奥能登:内浦地区に数多くキリコ祭りあれど、やはり一番盛大に行われるのは当地宇出津八坂神社の祭禮、通称「あばれ祭り」でしょう。
現在、7月第一金・土曜日に行われるこの祭禮、今現在の祭礼行事等について、まず能登町のHPなどを参照してください。ここでは地元民でもあまり知らない事柄について紹介していく事とします。
注:他の祭禮に比べて写真が少ない、偏っているとの声があるかと思います。これは、ここの管理者自身が力一杯祭禮に参加しているためで写真などを撮っているヒマがないためですヽ(´▽`)/。ご了承ください。

宇出津郷土館に残る大ギリコの写真。明治時代か?周りの民家と比べると、その巨大さがわかる。
八坂神社は宇出津の山間部にあり、主神は素戔嗚尊、京都祇園社(八坂神社)より招いた神である、とされています。祇園信仰は夏場の疫病を退散せしめる信仰であり、古来の四十物所(干した魚など加工した海産物類、四十物を扱う所の事)であり疫病も多かったであろう宇出津に相応しい信仰であるといえます。素戔嗚尊は荒ぶる神であるとされるため、この祭禮ではキリコ・神輿共々大いに暴れ、それが暴れれば暴れる程神意にかなうとされます。宇出津には八坂神社の他に酒垂神社・白山神社の2つの郷社があり、両社の宮司が交代で八坂神社の宮司を務めます。神輿が2台あり、それぞれに両社の宮司がつくために酒垂神社の神輿・白山神社の神輿と思われている節がありますが、神輿の中のご神体は八坂神社のものであり、2台とも八坂神社の神輿です。正確には「酒垂氏子の神輿・白山氏子の神輿」です。神輿は町内をくまなく廻るため、1台では廻りきれなくなったので2台にしたといいます。
白山氏子の神輿は、必ず新村昭和町の町端家、通称アメヤに立ち寄ります。これは、町端家の先祖が海中よりご神体を引き揚げたからだ、といいます。あれ?と思いませんか?八坂神社は京都祇園から招いた神じゃなかったっけ?。

  大正年間に編纂された「鳳至郡誌」の記載によると「八坂神社は初め寺院なりしを後に神社とせるなり。往事泥棒風と称する悪疫の流行するや、この社の祭禮を行い、大奉燈を作りて町内を巡り、「大泥棒ボー、蜂や刺いた」と囃ししに、遂に之を絶滅しむることと得たりといふ。此の時の神体は中居より来たりて乞食の為に盗み去られ、同村に之を祀らるるに至りしかば、之を取り替えさんが為め人に遣いししに、神託ありて吾は中居に来たりし上は此ままに鎮座せしむ可し、宇出津を守護すること尚舊の如くなるべしとありしを以て、別に京都祇園社の神礼を乞いてこの寺の祭神とせりといふ。」とあります。観音寺については古文書「宇出津村草高覚」には「観音寺明暦二年(1656年)退転仕候」、安永六年(1777年)記の「能登名跡誌」に「元観音寺とて今は寺無く観音塚と云〜今は祇園会の御旅所也」とあり、祭礼成立時にはすでに寺は無く、跡地が御旅所であったことが解ります。また、宇出津天徳寺の秘仏千手観音は行基の作で観音寺の本尊であったと伝えます。あばれ祭りは一つの故事を元として成立したものではなく能登に数多い漂着神信仰、古来よりの観音寺信仰など様々な土着信仰を元としたうえで疫病退散を願う祇園信仰が加わり、傑物とされた十村役・桜井源五がとりまとめ、成立させたものでないかと考えられます。付則ではありますが、隣の旧柳田村柳田地区で小さな祭礼をまとめ白山神社の寄合祭りとして柳田大祭を成立させたのもこの桜井源五とされています。まだ中世的風俗の強かった能登における藩法展開のため加賀前田藩より遣わされた桜井源五は神社の統合・祭事の奨励による民心の結集を行い中世的村落の近世化を試みたものではないかと考えられます。

「約330年前の寛文年間(1661〜1672)、当地に悪病が流行したため、京都の祇園社から牛頭天王を勧請。盛大な祭礼を始めたところ、神霊と化した青蜂が悪疫病者を救った。喜んだ地元の人はキリコをかついで八坂神社へもうでたのが始まりとされている」

 上記が、現在公式にあばれ祭りの起源由来とされている説です。しかし、古来伝えられた伝承は、先に記載したとおりで、実は年代などなにもわからないのです。唯一わかっているのは、「十村役だった桜井源五が京都から祇園を勧誘した」とのことでした。この桜井源五が宇出津へ赴任してきたのが寛文4年(1664年)なのです。しかし、ここに実はトリックがあります。実は桜井源五を名乗った人物は、この初代桜井源五の他に、孫の3代目桜井源五(元禄8年没)、その孫の五代目桜井源五がおり、この五代目の代、宝暦6年(1756年)におこった百姓一揆の責を問われ内浦町松波へと転住しています。この3人の桜井源五のうち、誰が伝承される桜井源五なのか、実はまったくわからないのです。しかしそこは「宇出津の祭りだら」、昭和40年、強引に初代桜井源五が勧誘したのだということにしてしまい、「300年祭」を執り行いました。そこから、上記の由来が公式とされたのです。もちろん、初代桜井源五で間違いないのかもしれません。ひょっとしたら、実は5代目桜井源五の時代の話で、200年前の話なのかもしれません。事実は、多分もう絶対にわからないでしょう。しかし、今日現在まで祭りが伝えられているのは事実であり、それはそれでいいと思います。

昭和38年、浜小路の若いもんギリコの写真です。余力のあった町内は、
一町内で複数のキリコを出しました。2台目のキリコにでさえこの人足と
子供の数!よく見ると、立ち乗りさえ出来ずに台に乗りきれない子供は
カタネ棒の上に乗っています。まだ、「過疎」などという言葉のなかった
時代です。

この鳳至郡誌には、もう1つこの祭りについての記述がありますので記載します。

6月祭は八坂神社の祭禮にして、今七月六七日に行はる。切籠と称する奉燈を出し、昼夜の別なく各町随意に之を担いで練り廻る。其の数多き時は30余に及び、敢て神輿に随行するに非ず。神輿は六日の夕から巡幸し、富家に担ぎ込みて酒を飲む。酔えば其所に放置し、醒むれば次の家に運ぶ。時に路上に遺棄したるままのことあり。かくて八日の夜中にいたりて還幸し、社殿を破壊せんばかりに騒擾す。蓋しかくせざれば神怒に触るといへり。現時は神輿を2台とし、一は酒垂神社氏子中を巡り、他は白山神社の氏子を巡ることとせり。

結構だらしない祭りだったようです(笑)。キリコは当時、町内に神輿が巡ってきた際に担ぐものだったようです。現在7日の晩に行われる大松明行事は、昭和25年よりおこなわれるようになった行事で、それ以前は浜小路や中島町などの町内が独自で行っていた行事でした。この行事を全体で行うようになって祭り全体がシャキッと締まった感があるといいます。

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