娘がいなくなって孤独な冬の王の話し相手にされそうになったぽっぺん先生は、秋の神殿、夏の神殿、春の神殿をめぐって冬の王の娘を探して回ることになる。ただし、厭世的な秋の王わがままな夏の王トンチンカンな春の王など、いずれもぽっぺん先生を困らせるような連中ばかり。冬の王の娘を見つけ出し、トホホのトナカイからプレゼントを取り返さなければならないぽっぺん先生だが、気になるのはトナカイがプレゼントを渡そうとしている人物。ぽっぺん先生ですらプレゼントをもらえたのに、これまでに一度もクリスマスプレゼントをもらったことがない人物とはいったい何者なのか。
 この本が発行されたのは1994年11月だが、それを最後にぽっぺん先生シリーズはストップしている。時が流れるとともに、ぽっぺん先生も年をとっているので、2007年の時点ですでに還暦を越えているのではないだろうか。それでも、ぽっぺん先生は教授になるための論文に苦戦しながら、スリッパをぽっぺんぽっぺんと鳴らして大学を歩き回っているに違いない。そして、信じられないほどの運の悪さで不思議な世界に巻き込まれ、元の世界に戻るために悪戦苦闘していることであろう。
作品のツボ→ぽっぺん先生が教授になるための論文に取り組んでいるのは毎度のことだが、今回のテーマは「人類は雪男から進化した」。そんな先生の前に冬の王の家来として雪男が登場する。他の季節のへの案内役が、この雪男となるのだが、事あるごとに頭突きで気絶させられるのには困ったものである。
『ま行』

モチモチの木
斎藤隆介 岩崎書店
 「まったく、豆太ほどおくびょうなやつはいない」で始まるこの物語を国語の時間に読んだという人も多いのではないだろうか。モチモチの木は豆太の家の庭にたつデッカイデッカイ木。秋になると茶色い実を落として、これを石ウスでひいて粉にして、もちにこねあげるとホッペタが落っこちるほど、うまいそうだが、この描写が本当においしそうで、モチモチの木のおもちを食べたいと思ったものである。そんなモチモチの木に向かって「ヤイ、モチモチの木、実を落とせ」と言っている豆太だが、威勢が良いのは昼間だけで、夜になったら一人でショウベンにも行くことができない臆病者。一緒に暮らしているじさまを、夜中に起こして付いていってもらう始末。昼間は平気だったモチモチの木が、枝を広げて怒っている脅かしているようにしか見えないのだから情けない。
 そんなモチモチの木だが、1年に1度、霜月20日の晩には木に灯がともると言われてきた。夜中にモチモチの木を見るなんて、とても無理だとビビリまくりの豆太だが、その日の夜、腹痛に苦しむじさまのうめき声で目が覚める。じさまが死んでしまう、そう思った豆太ははだしのまま飛び出して暗い夜道を医者のところまで駆け抜けた。その時、豆太は見たのだ、モチモチの木の後ろに月が重なり、光り輝く姿を。それはじさまの命を助けるために勇気を見せた豆太への、モチモチの木からのごほうびだったのか。本に描かれた滝平二郎さんの切り絵が、その美しさを際立たせている。
 夜中に目が覚めた時の怖さは、子どもならば誰でも体験すること。この話しを読みながら豆太と自分を重ね合わせる人も多いだろう。そんな時に、豆太が振り絞った勇気を、自分でも出せるだろうかと考えさせるうまさがある。モチモチの木の幻想的な美しさは、勇気あるものだけが見ることのできる証みたいなもの。果たして自分はモチモチの木の灯を見ることができるのだろうかと、子どもたちに考えさせてくれる。「自分で自分をよわむしだなんて思うな、人間、やさしささえあれば、やらなきゃならねえことは、キッとやるもんだ」。
作品のツボ→この日から豆太は勇気のある男の子になったというオチではなく、じさまが元気になったら、またショウベンに起こすおくびょう豆太に戻っているところがいい。
『や行』

『ら行』

『わ行』

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